中国で大ヒット 旭日陽剛(旭日阳刚)の春天里

日経新聞に次のような記事があったので早速視聴してみると、いい楽曲だと思った。これは、チャイナブルースだな。

中国の出稼ぎ労働者バンド、社会の悲哀熱唱

カーテンがはがれた粗末な部屋に、丸刈りに上半身裸の男が2人。1人がギターを激しくかき鳴らし、たばことマイクを手にした別の男が思い入れたっぷりに声をからす――。中国で出稼ぎ労働者(農民工)出身の素人バンド「旭日陽剛」が注目を集め、インターネット上の動画の閲覧回数は100万回を超えた。
「お湯をいつも使える家には住めない」「頼るものが何もない年寄りにしないでくれ」。河南省出身の44歳と中国東北部出身の29歳の2人が歌うのは、成功した男が貧しくも楽しかった過去を振り返る姿を描く「春天里」。数年前にある歌手が発表したが、貧しい農民工の熱唱により社会の格差や悲哀を嘆く歌へと印象を変え、人気が沸騰。14日には本家の歌手のコンサートに招かれ、8万人の観客の前で歌声を披露した。
過酷な生活に身を置く農民工だけでなく、物価高騰などに悩む都市住民の人気も集めた。江蘇省社会科学院の陳頤・社会研究所長は中国メディアに「2人が現実と理想の巨大な落差を歌ったことで、人々の間に公正な社会の実現を求める機運を呼び起こしている」と指摘している。
動画サイトには共感の書き込みが後を絶たない。「同じ下層社会に暮らす2人の歌声に心が震えた」とある農民工。都市住民は「開発を支える農民工が受ける報いはあまりに少ない」と指摘。「我々も働くほどに貧しくなる社会の辛酸を味わっている」と訴える会社員もいた。(北京=尾崎実)

粗末な作りの部屋での熱唱、途中で列車が走ったり、近所のおばさんの声なども入っていて、臨場感たっぷり。立派なスタジオ設備がなくても、素材が優秀なら、ビデオ投稿でも十二分にヒットがねらえるということかな。

赤軍‐PFLP 世界戦争宣言

せんだいメディアテーク7階スタジオシアターにて鑑賞しました。若松孝二監督が来仙するということもあり、どんなものかと思い鑑賞した次第です。

鑑賞したとたんに睡魔が襲ってきたのにはびっくりしました。憑依でもされるのか(最近読んだ憑依関連の書籍では、霊が立ち寄るときには眠くなると言うくだりがあったので)と一瞬思うぐらいのかなり強い睡魔でした。実際このような睡魔に襲われたのはしばらく前に鑑賞した打楽器だけのコンサート以来です。打楽器のコンサートも異常に眠くなりましたね。ちなみに愛読書彼岸の時間の235頁に太鼓について書かれています。ご参照下さい。実際のところ、睡魔の原因はわかりません。

太鼓ほおそらく人類最古の楽器で、シャーマンがトランス状態に入るために、なくてはならない小道具であった。だから、中世のヨーロッパや社会主義時代のモンゴルでは、太鼓を所持すること自体があたかも「麻薬」を所持するかのように禁止されたのだ。太鼓からはじき出されるメロディーのない単調なリズムは、日常的な時間の流れを停止させ、永遠に繰り返される〈今〉を刻み続ける。現代のコンピュータによる音声処理技術の発展は、個々の楽器というものの制約を超えて、理論上は無限の音をシンセサイズできる可能性を開いたが、その結果できあがってきた(「技術」を意味する)「テクノ」という音楽は、逆に、単調なノイズをリズミカルに繰り返すだけの原始的な音の連続であって、それはあたかも電子の太鼓のようだ。じっさい、「テクノ」や「トランス」という電子音楽は、現代の欧米や日本稼どの「先進国」の都市民による.レイヴなどと呼ばれるオルギア的な集団トランス儀礼には欠かすことができない。そこではシャーマンが太鼓を叩く代わりに、DJがレコードを回し、その電子音を大音量でスピーカーから流し、入々は、ときにサイケデリックスを服用しつつ、集団で夜通し踊り狂う。

さて、赤軍‐PFLP 世界戦争宣言 については、アマゾンの内容説明とレヴューがおもしろい。

アマゾンのレヴュアーで、「どうしても理解に苦しむのは、パレステナを解放するために何故、赤軍のメンバーがイスラエルを攻撃しなければならないのか、という点に尽きます」とあったが、それはそうだなとは思う。時代の流れというものがあったんだな。

また、ちがうレヴュアーが「ヨルダンでの山岳訓練を撮了後、若松たちはゲリラのコマンド部隊に促され早々に下山、その直後、部隊はイスラエル軍の急襲にあい壊滅させられたとの事。」と書いているが、そうすると映画に出演していた方々はみな死んでしまったのかと思いつつ、妙なリアリティを感じてしまったな。

また、画面に文章がアナウンスを補完するように大きな文字で表記されるのだが、これを睡魔に襲われながらみていたら、「ああ、アニメのエヴァンゲリオンはここから来ているのか」と思いつきました。映画の中での山岳訓練の様子、銃を取り扱うところがいろいろな角度から撮影されているのだが、それもエヴァンゲリオン風だな思った。実際のところはわかりませんが。

ちなみに、来客数は16名。団塊の世代がほとんどでしたが、妙に若い女性が数名いたな。なんなんだろうか、とは思ってしまいました。

生死同源 篠原佳年

高血圧治療のため4ヶ月おきに病院に通っていますが、だいたい半日つぶれますね。おかけで、なかなか読み終えなかった本、生死同源が読めました。著者の篠原佳年氏の大ファンで、生死同源の著者略歴に紹介されていた著書、意識の扉を開けて、快癒力、快癒力2、治癒力創造、絶対想像力、絶対成功力、モーツァルト療法、奇跡の聴覚セラピーはほとんど読んでいますが、この本を含めて、すべて読みやすくためになるものばかりです。

今回の生死同源は、いままで、みえなかった著者の生活環境などに言及されており、これまでの著書の背景を窺うことができます。先天性失語症の息子さんがおられて、さらに奥さんが心の病におかされる。子供時代をみれば、厳格な両親の基で、苦しい生活を余儀なくされていた。病気の時を見計らってほしかった品をねだっていたというような事も紹介しています。

診療に自身の気を利用してみたり、サイババや霊能者をたずねることもしています。不思議な体験を重ねてもいるのです。そういった事柄にもページを割いているのが今までとはちがっているところでしょうか。

また、聴覚セラピーやモーツァルト療法などにみられる新進の医療知識の紹介も彼の得意とするところですが、今回は眼球の光彩ですか、目は口ほどにものをいいというわけではありませんが、光彩には遺伝子などのすべての情報がリアルタイムで表現されているということが紹介されています。

売れている本のためか、中古本は安く手に入ります。アマゾンでは一円から出品されていますし、ブックオフでは105円。私はブックマーケットで50円で購入しました。

ということで、今回は本書198頁の時間は脳がつくりだしたトリックをご紹介しましょう。

「今、自分はここにいる、という意識とは何か」

誰でも人にはライフワークというものがあると思いますが、私のライフワークめいたものの核心は、この一点にあります。「時間」の謎解きとでも三口ったらいいでしょうか。

医者をしている私は、いわゆる健康法を人様に教えるために、本を書いたりする活動をしているわけではない。「五感から心にアクセスしよう」「自分に気づきましょう」1その提案には私なりの経験からくる理由はあっても、それだけの論拠で「健康革命」と言っているのでもない。

前にも触れたように「病気を治す」には「病気も健康も気にしない生活」が大切なのですが、では「生きる」とは何なのかというと、それは「時間」と「空間」を「生きる」ということ。そう考えているわけです。

振り返って、私たちは、余りにも「時間」について無頓着すぎたのではないかと思います。「時間」の観念がなく「時間」の日常性に埋もれて、しかも「時間」に追われる。こうした現代人の生活こそが、病気を果てしなく再生産させる、元凶なのではないか。

たとえばこのように病気について考えるとき、いつも「時間」というものが、付きまとうのです。あるいは「過去のストレスが病気を招いた」と、ある患者さんに認識してもらおうとします。

それは、今のメガネで「過去のストレス」と思っているわけで、「今」の解読次第で過去の物語が変わるのです。その「今」という感覚に、我々は[日覚めるべきではないか。

「今、ここにいる」

という原始的な現実感覚を人から失わせた「時間」というものの何たるかに、自分なりの回答を出してみたい。それが私にとって「生きる」ことと同義になりました。

以前、寿命ということについてしばらくの間、考えていましたが、私は結局、人間の百年の一生も、蜻蛉の一日も変わらないという結論に達しました。

これを考える経緯にも「時間」という難題が鍵になりました。

「時間」と脳の関係と言いましょうか。まず人間が何かを考えるときに、思考はひとつしか浮かんでこない、これは経験上、分かります。では同時に複数が浮かんだとしたら~それは「時間」がズレて感じられるだけのことではないか。私はそう考えました。

そうだとすれば、生きるということは脳の営みにすぎない。

なぜなら、私の人生が百年あったとして、それは脳というスクリーンに浮かぶ思考がひとつずつだから百年かかるだけなのであって、一瞬で百個を浮かばせる複数のスクリーンを持っているなら、私たちの人生は一瞬で終わることになる。

人間の思考白体の回路が単線であるがゆえに、また脳のスクリーンがひとつであるがゆえに百年かかるのだとすれば、寿命が百年だろうが一年だろうが、一生には変わりがない。私はそう考えたのです。一生に変わりがないならば、たとえ一年しか生きられない子がいても、たとえ五体不満足であっても、嘆き悲しむこともない。

私が身内の癒気という悩みから立ち直れたのも、「時間」の問題を解いていく過程で、そうした考え方に辿り着いたからだったと思います。

昏睡状態の人と対話する

昏睡状態の人と対話する―プロセス指向心理学の新たな試み (NHKブックス)読みました。取っつきにくいですが、おもしろい本でした。

私の親父も、おふくろも昏睡状態をしばらく続けてから死にましたが、その前にこの本を読んでれば、とは思います。非常に難しい本なのですが、この分野の研究は今後ますます必要になっていくと思います。

本の内容をひと言では説明できないのですが、非常に重要だと思う箇所をご紹介します。

P182~
ニューヨーク医科大学の神経学教授.ジュリアス・コリーンはこう語っている。
死の瞬間などというものは存在しない。その瞬間は法律上の構成概念である。心臓血管の停止による死を見てみよう。心臓が停止する.医師が心音に耳をそばだてる。それが死の瞬間だったのだろうか?近代的設備を用いれぱ、心臓が停止してから40分もの間、心臓の電気的活動の徴候を探知することが出来るのだ。死の瞬間ばフィクションにすぎない.
昏睡状態の人とのワークは、倫理的な疑問や、所与の常識的な見力に抵触するものである。生とは、死とは一体なんだろうか?私の定義は経験的なものである。生と死は、瞬間ごとに当人によってのみ定義され得る。
たとえばサムのケースである。彼は脳幹にダメージを負い、持続的な植物状態で数週間寝たきりだった。重度の発作によって全身か麻揮してからは、彼は誰にも反応を示すことはなかった。サムの家族は、彼との交流を断たれたことで苦しんでいた。彼らはまた彼を生かしたままにしておくことで、罪の意識にもさいなまれていた。というのも発作が起きる前、サムは仮に櫨物状態に陥るようなことがあれば、いたずらに命を長引かせることがないようにと子どもたちに告げていたからである。エイミーと私は、昏睡状態にある彼と即座にコンタクトを取った.数秒後、彼は昏睡状態から覚醒した様で、私たちの目をじっと見つめた。
彼は微かではあるが、はっきりとした目の動きによって私たちとコミュニケートすることができた。彼の姿勢はかたまったままだったので、私たちは彼の痙攣する手とワークすることにした。彼の震える手は、私たちの手をすぐにぐっと握りしめた。私は彼と「バイナリー・コミュニケーション・システム(訳注-イエス、ノーを通じたコミュニケーションの方法)」を通しての「対話」を試みた。彼の顔の筋肉にそっと手を触れ、質問に対する反応として顔の筋肉がどのように痙攣するかを感じ取ろうとしたのだ。四時間以上にも及ぶ介助の末、彼は学習することが出来そうだという徴かな兆しを見せた。忍耐強く頑張れば、収縮し痙攣している側の手が、ぐったりと弛緩している方の手に動く術を伝えることが出来るようだった。
初めのコンタクトを確立したあとエイミーと私とサムは、7章、8章で紹介したコミュニケーション・モードを用いて、サムの顔の筋肉の痙整をバイナリー・モードのコミュニケーションに使えるところまでなんとかたどり着いた。口の周りの筋肉が癖攣した場合、質問に対する答えは「イエス」。痙攣しない場合、質間に対する答えは「ノー」である。
私たちはやっとのことで彼の家族を困らせていたある質問を彼に尋ねることができた。
「君は生き続けたいのかな?」私は彼に尋ねた。彼は即座に返答した。彼は顔をしかめただけでなく、口をいっぱいに開いたのだ!これははっきりと「イエス」を意味しており、彼は生きることを望んでいたのである。
この時点まで、サムはまったく口を開けることなど出来なかったのにである。彼はあくびもほとんど出釆なかった。私たちは同様のバイナリー・システムを用いてさらに質問し、より多くのイエスまたはノーの答えを得ることができた。サムは内的なプロセスを完了するために、生きようとしていたのである。私たちは彼の内面で進行しているプロセスを手助けするためのインナーワークの方法を伝えた。彼はインナートリップの最中にあることを伝えてくれた。彼はファンタジーの中の山に登ろうとしており、そこで未知の女性と出会うところだったのである!彼はその数カ月後にこの世を去ったが、白らの内的な旅を完了するために時間を必要としていたことは明らかだった。
生き続けたいという欲求は誰もが抱くわけでもない。ロジャーのケースがそうだった。私はそれまで彼には一度も会ったことはなかった。彼は慢性的なアルコール依存症患者で、その時には脳幹にダメージを負っており、数週間にわたって持続的な植物状態に陥っていた。
質問「サムに用いたのと似たような方法を用いての)に対する彼の答えは「ノー」だった。それがあきらかになるや医療スタッフは私たちのワークがまるでなかったかのように、ロジャーの親族の一人と相談して、数日以内にライフサボート・システムを取り外すことを決定した。
この場合、医療システムサイドの思惑が、植物状態の患者と一致したわけである。
死の倫理とは、一人一人に自分白身で決定を下すチャンスを与えることである。臨死状態におけるドリームワークとボディ・ワークの向かうべき方向ははっきりしている。私たちは深い無意識状態から送られてくるシグナルを展開する技術を身につけるべきなのだ。そうすることで、患者自身の手に人生の選択を下す力を委ねることができるのである。
変性意識状態に光をあて、それにもっと白覚的になることで、現実に対する私たちの文化的信念の基盤は変わっていくように思われる。人生はもっと楽しいものになり、死は以前ほど間題ではなくなるのではないだろうか。
植物状態は、自己探求へと向かう私たちの衝動を促進させようともくろむ非常に特殊な夢なのである。私たちの内側で息をひそめていた、この生の最大級のブラックホールにおいて、全生命が完了と目覚めを求めている。この親点からすると人生は白らを理解するための探求であり、私たちの能力の普遍化と全体化を目指すものである。それゆえ、生きている間にあたたかだった人は、死に臨む際には、宇宙に棲む神々しいばかりの愛に満ちた神性を体現する。ピーターのようなロマンティックな魂は、彼の住む町の人たちに新しい関係性を示すメッセンジャーへと変容するだろう。
今回お話しした昏睡状態のワークは、死と死に向かうことについて広くいき渡っている既存の認識に、実践面をつけ加えるものである。命に関わる病気が死のきわで表す症状は、光明につながる道なのだ。身体から発信されるシグナルは、それがいつ現れるかに関わりなく、自覚を探し求めている夢なのである。こうしたシグナルがそのプロセスに沿って展開される時、痛みや病的状態はやわらぎ、私たちが生きているこの世界が素晴らしい場所であることを思い出させてくれる。
アジア、ギリシア、メソポタミア、ローマ、ユダヤ、キリスト教、ゾロアスター教、イスラム教の伝統は、忘れ去られた大文字の自己(Self)へと向かう、私たちを待ち構えている旅のことを思い出させてくれる。だが今や道行は前より少しばかリクリアーになった。旅の道のりは、しばしばトランス状態や昏睡状態といった影の部分をさまよい、通り過ぎる。
とはいうものの、こうした変性意識状態を通過しつつある入が、トータルな自己に気づくためには、私たちの側の助けを必要としていることは心にとどめておかれるべきである。実際のところ、彼らは親密なコミュニケーションを求めているのである。多くの人が通常の愛情深い共感よりも、寄り添うような親密なコミュニケーションを好むのである.こうしたコミュニケーションなしには精神が激しく旋回し、荒れ狂う川の流れが海へとなだれ込む際の特別な瞬間が見逃されてしまうのである。
脳死の診断は、臨死状態にある人の成長のプロセスへの取り組みへ、さらにはかつて死後の世界と思われていた領域との交流へ向けてわれわれの自覚を促す。初めは、時の支配力と闘う無意識の身体のように思われていたものが、閉じられたアイデンティティから、より大いなる命に向けての白由を生み出すための歓喜に満ちた最後のダンスの試みであるかもしれない。それは文字通りの死ではない。今、私たちを悩ませている死は、別の観点から見れば、私たちの神話の誕生となっていくだろう。

迷える霊(スピリット)との対話

迷える霊(スピリット)との対話―スピリチュアル・カウンセリングによる精神病治療の30年を読みました。おもしろかったです。

このところ、精神病関連の書籍を読むことが多かったのですが、この本が一番腹に落ちました。べてるの家のいま精神病が消えていく―続・精神病は病気ではない神経言語プログラミング―頭脳(あたま)をつかえば自分も変わるについてお話をしたのですが、精神病が消えていくでは、先祖霊が精神病の原因になっていることに、正直違和感がありました。

迷える霊(スピリット)との対話では、さまざまな霊が精神病の原因になっているといっており、ページ数も多いので懇切ていねいな説明になっており、わかりやすかったです。アマゾンのレヴュー数も多く、評価も高いところからして、この本に好感を寄せたのは私だけではないと安心したところでもあります。

さて、本書は758頁に及ぶかなりの分量なのですが、巻末の訳者あとがきが非常に簡潔に説明しておりますので、紹介したいと思います。少々長いですが、ご勘弁。

入類更に残るスピリチュアリズムの一大金字塔

本書は、米国の精神科医力ール・ウィックランド博士が、異常行動で医学の手に負えなくなった患者を、特殊な方法で治療すべく悪戦苦闘した、三十余年にわたる記録の全訳である。

その特殊な方法とは、心霊研究の分野で”招霊実験”と呼ばれているもので、異常行動の原因は死者のスピリヅトの愚依であるとの認識のもとに、その患者に,博士が考案した特殊な静電気装置で電流を通じる。すると、その電氣ショックがスピリットにとってはまるでカミナリに当たったような反応を生じ、いたたまれなくなったスピリットが患者から離れる。

それをマーシーバンドと名のる背後霊団が取り押さえて霊媒に乗り移らせる。乗り移ったスピリットは大半がその事実に気づかずに、霊媒の目・耳・口を自分のものと思い込んで使用し、地上時代と同じ状態で博士との対話を交わすことになる。その問答を通じてスピリットは、現在の本当の身の上を自覚して患者から離れていく、という趣向である。

電気で追い出すだけでは、ふたたび取り憑く可能性がある。そこで、そうした愛と同情に満ちた説得によって霊的事実に目覚めさせることが肝要なわけである.これは、私は、究極の意床での“供養だと信じている。供養というと日本人は、習慣上“物を供える”という形式を想像しがちである。むろん,それも必要かも知れないが、その場合でも大切なのは、”どうぞ”という、丁寧な思いやりの気持であろう。その思いやりこそ供養の真髄なのであるから、必ずしも物を供える必要はないし、念仏を唱える必要など、さらさらないわけである。

さて、スピリットが患者に憑依するのと霊媒に乗り移るのとは、原理的には同じである。が、患者の場合は一個の身体(実際はそのオーラ。このあと解説する)を、患者以外の複数の意識体が勝手に使用するために、外面上は二重人格ないし多重人格がケンカをしているように見える。それをもって“発狂した”と言っているのであるが、霊媒の場合は入神(トランス)といって、霊媒自身の意識体をオーラの片隅に引っ込めた状態で、精神機能と言語機能を自由にスピリットに使用させることができるので、見た目には霊媒の身体ではあっても、精神的には完全にスピリットが再生したような状態となる。もちろん一時的であり、スピリットが去れぱ、霊媒は本来の自分に戻る。

念のために、トラソスと睡眠との違いを譬えで説明すれば、車の運転手が助手席にどいて、代って他の者にハソドルを握らせてあげるのがトランスであり、電源を切ってエソジソを停止してしまった状態が睡眠であると考えればよい。精神異常をきたす憑依は、トラソスの病的現象であり、複数の意識がハンドルを奪い合うために車が暴走するわけである。

ウィックランド博士の場合、その霊媒を務めたのが奥さんだったことが、この仕事を三十余年も続けることができた最大の要因である。実際の記録は本書の何倍もあったことであろう。博士は,その中から顕著な症例をいくつかの項目に分類して、一冊にまとめ上げた。それは必ずしも”うまく行った”ケースばかりではない。手に負えずに説得を断念せざるを得なかったケースもある。それがむしろ、本書の学術性を増していると私は考えている。

このたびの全訳に当たって私は、全体を構成している項目を削ることはしなかったが、各項目の中できわめて類似したケースが多すぎる場合-たとえば、同じスピリヅトが二度も三度も出てきて、内容も程度もほとんど同じようなことを述べている場合など-は、冗漫にならないように、その中でとくに顕著なものを選んである。もっとも、それも分量にすればごくわずかである。

そのほか、章の順序を入れ替えたり、二つの章を一つにしたりしたとごろもある。そうした配慮も含めて、責任はすべて訳者の私にあることは言うまでもない。

●「事実というものは頑固である」

さて、英国の博物学者で、ダーウィンと同時代のアルフレッド・ウォーレスは、博物学の研究のかたわら、心霊現象にも興味を抱き、各種の学術誌にこの研究成果を発表したことで、学者仲間から非難を浴ぴたが、「事実というものは頑固である」との名言を吐いて、断固としてその信念を貫き、生涯揺るぐことがなかった。”事実”なのだから、譲ろうにも譲れなかったのである。あくまでも学者としての良心に忠実だったということである。

英語の諺に“見ることは信ずることである”いうのがある。”百聞は一見に如かず”と同じことを言っているのであるが.私も、十八歳の時に物理的心霊実験会や招霊会に出席し、常識を超えた霊的現象を目のあたりにして、見えぎる知的存在の実在に目覚めた。いかなる反論も、あくまでもそれまでの常識をものさしとしたものであって、それでは未知の世界へ踏み込んで新しい真理を発見ずることは、永久に不可能であろう。百の反諭も一つの実証には勝てないのである。

ウィックランド博士は、その実証をこれほどの膨大な書物にまとめて、後世に残してくれた。残念ながら我が国には、私の知るかぎり、これに匹敵する学術的な記録はおろか、これに類するものもきわめて少ない。もっとも、学術的とは言えないが、貴重な資料と言えるものとしては、宮崎大門著『幽顕間答』があげられよう。天保十年の記録で、少し古い感じはするが、私はこれを現代風にアレソジして、『古武士霊は語る』と題して潮文社から出している。

世界にも稀な憑依現象を扱ったもので、興味のある方は是非ご一読をおすずめする。人聞の個陛が死者にも存続することを,これほど生々しく伝える現象を,私は他に知らない。きわめて冒本的な内容であるが、英米人にも予想以上に好評で、私自身の英訳によるA Samurai Speaks (侍は語る・Regency Press刊)として英国でも出版されている。

日本ではウィックランド博士が行なったような方法での除霊はまったくしないのかというと、実はむしろ日本の方が西洋よりも頻繁に行なっており、また病気や災厄を邪霊や因縁霊の仕業に帰して、除霊のためのお祓いいとか供養とかが盛んにーいささか形式的になりすぎてはいるがー行なわれている。

私の恩師の間部詮敦氏は、ふだんは霊媒を用いずに直接的に霊に語りかけて”迷える霊”を目覚めさせておられたが、どうしても必要性が生じた場合は霊媒を使用し、ウィックランド博士とまったく同じ方法で諭しておられた。私も、たびたびその現場に立ち合った経験があり、それが本書を訳す上で大いに役立った。読むだげで、その招霊会の雰囲気をほうふつとして窺い知ることができた。

●物的身体のほかに三つの霊的身体がある

さて、ウィックランド博士は、しばしば”オーラに引っかかって…”という言い方をしているが、ここで人体の霊的構成について、これまでに分かった範囲で解説しておきたい。

ここに紹介した二つのイラストはいずれも、米国で発行された霊能開発の指導書Expanding Your Psychic Consciousness by Ruth Welch (日本語訳『霊能開発入門』現在絶版)から拝借したものである。

第一図(七四八ぺ-ジ)は、人体から放射されているオーラで、磁気性のAと電気性のBの二種類がある。ふつうオーラという時は、Aの磁気性の方をさし、ウィックランド博士が言っているのも、このことである。

本来は、身体を保護する機能をもっているのであるが、精神的に過敏すぎたり、衰弱したり、悪質な感情の起伏が激しいと、調和が乱れて、似通った性質のスピリットの侵入を許してしまう。類が類を呼ぶわけである。

Bの電気性オーラは、真夏のかげろうのようにゆらゆらと動きながら、その触手で生命力の流れを探り、そこから生命の力ロリーを摂取する。

以上の二種のオーラで第二図(七四九ページ)の”幽体”を構成している。これを日本の古神道では和魂(にぎみたま)と呼んでいる。

その幽体と肉体とを包み込むように見えるのが”霊体”で、主に知的思考や理性的判断をつかさどる媒体である。イラストではきれいな卵形をしているが、これは完全に発達した時の、いわぼ理想の形であって、大半の入間はもっと小さくて貧弱である。これを古神道では幸魂(さきみたま)と呼んでいる。

いちばん外側を構成している”本体”は古神道で奇魂(くしみたま)と呼んでいるもので、よほどの入格者や霊覚者にしか見られない。平凡人は、ほとんどこの媒体を使用していないと思ってよいであろう。

●霊的身体は変幻自在、意のままに動く

このイラストを見る際に注意しなけれぽならないのは、これはあくまでも平面的に図解したものであって、実際には四つの身体が重なり合い浸透し合っていて、イラストに見るように内と外とに境目があるわけではないということである。

地上の人間には、このうちの肉体しか目に映らないので”身体”というと肉体のような一定の形をしたものという先入観を抱きがちである。しかし、肉体は地上環境という物的条件(その最大のものが重力)に耐えていくための構造となっているだけのことであって、そうした条件の世界から離れてしまうと、形体は不要のものとなる。

さきに紹介した『幽顕問答』は、切腹自殺した古武士の霊がある庄屋の若旦那に乗り移って、延べにして二十時間余りにわたってしゃべったものを書きとめたものであるが、その中に次のような問答が出てくる。

大門「切腹ののち.そこもとは常に墓所にのみ鎮まりたるか」

霊「多くの場合墓所にのみ居たり.切腹のみぎりは一応本国(加賀)へ帰りたれど、頼りとすべき所もなく、ただただ帰りたく思う心切なるが故に、すぐに墓所に婦りたり」

大門「本国へ帰らるるには如何にして行かれしそ」

翌「行く時の形を問わるるならば、そは、いかように説くとて生者には理解し難し。いずれ死せば,たちまちにしてその理法を悟るぺし。生者に理解せざる事は、言うも益なし。百里千里も一瞬の聞にて行くべし」

ウイックランド博士が、スピリットがいよいよ霊媒から去る時に、迎えに来ている身内のスピリットの存在を確訓させた上で、「その人たちのところへ行こうと心で思えば、それだけで行けるのですよ」と言う場面がよくあるが、これは右の古武士が言っていることと原理的には同じである。

●死後の世界にも段階がある

さて、ウイックランド博士は、死後の世界の構成については多くを語っていないが、実は第三図にあるように、三つの霊的身体に相応した霊的環鏡がやはり三つある。そして、内在する霊性が開発されるにつれて実在界へと近づき、地上の人間の想像を絶した光明と喜悦を味わうという。

ここに紹介したイラストは、英国のキリスト教牧師チャールズ・トウィーデール氏の著書News from the Next World(来世からの便り)から拝借したもので、この牧師の場合も、奥さんが霊媒能力をもっていたことが幸いした。ただし、こちらは自勤書記である。コナン・ドイルをはじめとする数人のスピリットに個別に同じ質問をして、その回答をまとめてこうしたイラストをこしらえたという。

時代も違えぱ国も違う二人の著者の指摘していることが、三つの身体と三つの界層という点でピタリ一致しているのは、きわめて重要なこととみるべきであろう。しかもそれが、日本の古神道の説とも一致しているのである。

ただ,このイラストを理解する上でも気をつけなければならないのは、これはあくまでも物質界という三次元の世界と次元を異にする環境を平面図で表現したものであって、図のような”仕切り”があるわけではないということである。

霊的身体の場合とまったく同じであって、地球と同じ位置に他の三つの界層が融合して存在しており、幽界の位置には霊界と神界も存在し、霊界の位置には神界も存在しているということである。
このイラストを見て興味深いのは、地球のすぐ外側にある中間境を”パラダイス”と呼んでいることである。仏教でいう”極楽浄土”に相当するところで、ここでは何もかもが思いどおりになり、病気もなく、金銭の苦労もなく、文字どおりの”極楽”なのであるが、実はそこは骨休めの”一時休憩所”のようなところにすぎず、本格的な霊界生活はそこを通過してから始まるらしいのである。
●霊界の落伍看-地縛霊
かくして人間は、”死”を一区切りとして地上生活を終えたあと、三つの霊的身体をたずさえてスピリットとしての生活を始めるのであるが、”迷える霊”とは、そのスタートの時点で地上的煩悩に引きずられて足踏みをしているもののことで、これを英語ではearth-bound spirits つまり”地球に縛られた霊”と呼んでいる。日本語では略して”地縛霊”と言っている。
毎日、続々として地上を去っていく人間の総数からすれば、そうした落伍者の数は知れている。大半の人間は、少しの迷いはあっても、親戚縁者や知人・友人の導きもあって、やがて霊的意識が目覚め、想像もしなかった生命躍如たる世界へと入っていく。
しかし、その少数の迷える霊の存在を決して軽んじてはいけない。こうした.”憑依”という形だけでなく、他のもろもろの、人間の想像を超えた形で、人間界の不幸や犯罪を増幅させているのは、ほかならぬ地縛霊たちだからである。
●”自分”とは何なのか
縞論として私は、そうしたスタートでつまずいて、さ迷いながら入間に迷惑を及ぼしている者も、あるいはあっさりと死を悟って次の世界へと順調に進んでいく者も、その意識の本体は、右に検証したように、地上にあっては肉体、ないしはその中枢としての脳ではないように、死後においても、イラストにある三つの身体ではないことを強調したい。
四つの身体は、あくまでも自我が使用する機関ないしは媒体であって、自我そのものではないということである。
以上、”あとがき”部分を紹介しましたが、次はこの本の目次を紹介しましょう。

第1章 除霊による精神病治療のメカニズム

●霊的要因による障害の危険性

●実例・死後も肉体に執着するスピリット

●霊媒による患者救済のメカニズム、

第2章 潜在意識説と自己暗示説を否定するケース

●招霊実験が物語る「真実」

●スピリットの生前の身元を確認

●“人格”として現れるスピリット

●バートソ夫人の憑依霊

第3章 地球圏の低界層と人間の磁気オーラから脱け出せないでいるスピリット

●死後なお生前の商売を続けるスピリット

●地縛霊による憑依

●死後、良心の呵責に苦しむ牧師

●英国王も愛した人気女優

●最後の憑依霊

第4章意識的・無意識的に人間に害を及ぼしているスピリット

●人間に憑依されたと思い込んだ憑依霊

●”逆上癖”の女性を救済したケース

第5章 犯罪および自殺をそそのかすスピリット

●肉体離脱後も残る”犯罪癖”

●マジソン・スクェアガーデン惨殺事件の真相

●ホリスター夫人殺害事件の真相

●人間を白殺に追い込む憑依霊

●突然首吊り白殺した女性のスピリット

●身重女性殺害事件の真相

●白殺した映画女優の警告

●恋人と心中した男性のスピリット

第6章 麻薬・アルコール中毒、記憶喪失症の原因となっているスピリット

●魂の深奥まで冒す麻薬の恐ろしさ

●モルヒネ中毒死した女性とその夫

●麻薬中毒を克服したスピリットの警告

●死後も酒に執着する酔っぱらい

●記憶喪失患者の憑依霊

第7章慢怪病の原因となっているスピリット

●除霊で背骨痛から解放された女性

第8章 孤児のまま他界したスピリット

●家族を知らないまま他界したケース

●霊界の浮浪者・アンナ櫛

●スピリットが少女を算数嫌いに導いた

●霊界の”家なき子”

第9章 物欲のみで霊的なものに関心を示さなかったスピリット

●妻に自殺を促す唯物的現実主義者

●倫理に無感覚だった人間が陥りやすい例

第10章 うぬぼれ・虚栄心・野心・利己心が禍いしているケース

●タイタニッグ号事件で他界した男性

●幸福とは無縁だったと嘆く上流階級出身者

●死後も”美”に執着する女優

●死後、親友の身体に憑依したスピリット

第11章 地上時代の信仰から抜けきれずにいるスピリット

●死後も白己暗示状態から脱け出せない”狂信者”

●間違いだらげの信仰の犠牲になった少女

●誠実なメソジストだった身障者

●霊的事実に無知のまま他界した牧師からの警告

第12章地上時代の信仰の誤りに目覚めたスピリット

<クリスチャン・サイエンスの場合>

●クリスチャン・サイエンスの信徒の証言

●クリスチャン・サイエンスの教祖の懺悔

●”死”んでなお教祖に傾倒する狂信者

●クリスチャン・サイエンスの教祖の懺悔-その二

第13章 誤った再生思想に囚われているスピリット

<セオソフィーの場合>

●再生を信じて子供に緑依するスピリット

●セオソフィスト・ウィルフヅクスの霊界からの報告

●ドクター・ピーブルズ、地縛霊を前に語る

●輪廻転生説の誤りに気づいたブラバツキー

第14章 実在に目覚めたスピリットからの助言

●スピリットの語る”死後”の世界

●アダムズ博士の地上人への警告

●妻の背後霊が語る”生命の実相”

●妻の友入が語る”肉体から霊体ヘ”

●幼児期に他界したスピリットの警告

●アメリカ・インディアンの霊的生活

●スピリヅト劇団の演じる道徳劇

●本書の産みの親ともいうべき高級霊からのメッセージ

第15章 二つの世界の相亙関係

●可視の世界と不可視の世界

●否定しがたいスピリットの実在

●霊の世界と物質の世界の租互作用

●憑依現象に関する記録

●精神病とスピリットの憑依

●霊媒による精神病患者救済の有効性

終章

[訳者あとがき]

人類史に残るスピリチュアリズムの一大金字塔

続いて、具体的に、対話を一つ紹介しましょう。

地球圏の低階層と人間の磁気オーラから脱け出せないでいるスピリット 125-231

未熟な霊は、永年にわたって地球圏を当てもなくうろつきまわることがよくある。

自分の身の上についての理解が得られないために、すぐ上に、より次元の高い世界が広がっている事実に気づかず、混乱と単調と苦痛の入り交じった陰鬱な生活を続けている。

地上時代と同じ情景の中にいて、生前と同じ仕事を続けている者もいれば、深い睡眠状態に陥ってしまって、なかなか目覚めない者もいる。

●死後なお生前の商売を視けるスピリット

シカゴにおける交霊会で、死後なおその事実に気づかないまま、生前と同じ商売を続けているスピリヅトが憑依してぎた。

「なぜ、こんな暗いところに集まっているのでずか。私は、名前をヘセルロスといい、ドラッグストア(薬のほかに日用雑貨も売っている店で、喫茶室まで付いているところもある-訳者)を経営している者です」開口一番、スラスラとそう言うのだった。

その時は部屋を暗くしていた。

このスピリットば前の年に病院で死亡したスウェーデン人で、シカゴでドラヅグストアを経営していた。サークルの常連は、彼について何ひとつ知識はなかったが、その夜は彼の生前の友人の一人であるエグホルム氏が出席していたので、その身元がすぐに確認できた。まだ自分の死の自覚がなく、今でもドラッグストアを経営しているつもりでいるようだった。

しかし実は、その店は当時の店員が買い取ったと聞いている、と出席していた友人が告げると、それをきっぱり否定して「彼は私が雇っているのです」と言った。

おもしろいことに、そのスピリットはそのころに実際に起きた強盗事件の話をした。三人組が押し入ったので度肝を抜かれたが、勇気を奮い起こしてピストルを取りに行った。ところが、ピストルを手に取ろうとして握りしめるのだが、どうしても掴めない。やむを得ず素手で向かっていって、三人の打ちのひとりをぶん殴った。しかし、なぜか”そいつの体を突き抜けて”空を切るばかりだった。どうしてだろう、と不思議でならなかったという。

そこで、われわれが彼の現在の身の上について語って聞かせているうちに、意識に変化が生じたらしく、自分より先に他界している大勢の友だちの姿が見えるようになり、その友だちに引き取られて、霊界での新しい生活へと入っていった。

ドラッグストアの持ち主が替わっていること、三人の強盗が押し入ったことは、その後の調べで事実であることが確認されている。

この場合、霊媒の潜在意識説もテレパシー説も通用しない。なぜなら、そのサークルの中でヘセルロスを知っていたのは、友人のユクホルム氏だけで、その友人も、ドラッグストアが他人の手に渡っている事実はうわさで知っていたが、その買い主は当時の店員ではなかったことが判明しているからである。

その後何年かして、再びヘセルロスが出現した。その時のやりとりを紹介する。

1920年九月29日

スピリット=ヘセルロス

霊媒=ウィックランド夫人

質間考=ウィックランド博士

スピリット「一言、お礼を申し上げたくてやってまいりました。暗闇の中から救い出していただき、今では、このマーシーバンドのお手伝いをさせていただいております」

博士「どなたでしょうか」

スピリット「あなたのお仕事のヘルパーの一人です。時折りこの交霊会に出席しておりますが、このたびは.一言、お礼を申し上げたくて参りました。かつてとても暗い状態の中で暮らしておりましたが、いまではあなたの霊団のひとりとなっております。あなたにとっても喜ばしい話ではないかと思いますもしあなたという存在がなかったら、私は多分、いまでも暗い闇の中にいたことでしょう。あれからなんねんもたっております。その間あなたを通じて、またマーシーバンドの方を通じて、生命についての理解が深まりました。

私が初めてお世話になったのは、ここではありません、シカゴでした。

今夜は、皆さんと一緒に集えて、とてもうれしく存じまず。地上時代の名前を申し上げたいのですが、もうすっかり忘れてしまったようでして。

何しろ何年も人から名前を呼ばれたことがないものですから。そのうち思い出すでしょう。そのとき申し上げます。

例の老紳士を覚えていらっしゃるでしょう?エクホルムといいましたかね?”老”をつげるほどでもなかったですが……。彼は地上時代の親友でして、彼との縁で皆さんとの縁もできたのです」

博士「シカゴでの交霊会でしたね?」

スピリット「そうです。私はシカゴでドラヅグストアを経営しておりました。そうそう、思い出しました。私の名は、ヘセルロスでした!つい忘れてしまいまして……。今ではあなたの霊団のヘルパーの一人でず。エクホルムもそうです。彼もよくやっております。喜んで、あなたのお仕事を手伝っております。地上時代でも、霊の救済のことで一生懸命でしたからね、彼は。

私は今こそ、一生懸命お手伝いずべきだという気持です。何しろ、あの時、皆さんに救っていただかなかったら、今ごろは相変らずあの店で薬を売ってるつもりで過ごしていたことでしょうね。

あのころは、死後まる一年くらいまでは、あの店を経営しているつもりでいました。地上時代と変ったところといえば、病気が治ったつもりでいたことくらいでして、死んだとは思っていなかったのです。店にいて病氣

になり、病院へ運ばれ、その病院で死にました。遺体は葬儀屋が引き取り、自宅にば運ばれませんでした。

ご承知のように、バイブルには”汝の財産のあるところに汝の心もあるべし”(マタイ伝6・21)とあります。眠りから覚めた時に、私が真っ先に思ったのは店のことでした。それで、その店に来ていたのです。経営状態はいたって順調にいっているように思えたのですが、一つだけ妙なことがありました。私がお客さんに挨拶しても、まったく反応がないことです。

私はてっきり入院中に言語障害にでもなって、言葉が出ていないのだろうくらいに考えて、それ以上あまり深く考えませんでした。

そのまま私は、ずっと店を経営しているつもりでいて、店員に意念でもって指示を与えておりました。経営者ばずっと私で,店番は店員に任せているつもりでした。そしてある夜、この方(博士)のところへ来て初めて、自分がもう死んでいることに気づいたのです。

例の強盗が押し入った時は、いつも引き出しに仕舞ってあるピストルのことを思い出して、そこへすっ飛んで行って握りしめようとするのですが、するっと手が抜け出てしまうのです。何かおかしいなと思ったのはその時です。その時からものごとを注意して見るようになりました。

そのうち、父と母に出会いました。とっさに私は、頭が変になったのだろうと思ったくらいです。そこで、エクホルムに会ってみようと思いました。彼はスピリチュアリズムに関心があり、私はそんな彼こそ、少し頭が

おかしいのではないかと考えていたのです。それで、幽霊というのは本当にいるものかを尋ねてみたかったのですが、なんと、自分が立派な幽霊になっていたというわけです。

そのあと、このサークルに来たわけです。皆さんと話をしているうちに、心のドアが開かれて、美しいスピリットの世界が眼前に開けたのです。その時の歓迎のされ方は、ぜひお見せしたいくらいでした。親戚の者や知人が両手を大きく広げて”ようこそ”と大歓迎をしてくれました。そのすばらしさは、実際にこちらへ来て体験なさらないことには、お分かりいただけないと思います。これぞ幸せというものだと実感なさいます。まさに

“天国”です。

そろそろ失礼しなくてはなりません。今夜はこうしてお話がでぎて、うれしいでず。あれから十五年ぶりですからね。エクホルムも誇りをもってお手伝いをしております。皆さんによろしくとのことです。

では、おやすみなさい」

以上、長くなりましたが、迷える霊(スピリット)との対話―スピリチュアル・カウンセリングによる精神病治療の30年の内容を紹介しました。分厚い本なのですが、わかりやすく読みやすかったので、さほど時間もかからず読み終わりました。