昏睡状態の人と対話する

昏睡状態の人と対話する―プロセス指向心理学の新たな試み (NHKブックス)読みました。取っつきにくいですが、おもしろい本でした。

私の親父も、おふくろも昏睡状態をしばらく続けてから死にましたが、その前にこの本を読んでれば、とは思います。非常に難しい本なのですが、この分野の研究は今後ますます必要になっていくと思います。

本の内容をひと言では説明できないのですが、非常に重要だと思う箇所をご紹介します。

P182~
ニューヨーク医科大学の神経学教授.ジュリアス・コリーンはこう語っている。
死の瞬間などというものは存在しない。その瞬間は法律上の構成概念である。心臓血管の停止による死を見てみよう。心臓が停止する.医師が心音に耳をそばだてる。それが死の瞬間だったのだろうか?近代的設備を用いれぱ、心臓が停止してから40分もの間、心臓の電気的活動の徴候を探知することが出来るのだ。死の瞬間ばフィクションにすぎない.
昏睡状態の人とのワークは、倫理的な疑問や、所与の常識的な見力に抵触するものである。生とは、死とは一体なんだろうか?私の定義は経験的なものである。生と死は、瞬間ごとに当人によってのみ定義され得る。
たとえばサムのケースである。彼は脳幹にダメージを負い、持続的な植物状態で数週間寝たきりだった。重度の発作によって全身か麻揮してからは、彼は誰にも反応を示すことはなかった。サムの家族は、彼との交流を断たれたことで苦しんでいた。彼らはまた彼を生かしたままにしておくことで、罪の意識にもさいなまれていた。というのも発作が起きる前、サムは仮に櫨物状態に陥るようなことがあれば、いたずらに命を長引かせることがないようにと子どもたちに告げていたからである。エイミーと私は、昏睡状態にある彼と即座にコンタクトを取った.数秒後、彼は昏睡状態から覚醒した様で、私たちの目をじっと見つめた。
彼は微かではあるが、はっきりとした目の動きによって私たちとコミュニケートすることができた。彼の姿勢はかたまったままだったので、私たちは彼の痙攣する手とワークすることにした。彼の震える手は、私たちの手をすぐにぐっと握りしめた。私は彼と「バイナリー・コミュニケーション・システム(訳注-イエス、ノーを通じたコミュニケーションの方法)」を通しての「対話」を試みた。彼の顔の筋肉にそっと手を触れ、質問に対する反応として顔の筋肉がどのように痙攣するかを感じ取ろうとしたのだ。四時間以上にも及ぶ介助の末、彼は学習することが出来そうだという徴かな兆しを見せた。忍耐強く頑張れば、収縮し痙攣している側の手が、ぐったりと弛緩している方の手に動く術を伝えることが出来るようだった。
初めのコンタクトを確立したあとエイミーと私とサムは、7章、8章で紹介したコミュニケーション・モードを用いて、サムの顔の筋肉の痙整をバイナリー・モードのコミュニケーションに使えるところまでなんとかたどり着いた。口の周りの筋肉が癖攣した場合、質問に対する答えは「イエス」。痙攣しない場合、質間に対する答えは「ノー」である。
私たちはやっとのことで彼の家族を困らせていたある質問を彼に尋ねることができた。
「君は生き続けたいのかな?」私は彼に尋ねた。彼は即座に返答した。彼は顔をしかめただけでなく、口をいっぱいに開いたのだ!これははっきりと「イエス」を意味しており、彼は生きることを望んでいたのである。
この時点まで、サムはまったく口を開けることなど出来なかったのにである。彼はあくびもほとんど出釆なかった。私たちは同様のバイナリー・システムを用いてさらに質問し、より多くのイエスまたはノーの答えを得ることができた。サムは内的なプロセスを完了するために、生きようとしていたのである。私たちは彼の内面で進行しているプロセスを手助けするためのインナーワークの方法を伝えた。彼はインナートリップの最中にあることを伝えてくれた。彼はファンタジーの中の山に登ろうとしており、そこで未知の女性と出会うところだったのである!彼はその数カ月後にこの世を去ったが、白らの内的な旅を完了するために時間を必要としていたことは明らかだった。
生き続けたいという欲求は誰もが抱くわけでもない。ロジャーのケースがそうだった。私はそれまで彼には一度も会ったことはなかった。彼は慢性的なアルコール依存症患者で、その時には脳幹にダメージを負っており、数週間にわたって持続的な植物状態に陥っていた。
質問「サムに用いたのと似たような方法を用いての)に対する彼の答えは「ノー」だった。それがあきらかになるや医療スタッフは私たちのワークがまるでなかったかのように、ロジャーの親族の一人と相談して、数日以内にライフサボート・システムを取り外すことを決定した。
この場合、医療システムサイドの思惑が、植物状態の患者と一致したわけである。
死の倫理とは、一人一人に自分白身で決定を下すチャンスを与えることである。臨死状態におけるドリームワークとボディ・ワークの向かうべき方向ははっきりしている。私たちは深い無意識状態から送られてくるシグナルを展開する技術を身につけるべきなのだ。そうすることで、患者自身の手に人生の選択を下す力を委ねることができるのである。
変性意識状態に光をあて、それにもっと白覚的になることで、現実に対する私たちの文化的信念の基盤は変わっていくように思われる。人生はもっと楽しいものになり、死は以前ほど間題ではなくなるのではないだろうか。
植物状態は、自己探求へと向かう私たちの衝動を促進させようともくろむ非常に特殊な夢なのである。私たちの内側で息をひそめていた、この生の最大級のブラックホールにおいて、全生命が完了と目覚めを求めている。この親点からすると人生は白らを理解するための探求であり、私たちの能力の普遍化と全体化を目指すものである。それゆえ、生きている間にあたたかだった人は、死に臨む際には、宇宙に棲む神々しいばかりの愛に満ちた神性を体現する。ピーターのようなロマンティックな魂は、彼の住む町の人たちに新しい関係性を示すメッセンジャーへと変容するだろう。
今回お話しした昏睡状態のワークは、死と死に向かうことについて広くいき渡っている既存の認識に、実践面をつけ加えるものである。命に関わる病気が死のきわで表す症状は、光明につながる道なのだ。身体から発信されるシグナルは、それがいつ現れるかに関わりなく、自覚を探し求めている夢なのである。こうしたシグナルがそのプロセスに沿って展開される時、痛みや病的状態はやわらぎ、私たちが生きているこの世界が素晴らしい場所であることを思い出させてくれる。
アジア、ギリシア、メソポタミア、ローマ、ユダヤ、キリスト教、ゾロアスター教、イスラム教の伝統は、忘れ去られた大文字の自己(Self)へと向かう、私たちを待ち構えている旅のことを思い出させてくれる。だが今や道行は前より少しばかリクリアーになった。旅の道のりは、しばしばトランス状態や昏睡状態といった影の部分をさまよい、通り過ぎる。
とはいうものの、こうした変性意識状態を通過しつつある入が、トータルな自己に気づくためには、私たちの側の助けを必要としていることは心にとどめておかれるべきである。実際のところ、彼らは親密なコミュニケーションを求めているのである。多くの人が通常の愛情深い共感よりも、寄り添うような親密なコミュニケーションを好むのである.こうしたコミュニケーションなしには精神が激しく旋回し、荒れ狂う川の流れが海へとなだれ込む際の特別な瞬間が見逃されてしまうのである。
脳死の診断は、臨死状態にある人の成長のプロセスへの取り組みへ、さらにはかつて死後の世界と思われていた領域との交流へ向けてわれわれの自覚を促す。初めは、時の支配力と闘う無意識の身体のように思われていたものが、閉じられたアイデンティティから、より大いなる命に向けての白由を生み出すための歓喜に満ちた最後のダンスの試みであるかもしれない。それは文字通りの死ではない。今、私たちを悩ませている死は、別の観点から見れば、私たちの神話の誕生となっていくだろう。

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