キャタピラー /若松孝二 寺島しのぶ

キャタピラー、見てきました。予想以上によかったですね。

映画を見たあとにヤフー映画を読んだのですが、映画レポート「キャタピラー」単なる反戦映画を超えた哀しくも酷い性愛のスペクタクルは全く間違っていますね。宣伝用キャッチコピーとしては使いたくなるけど、嘘はいけないよね。

映画館のチラシの裏面に書かれた感想のなかでは、おすぎと周防正行氏が素直だったかな。

おすぎ:若松監督の訴えたいことが心の底からわかる映画です。身体の自由が思うようにならない夫と介護する妻のふたりの切なさ、ツラさを思い涙が止まりませんでした。全国民必見の一本です。

周防正行:単なる反戦映画ではない。戦争がもたらす悲惨を通じて、深く人間を洞察しようとする映画だ。若松孝二監督の並々ならぬ思いを真っ向受け手立つ寺島しのぶの強さと美しさに圧倒された。

前の映画『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』でも感じたのだが、若松孝二監督のまなざしは優しい。「キャタピラー」も酷な作り方もできたのだろうが、していない。

たとえばセックスシーン。女優が寺島しのぶ、相手が胴体と頭だけ。いかようにもできるシーンなのだが、普通の夫婦の性描写をし続けている。夫婦の日常の性生活ほど見ておもしろくないものはないだろうと思うのだが、それが続く。だからおもしろくはない。しかし夫婦の臨場感は増す。

他の登場人物も、素直にまじめに撮っている。結果的に戦争の醜さがあぶり出されてくる。これが映画でしょう。

惜しむらくは、エンタテメイント性に若干欠けていたかなとは思うのだが、ここはよく考えてもらいたい。つまり、戦争映画のほとんどがエンタテイメントを前に押し出したものだということだ。それは反戦映画ではなく、むしろ好戦映画。そこを勘違いしちゃ、いけませんぜ。

瞑想体験 #6 光の前で躊躇するということは

光の中に入ることに躊躇するということは・・・。

などと考えつつ家の中を歩いていたら、本棚にぶつかって、落ちてきた本が一冊。

流体感覚-吉福伸逸、対談集でした。ぱらばらと読み始めたら、冒頭の松岡正剛氏との対談「アルタード・ステイツと自己編集」で、アルタード・ステイツ(変成意識、同名タイトルの映画も創られた)を説明しているのだが、この「アルタード・ステイツ」を「瞑想の光の中に入る」と読み替えることもできるかななどと考えてしまった。

光の中に入る=自分を明け渡す瞬間

本書10頁より始まる箇所を以下に引用しますので、興味のある方はご検討下さい。

アルタード・ステイツと自己編集
変成意識と治癒力

吉福◎・・・今日は「アルタード・ステイツと自己編集」というテーマで松岡さんと話をするわけですが、ぼくがアルタード.ステイツという概念を出したときに、自己編集という概念を対置して出されたのはセイゴオさんです。

松岡◎・・・ぼくはアルタード・ステイツというのも好きなんですけどね。

吉福◎・・・ぼくたちはどうもそういう異常性が好きみたいですね(笑)。アルタード’ステイツというのは、日本語では「変性意識」というふうに訳されている概念なんですね。1960年代に出てきた言葉です。

松岡◎・・・最初は誰が言い出したんでしたっけ。チャールズ・タートだったかな。

吉福◎・・・タートが定義だけしたのが最初だと恩います。それまでは、西欧の心理学にしろ宗教にしろ神学のようなものしろ、アルタード・ステイツという概念にあてはまるような概念はあまりなかったという気がするんです。

松岡◎・・・ないかもしれないですね。正確には、やはり神がいる時代には変成意識にあたる言葉があったのかもしれないけれども、神なき時代になって以降はなくなったんでしょうね。

吉福◎・・・そうね。セイゴオさんがおっしゃるように、神という概念とのからみでは十分にそれに該当する概念がありえたと思うんです。探せばどこかにあるかもしれないけど、広くは使われていないと思いますよ。

で、この変性意識という言葉がいったい何を意味しているかというと、基本的には非常に単純なことなんです.いまわれわれは目を醒まして起きていて、白分の存在に気づき、自分をとり囲む外界の存在にも気づいている。ある種の境界線をもって世界と触れ合っている。こういう意識状態のことを、一応「ノーマル・ウェイキング・ステイツ」と言う。「正常な目覚めた状態」というふうに呼びます。これを目覚めた状態と呼んで、それ以外の状態はすべて変性意識だ、というのが基本的な変性意識の定義です。ということは、眠っている状態、夢見の状態、あるいは半睡半眠の状態、そのほかにもアルコールに酔っている状態、サイケデリックスを摂取した状態、極度に睡眠を剥脱した状態、さらには感覚の過剰刺激を受けている状態、感覚が剥脱されている状態のようなものも、すべて変性意識状態というふうに定義上はいわれていると思うんです。

松岡◎・・・そんなに広かった?

吉福◎・・・タートの基本的な定義では、まずそうやってテクニカルに定義しまして、その上で、さらに「状態特定性」という言葉をもち出してきて細かく分けていくんです。ぼくが今日、あえて取り上げたいと思っている変性意識状態というのは、そこまで広い概念ではなくて、一般に神秘体験であるとか、宗教体験であるとか、あるいはトランス(憑依)状態であるとかと呼ばれるような、ある種合理的な白己統制が外れてしまって、意識そのものがそれ字体のセルフ・オーガナイゼーション(白己組織化)をおこしていく状態についてなんです。

松岡◎・・・その途中の、差し掛かりというんですかね。

吉福◎・・・差し掛かりでもいいですが、そのあたりをぼくは重視しているんです。変性意識にもさまざまなものがあって、中には退行現象(リフレッション)と呼ばれる、幼児回帰していく状態もありますし、さらにはより成長して行くような状態もあります。しかし、変成意識状態はどんな状態であれきわめて治癒的ですから、ぼくはそれを区別する必要はないと思うんです。事実、各種のセラピーの現場などでは、変成意状態は非常に高い治癒力を持っていて、退行現象であれ幼児化であれ、あるいはどんなネガティブなものでも有機体には益になるようにはたらくことがあるんです。

松岡◎・・・ガタリにあったときに、彼はそういうネガティブというか、少し危ないアルタード・ステイツに関心を持っていると言っていましたね。「狂気」というものに積極的な意味を認める入たちは・アルタード・ステイツと狂気とは非常に近い関係にあるというふうに見るんだけれど、まあそのあたりは難しいところですね。

吉福◎・・・識別して、境界線を引いていくことは非常に難しいですね。で、さっきいったようにあらゆる変成意識状態は内容がどんなものであれきわめて治癒的な、ポテンシャリティを持っているという事実は見逃せないと思うんです。ただ、これまでの変成意識というもの対するアブローチの最大の間違いは、変性意識状態のおこる内容にこだわってしまう点にあるんですね。

松岡◎・・・そのヴィジョンとかにね。

吉福◎.,.そうです。ヴィジョンであるとか、その意識状態においておこるその入の特異な振る舞いとか、あるいは社会との適応力の激減状態とかね。そういったことにこだわってしまって、多くの人がその内容に驚異を感じる。例えば、一種の憑依状態なんかがおこって、目の前でトラに憑依した人が吠えて暴れ始めますと、やはり危険を感じるわけですよ。そういうかたちで、どうしてもその内容に目が引き寄せられていく。そのために、これは危ないって発想しやすいんですけど、変性意識状態の大切なポイントは、内容ではなくてその状態になることにある。そのことが当人にとって非常に必要なことであって、どんな内容であれその内容をすべて当人がきちんと体験しきることができれば、さっき言ったように強力な治癒のカになり得るんです。

そのあたりが、これまでの伝統的な心理学や宗教の、変性意識に対するアプローチの欠落点ですね。60年代以降になって初めて、重要なのは内容ではなくてそのプロセスなんだと考えて、しつかりとその変性意識状態を歩みきることの意味合いというようなものが知られるようになったわけです。

自分を明け渡す瞬間

松岡◎・・・アルタード・ステイツ』という映画が出てきて、ジョン・C・リリーが例のアイソレーション・タンクの中に入った体験という話が出てくる。あれも一種の憑依現象がおこる映画だったけれど、あれでずいぶん言葉は一般化しましたね。

吉福◎・・・いまセイゴオさんがおっしゃったように、あの映画はジョン・C・リリーを一つのモデルにしてつくられたものです。リリーという人は、フローテーション・タンクとか、サマディ・タンクとか、アイソレーション・タンクと呼ばれる、感覚を徹底的に遮断して、浮力の強いマグネシウム液に浮かんで無重力状態になる、隔離タンクを発明した人ですね。その隔離タンクの中にサイケデリックスの一種であるLSDを飲んで入るためにつくられたんです。あれはその中でおこった退行現象の一つですね。それを逆にたどつて映画にしたのが、あの『アルタード・ステイツ』という映画です。あれもアルタード・ステイツの典型的な現象の1つでしょうね。でも、あの映画でこの言葉は有名になったんだけれど、異様なものだというイメージも拡がってしまった。

松岡◎・・・ぼくはアルタード.ステイツというのは、さっき「差し掛かる」と言ったけれども、ポゼッションになったり、完全なトランス状態ももちろん含まれるんでしょうが、どうもその直前の状態がアルタード.ステイツだというふうにみていたんだけれども、実際にはそこまですべて含むんだね。

吉福◎:・全部含みますね。その変性意識状態に完全に入ってしまうと、白分を手離す、つまり明け渡す瞬間がやってくる。おこってくるプロセスに自分を完全に明け渡す瞬間というのは、非常にドラマチックな瞬間なんですね。で、多くの人が本格的な治癒をおこすことができない理由は、そこに差し掛かったときにたじろいでしまうからなんです。理性によるコントロールを外すことに対する抵抗感から、たじろいで、後退りする。後退りしますと、治癒や成長につながることがおこりにくくなってしまうんですよ。

松岡◎・.・例えば、とくにいまの人たちはそういうところに入るのを恐がるというか、たじろぎますね。そのためにどうしているかというと、映画とか小説とかゲームとか、つまり遊びですね、そういうものの助けを借りる。本来アルタード,ステイツというものは自分の意識と身体の中でおこさなけれぱいけないことなんだけれども、ある意味ではコミュニケーションとか、それから娯楽とか、そういった中で擬似的にアルタード.ステイツを体験するという文化が、いま非常に蔓延しているわけですね。別にそれが悪いことだとぱ思わないけれども。

しかし実際に、映画を見ると泣けるとか、ゲームをやると夢中になって白分が乗り出してやってしまうとかという体験は、時間がきっちりと限られているわけです。スイッチが入ってさあ始まりました、スイッチを切れば終わりですという安全装置がはたらいている。いわば擬似アルタード.ステイツという文化的保護装置化されていると思うのね。シンちゃんが言っているのは、それでは本当の治癒にはならないということですね。実際に一人でそういうところに立ち向かわなければ意味がない。

吉福◎・・・全くそうだと思うんです。セイゴオさんが言ったように、視覚とかを使った文化メディアというものは、疑似アルタード・ステイツをつくるものですね。

松岡◎・・・これから、ますます流行ってくるね。

吉福◎・・・流行ってきますね。ぼく自身も、そういう文化を否定しているわけではないし、ある意味で非常にいい面もあるとも思うんですね。なぜかというと、それまでアルタード・ステイツに入って実感していた世界を、ビジュアルに再現して見せることができるようになる。さらに、それを視覚だけにとどめず、聴覚、嗅覚、触覚など、五感全体にわたって、アルタード・ステイツで多くの入が体験してきた共通の要素を取り出してきて、意識的に対象化してみることができると思うからです。それは使い方次第では非常におもしろいものですけど、セイゴオさんがおっしゃったように、白分を安全な場所に置いたところでやれるという、ただの真似事だけに終わってしまう可能性もあるわけです。

幻の映画 ア・ルース・ボーイ 見ました。

仙台メディアテーク7階スタジオシアター(スクリーンに描かれた街 仙台)にて「ア・ルース・ボーイ(出演者小嶺麗奈/岡田義徳/KONTA)」鑑賞しました。

全編仙台ロケということで、見ていて飽きなかったな。原作者佐伯 一麦氏のゲストトークもおもしろかった。会場には、当時エキストラや映画の赤ん坊役で出演した方々も鑑賞にきていたりしていて盛り上がりました。映画もよかった。

帰り際に映画好きの知り合いに会ったので、「映画の出来はどうなの?」と聞いたら「良くない」との応え。また、「ああいう小説を映画にするというのはどういうこと?」と聞いたら、「私小説ですよ」という応え。この「私小説」という言葉が妙に腹に落ちたなあ。

学生時代に吉本隆明の「共同幻想論」が大ブームになり、読んだのだがさっぱりわからなかった。この本の中に、個人幻想、対幻幻想、共同幻想というキーワードが出てくるのだが、全くわからない。わからないままに、結婚して子供ができて、先日子供たちが独立して家をでていったのだが、おぼろげながらに個人幻想、対幻想、共同幻想の重要性がわかり始めたような気がする(共同幻想論はわからないまま)。

簡単にいえばこうだ。社会的に断絶した状態で一人でいる。ま、学生時代が個人幻想の領域。恋をして(しなくても)結婚したら対幻想の領域。子供ができたら共同幻想の領域だ(子供ができなくても、社会生活を営んでいればその領域は共同幻想の領域になるのだが、話を簡単にするために)。

わかりやすくいうと。例えば夫婦げんかをしたとしよう。たいした理由で始まるわけではないのだが、ま、原因がある。喧嘩が収まらない場合には、子供たちが夫と妻の言い分を判断する。社会的な問題の場合は、裁判所が判断するわけだが、このような第三者の判断が効力をもつ状態が共同幻想の領域だ。

ところが、子供たちが独立していなくなった場合。夫婦げんかに第三者は介在しなくなる。社会的にも「夫婦げんかは犬でも食わない」ということばがある。そうすると、どうなるかというと。

強いものが勝つ。

これが対幻想の領域だ。愛も理屈も、客観的判断がない状態。しかも二人しかいないのだから、中途半端な妥協などは一切ない。あるのは勝者と敗者のみ。対幻想は、ここまでにしておこう。なかなか危険な領域ではある。

そして個人幻想です。これを体験的にいうと「時間がなくなる」状態です。自分しかいない、自己完結しているわけですから、起承転結が起結になり、さらに起結すらいらなくなるように早く完結する状態です。理屈もある意味いらない。自分が納得すればいいわけですから。

ということで、ア・ルース・ボーイに戻ると、この主人公の男の子は対幻想の領域にいるように見えるのですが、子供は自分の子供ではないわけですので、おそらく個人幻想の領域にいるままなのでしょう。相手役の女性は共同幻想の領域にいます。映画ではでてきませんが、赤ん坊の父親との交渉もしているわけですから。当然、主人公の甘さはしっかりとわかっています。

最後には女性と赤ん坊が主人公の元を去っていくわけですが、これは当たり前の結論ですが、主人公には全くわからない。よって、映画では甘くきれいに撮られているわけですが、まあ、マスターベーションでしかない。こう考えると、映画冒頭のひまわりが画面いっぱいに映り出される場面とか、映画なかほどのモンキーズTVドラマ(古いか)のプロモビデオのような場面も納得がいく。ただただ甘い場面だけだったのだ・・・。

そして、私の疑問「こんなひとりよがりな物語を映像化する理由はあるのだろうか?」があるのですが、映画通は「私小説」と言ってくれたので腹に落ちました。

実は、この日仙台フォーラムにて、「ア・ルース・ボーイ」の前に「雪国(1957東宝/主演岸恵子・池部良)」を鑑賞していて、質の良さに感激していたところもあったので「ア・ルース・ボーイ」に辛い疑問をもつことになったのでしょう。

「雪国」観賞後にも対幻想に考えが及んでいたこともあり、「私小説」ということばで、それがつなぎ合わされたということも腹に落ちた理由なのかもしれません。

余談ですが、この映画の製作費用は8500万円とのことです。今回が二回目の披露ということですが、前回が80名ほど、今回が200名ほどということで、8500万円を1/280で計算すると、おお、303,571円だ!!

映画「春との旅」見てきました。

映画「春との旅」見てきました。非常に良かったです。

予告編(上記リンクの公式ホームページでも視聴可)のような「お涙ちょうだい」映画ではなく、また、登場人物は味のある善人ばかりで、安心してみれます。こんな映画は最近は珍しいでしょう。また、いい役者さんを揃えてますよね。

ストーリィは、厳しく、出口の難しい現実を直視しており、逃げてはいません。しあわせとは安易なものではなく、もちろんお金などで買えるものではなく、真摯な生き様を通して獲得していくものなのですね。

最後は、帰りの電車の中で、老人が死んで(と思う)春が泣き叫んで終わるのですが、これは悲惨な結末ではないと思います。過酷な現実とか、切ないストーリィとかが、この映画に評せられることがあるかもしれませんが、そうではなく、そういったものを通した幸せの表現がテーマだと思います。お金に苦労せずに畳の上で死ぬのが人生の目的ではないのです。逆に、生を思う存分生ききって、畳の上で死ねたら最高でしょう。

人は必ず死ぬのです。死ぬのが問題ではなく、死に方が問題なのです・・・。ま、難しいか。

話は代わって、映画を見る前には知らなかったのですが、仙台がロケ先になっていました。みてたら、見慣れた場所が映画に出てきたのでびっくりしました。仙台駅とその周辺だったので、あまりお金もかからなかったと思います。春が、宿泊先が見つからず、ホテルを何件も尋ね歩くという場面がありましたが、あれは半径100メートルぐらいにホテルが密集している所なので、そんなにカメラは動いていなかったと思います。

また、話の落ちとして、兄弟げんかをした弟が、兄(老人)と春にホテルのスウィートルームを借りてやるという場面もありましたが、あそこは仙台国際ホテルを使ってもらいたかったですね、ロケの場所から300メートルも離れていませんし、映画のようにビジネスクラスのホテルの前でスウィートルームといってもあまりピンとこなかったですね。ま、つまらないことですけど。

それから、見たのは平日でしたが、かなりの客数だったようです。テーマ上、年輩の方がほとんどでしたが、それもいいことだと思います。

ちなみにこの映画の監督小林政弘氏は宮城県気仙沼市でこの映画を撮影したのを機に、同市に自宅を構えているとのことです

バグダッド・カフェ <ニュー・ディレクターズ・カット版>

バグダッド・カフェ <ニュー・ディレクターズ・カット版>見てきました。楽しい映画でしたね。デジタルリマスター最高に美しいバージョンとのことですが、確かにきれいな画面でした。内容とも、今の映画だといっても十分に通用すると思います。

ウイキペディアを参照したところ、1989年にオリジナル、1994年に完全版でリバイバルヒットしたということです。主題歌は大ヒットしたのは知っていましたけれど、映画がそれほどヒットしていたとは今まで知りませんでした。

映像、ストーリィ、脚本、配役。すべて良かった。出会えたことに感謝します。