幻の映画 ア・ルース・ボーイ 見ました。

仙台メディアテーク7階スタジオシアター(スクリーンに描かれた街 仙台)にて「ア・ルース・ボーイ(出演者小嶺麗奈/岡田義徳/KONTA)」鑑賞しました。

全編仙台ロケということで、見ていて飽きなかったな。原作者佐伯 一麦氏のゲストトークもおもしろかった。会場には、当時エキストラや映画の赤ん坊役で出演した方々も鑑賞にきていたりしていて盛り上がりました。映画もよかった。

帰り際に映画好きの知り合いに会ったので、「映画の出来はどうなの?」と聞いたら「良くない」との応え。また、「ああいう小説を映画にするというのはどういうこと?」と聞いたら、「私小説ですよ」という応え。この「私小説」という言葉が妙に腹に落ちたなあ。

学生時代に吉本隆明の「共同幻想論」が大ブームになり、読んだのだがさっぱりわからなかった。この本の中に、個人幻想、対幻幻想、共同幻想というキーワードが出てくるのだが、全くわからない。わからないままに、結婚して子供ができて、先日子供たちが独立して家をでていったのだが、おぼろげながらに個人幻想、対幻想、共同幻想の重要性がわかり始めたような気がする(共同幻想論はわからないまま)。

簡単にいえばこうだ。社会的に断絶した状態で一人でいる。ま、学生時代が個人幻想の領域。恋をして(しなくても)結婚したら対幻想の領域。子供ができたら共同幻想の領域だ(子供ができなくても、社会生活を営んでいればその領域は共同幻想の領域になるのだが、話を簡単にするために)。

わかりやすくいうと。例えば夫婦げんかをしたとしよう。たいした理由で始まるわけではないのだが、ま、原因がある。喧嘩が収まらない場合には、子供たちが夫と妻の言い分を判断する。社会的な問題の場合は、裁判所が判断するわけだが、このような第三者の判断が効力をもつ状態が共同幻想の領域だ。

ところが、子供たちが独立していなくなった場合。夫婦げんかに第三者は介在しなくなる。社会的にも「夫婦げんかは犬でも食わない」ということばがある。そうすると、どうなるかというと。

強いものが勝つ。

これが対幻想の領域だ。愛も理屈も、客観的判断がない状態。しかも二人しかいないのだから、中途半端な妥協などは一切ない。あるのは勝者と敗者のみ。対幻想は、ここまでにしておこう。なかなか危険な領域ではある。

そして個人幻想です。これを体験的にいうと「時間がなくなる」状態です。自分しかいない、自己完結しているわけですから、起承転結が起結になり、さらに起結すらいらなくなるように早く完結する状態です。理屈もある意味いらない。自分が納得すればいいわけですから。

ということで、ア・ルース・ボーイに戻ると、この主人公の男の子は対幻想の領域にいるように見えるのですが、子供は自分の子供ではないわけですので、おそらく個人幻想の領域にいるままなのでしょう。相手役の女性は共同幻想の領域にいます。映画ではでてきませんが、赤ん坊の父親との交渉もしているわけですから。当然、主人公の甘さはしっかりとわかっています。

最後には女性と赤ん坊が主人公の元を去っていくわけですが、これは当たり前の結論ですが、主人公には全くわからない。よって、映画では甘くきれいに撮られているわけですが、まあ、マスターベーションでしかない。こう考えると、映画冒頭のひまわりが画面いっぱいに映り出される場面とか、映画なかほどのモンキーズTVドラマ(古いか)のプロモビデオのような場面も納得がいく。ただただ甘い場面だけだったのだ・・・。

そして、私の疑問「こんなひとりよがりな物語を映像化する理由はあるのだろうか?」があるのですが、映画通は「私小説」と言ってくれたので腹に落ちました。

実は、この日仙台フォーラムにて、「ア・ルース・ボーイ」の前に「雪国(1957東宝/主演岸恵子・池部良)」を鑑賞していて、質の良さに感激していたところもあったので「ア・ルース・ボーイ」に辛い疑問をもつことになったのでしょう。

「雪国」観賞後にも対幻想に考えが及んでいたこともあり、「私小説」ということばで、それがつなぎ合わされたということも腹に落ちた理由なのかもしれません。

余談ですが、この映画の製作費用は8500万円とのことです。今回が二回目の披露ということですが、前回が80名ほど、今回が200名ほどということで、8500万円を1/280で計算すると、おお、303,571円だ!!

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