瞑想体験 #5 光の中に入りましょう

いよいよ#5。

#4では、瞑想中に見えてくる光について、その光をどんどんと大きくしましょうということでしたが、いかがだったでしょうか。瞑想中に、目の前いっぱいに広がる光に躊躇なさっている方はいるでしょうかね?私は非常に躊躇した覚えがあります。こわかったですね。

“クンダリニ”現象についての予備知識もありましたので、それもこわかったことの原因かもしれません。自分が自分でなくなるような予感もありました。

しかし、ある日。意を決して、光の中に入っていきました。

説明することはできないと思いますが、できるだけ説明したいと思います。

光が自分の前にあるときは、対象物と自分という関係ですね。それから、光の中にはいると、対象物はなくなります。自分が光のなかに入ってしまうわけで。360度、周りがすべて光。もしくは、すべてが自分です。そして、恍惚感。というより、歓喜もしくはエクスタシー。

法悦という言葉がありますが、それがこれなんだなと思いました。だとすれば、予想以上にエロスに近い悦びでありました。

僧は女性と交わってはいけないとされていましたが、それは無理難題なわけではないと納得できる気がします。セックスが男女の気を巡らせて、バランスを整えるという側面があるとすれば、法悦で代えることもありかなという気もするのです。

マスターベーションなどと違うのは、消耗感や依存性が全くないということです。瞑想をしたからといって瞑想に中毒するということもなければ、瞑想をしすぎたから、疲れたなどということもありません。薬物などとは全く違うところでもあります。もちろんですが、勃起とか射精などとは無縁の現象ですので、誤解なきよう。

重要なのは、自他を超えたところに意識をもっていくことができるということだと思います。とらわれや、欲などによるバイアスを排除できるところに、短時間とはいえ行ってこれるということ。これは大事なことだと思います。

ちなみにビートルズが1968年インドの導師マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーとインドの瞑想や思想に興味をもちはじめたのは、メンバー全員が薬物依存症から脱却するためだったというのを聞いたことがあります。本当だとしたら卓越したアイディアだと思いますが・・・。

ということで、説明はここまで。光が入っていけるまで大きくならない人は、大きくなるように。吐く息をていねいに。

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