養老孟司氏が、人間は三人称の死は体験できても一人称の死は体験できないというようなことを言っているのを読んだことがあります。傍から見れば悲惨な死も、実際に死んでいく人にとってはそれほど悲惨じゃないのではないかというのは、充分に考えられることです。
わからない「死」が過大に美化されたり、忌み嫌われたりしがちではありますが、逆に軽く考えてみることも必要じゃないかとつらつら思っておりました。このたび、わかりやすい本に出会えましたので、ご紹介します。
死んだらおしまい、ではなかった 2000人を葬送したお坊さんの不思議でためになる話 |
著者は、昭和五十五年(1980年)から平成三年(1991年)にいたる11年余の間に、2000以上の葬儀を行った僧侶。ある喪主の方に、「成仏するんでしょうか?」と尋ねられ、答えにつまったことが発端で、葬儀の際に故人の状態に注意を払い続けるようになりました。そしていつしか、霊の実在を感じ取れるようになったというのです。体験と著者の実感から書かれたこの本は、説得力がありました。しかも、分かり易い。
ということで、以下に紹介するのは、人が死んだらどうなるかについてです。(p48~p57)
・・・亡くなった「本人」はどこにいるのでしょうか。
だいたいの場合、「本人」は遺体の近くにおります。
そして、遺族や僧侶が葬儀を行う様子をじっと静かに見ているのです。
葬儀の光景も遺族の方々の様子も、「本人」には見えています。声も聞こえているのです。けれども実はこのとき、2,3割くらいの人が、自分が死んだことがわかっていません。
ボケーっとしているというか、もうろうとしていて、呆然としている方が結構おられます。
だいたいの場合、私が通夜で感じる「本人」の様子は”キョトン”というか”ボケー”というか、要するに「なにがなんだかわからない」といった感じが多いのです。そして、お経をあげているうちに、もう少し進むと、「疑っている」という感じになるのです。「本人」が「自分は葬式の夢を見ているのだ」と思っていたり、またはそう思いこもうとしているようなのです。
「本人」には葬儀をしている光景はわかるので、ーどうも、自分の葬式をしているらしい……。
-ああ、自分は死んだのかもしれない。
-どうも死んだようだ。そうか、死んだのだ。と次第に悟っていくわけです。
そして、身体があればこそできた諸々のこと、ああしたいこうしたいという物事が、もうできないのだと気づいていくのです。いわゆる俗世の未練が絶ちきれていくわけです。そして、成仏へと進んでいくわけです。
このように故人に自分の死を悟らせ、俗世の未練を絶ちきらせていくのが通夜であり、葬儀の本質的な意義なのです。
なかには、身体と「本人」が分かれたときに、「本人」が十分に自分の死を悟っている、事態をのみこんでいる人もあります。そういう場合には、僧侶が来てわざわざ葬儀を執り行う必要はないとも言えるでしょう。しかし、実際には、まわりはわかっていても「本入」は自分の死に気づいていない場合が多いのです。
ー助かる、助かる。大丈夫、大丈夫。
と、思いながら亡くなっていく人が多いのです。亡くなると、病気で苦しんでいた場合など、その肉体的な苦しみから解放されます。ろうそくの炎が消えるときに急に大きくなるように、身体がよくなったような気がするようなのです。そのため、白分が死んだことには気がつかないで、
-自分の病気が治ったのだ。
と錯覚してしまう場合もあります。
だから、そういう人には葬儀という一連の儀式をして、自分の死という現実を気づかせてあげなければいけないのです。繰り返して言います。
葬儀とは、死によって身体と「本人」が分れたときに、その「本人」に対して遺された者たちや僧侶が、儀式な言葉でもって「あなたは、亡くなったのですよ」と教えてあげることなのです。そして、この世への執着や未練を断ちきってもらうのです。
これが枕経であり、通夜であり、葬儀を行う意義であるわけです。
よく「引導を渡す」という言葉をお聞きになるかと思います。
「引導」というのは、もともとは「手引きする」「案内する」というような意味ですが、人々を導いて仏道に入らせる意味で使われていました。
「引導を渡す」というと、とくに、死者を迷界から浄土へと導く儀式のことになります。「迷界から浄土へ導く」には、死者に、「自分が死んだという事実」を確実に認識させ、現世への執着を棄てさせて、悟りの仏道へと進むようにさせねばなりません。そのためには、「あなたはまちがいなく死んだのですよ」という事実を、
死者に宣言する儀式が必要になるのです。もはやこの世にはもどれないこと、この世の未練を断ちきつて浄土に進むしかないことを、悟らせるわけです。
それが「引導を渡す」という意味であり、葬儀を行う意義なのです。ただ引導を渡したからといって、すべての人がただちに納得するわけではありません。
「おれは死んでなんかいないんだ」と拒否されることもあります。
さらには、「本人」のもともとの性格もあります。
生きている人間がさまざまなように、故人の性格もさまざまです。
生前、ものわかりの悪かった人が、死んだからとい。てものわかりがよくなることはありません。生前、頑固だった人が死んで素直になるといったことはありません。疑り深い人は、死後も疑り深い.あきらめの悪い人は、死んでもあきらめが悪い・。生前の性格は死後もそのままなのですから、自分の死をなかなか認めようとしない人もいるわけです。また、なかには未練や執着があまりに強かったり、疑り深い性格などから、自分の死をまったく納得しないでいる人もいます。そうなりますと、この世で亡霊となって長い間さまようこともありうるわけです。
だから、繰り返し繰り返し「あなたは死んだのだ」ということを伝えるために、葬儀の後にも法要を重ねていく必要があるのです。
「本入」が死を自覚するまでの期間はどれくらいか
自分の死に気がつかない人が少なからずいると申しました。また白分の死に気づくまでには、多少の時間がかかるものなのです。死んだからといって、その直後に自らの死を白覚するというのではなく、次第に時とともに自覚していくのだと思われます。
そこで、通夜、葬儀、初七日、四十九日と回を重ねていくうちに、何度も何度も「あなたは死んだのですよ」と伝えていくことになります。こうして回を重ねていくことよって、「本人」も次第に自分の死を自覚していくことになるのです。自分の死を悟ることによって、「本入」がこの世の執着を棄てて成仏の方向に向かうのです。
私が「本人」を感じるのも、亡くなってすぐのときがやはり一番強く、法要の数を重ねて時を経るにしたがって、徐々に薄くなっていきます。それは「本人」がこの世の執着や未練を葉てていくことと比例しているようです。
さて、「本人」が自らの死を自覚するまでの期間は、いったいどれくらいなのでしようか。
仏教では、死の瞬間から次の生を受ける間を、中陰(中有)といって、その期間を四十九日としており、七日ごとに法要を営んできたのです。私自身の葬儀と法要の体験からしても、いわゆる未練がおおかたなくなったと思わる区切りは、まあ平均的には四十九日ということができます。ただもちろん、これには個人差があります。早い方ですと二、三週間でそこまでいたる人もいますし、遅い方ですと二、三年もかかる場合もあります。
しかし、ときには大変な長い期間にわたって自らの死に気がつかない場合もあるのです。たとえば、十分に葬儀や供養をせずに放っておかれたときがそうです。突然の交通事故で亡くなり「本人」はそのままの事故現場にいて、自分が死んだという自覚がない場合もそうです。そして、この世に対する未練があまりに強烈だった場合もそうです。
極端な場合には、何十年、何百年、いや何千年も時空を超えて残る場合もあるのです。これが、いわゆる「呪縛霊」とか「地縛霊」 などと言われるもののことです。平家の怨霊話とか、いろいろと各地で伝えられているのがそれです。
26年2月6日になくなつた父のこえが、最近は聞こえてきます。ゆうたいは、見えませんが、こんなことありますか?また、何か有るんですか?
直接、お父さんの声に尋ねてみたらどうでしょうか。参考になるかどうかわかりませんが、小説新潮 2018年3月号から、佐藤愛子氏が「冥界からの声」という小説を連載しています。冥界と現世との交信をテーマにした小説ですが、事実に基づいたものだということです。
なるほどね
一昨年父親と母親を無くしました
未だ信じられないです
お墓に行くと亡くなって実感します
今年は三回忌をします