宮城県仙台第二高等学校水泳部の飲み会

高校時代は宮城県仙台第二高等学校、水泳部に所属していた。先日の28日に飲み会があったので、写真を掲載します。

WikiPediaで調べてみると、水泳部の項目があり、「競泳においても昭和40年代後半に県高校総体で4年連続優勝という快挙を成し遂げた。」と記載されているが、飲み会に参集した面々はまさしく、この4年連続優勝の礎を築いたメンバーだといえる。優勝こそしなかったが、連続優勝するまでの道程を築きあげた経験はいまでも貴重な宝物となって魂(ソウル)に宿っている。貴重な経験を共有くださったはらから(同朋、アミーゴ、メンバー)と、このように引き合わせる機会を与えてくれた天には誠に感謝しています、ありがとうございます。

ちなみに、宮城県知事をされていた浅野 史郎(あさの しろう)氏は部員だったが、それほど際だった活動はされなかったらしい。というよりは、名ばかりの部員だったとの話ではあるが、詳細は不明。

こうやって改めて写真を見てみると、歳はいっているが、精悍さは変わらない。むしろ、魂(ソウル)に関しては、ますます磨かれ続けているとさえいえる・・・、と思うのだがどうだろう。

夏は麦茶と梅干しです

暑い夏ですね、今年は。

昨日、お世話になっている病院で、担当の先生と夏の過ごし方について話す機会がありました。

夜中に暑さで眠れないのですが、そういった時に掌(てのひら)が熱いのに気がついた。それで、この掌を冷却したら、いかがでしょうかというのが私の質問だった。これに対して先生は、次のように応えました。

悪くはないが、本質的な解決にはならないでしょう。掌と首の周りは、体の熱センサーなのです。ここが熱ければ、体が周りが暑いことを察知して、それにそなえるのです。ですから、ここを冷やせば、体は周りが冷えていると判断して、発汗を押さえるわけです。汗はひくが、一時的なもので、じきに、周りは暑いと判断して発汗をし始めるわけです。

暑いときには、水分を補給して、発汗なり排尿なりで、熱を外に逃がすというのが本筋です。水分に、電解質があるのが好ましい。それと同時に塩の補給が必要です。麦茶と梅干しがあれば充分にそれらを補給できますので潤沢に摂取してみてください。

紅茶とかコーヒー、コーラなどではどうでしょうか?

ダメです。電解質が含まれていません。電解質は、ゲートレード、ポカリスエットなどに含まれているものです。麦茶にも含まれています。

ということなので、その通りにしたら、すっかり調子よくなりました。ま、プラシーボ効果も若干はあるのでしょうが、ただ、普段食べることのなかった久しぶりの梅干しですが、非常にうまかったです。体が必要としていたんだなあと感心した次第ではあります。

以上の内容を、昨日は出会う人ごとに話していたら、感謝されました。気を良くしてブログにも発表とあいなったわけです。是非おためしあれ! 夏を乗り切りましょう。

W杯 本田の魔法の無回転シュートにミズノの演出か

日経新聞6月26日より、W杯日本vsデンマーク戦の記事。本田のキックに勝るとも劣らないミズノのピンポイントキック?に言及している。ビッグビジネスの舞台裏をかいま見せる記事でした。

本田の無回転 ミズノが演出 -内側足首近くに特殊樹脂-

あの靴は何だ-。

1次リーグE組のデンマーク戦で、日本の勝利の扉を開いた本囲の無回転シュート。右に一度揺れてから、左に逃げながら落ちていった「魔法のキック」を生み出した黄色のシューズが注目されている。提供したのはミズノ。ボールに当たる個所の素材から自社開発したという同社入魂の一足だ。

本田のシューズを見ると、内側の足首の近くに。表皮とは違うパッドが張ってある。実はこれ、。反発力のある柔らかい合成樹脂。ミズノの開発部門が生み出した「ボールに回転のかかりにくい素材」(東繁アスレティク事業部長)という。

ミズノは今回、「無回転シューズ」の一点勝負に出ている。W杯で有力選手の足元を固める独アディダスや米ナイキに資金力で対抗できないが、全世界が観戦するW杯は好機にしたい。そこで「2006年のW杯で注目を集めた無回転キックを突き詰めようということになった」(東部長) 08年、契約選手の1人で無回転キックを好んでけっていた本田に協力を要請。モニターテストで無回転キツクは通常より足首に近いところでけることを発見した。さらに、ボールに接する時間を長くすれば、より回転を抑えられることを解朋。約2年がかりで新素材のパツドを開発した。

昨年12月に売り出した「W杯モデル」シリーズの売れ行きは上々。5月時点で1~6月期の目標だった5万足を突破した。ミズノのサッカー用品の海外売上高は10年3月期で20億円程度。「イタリアを中心にやっているが、米国やほかの欧州での展開はこれから」(東部長)。外資がけん引する投資規模があまりにも大きい領域ゆえ、とてもリスクを背負えないというのが実情だ。

英BBCが「(ポルトガルの)ロナルドのようだ」と評した本田の活躍は、ミズノにとってもいい意味で計算外だったはずだ。 本田をはじめとする選手にける技術があってこそスバイクの良さが生きるのだが、本田が活躍を続けて世界的な銘柄になれば、「無回転キックを生む本田のシューズ」というピンポイント営業が実を結んで、その知名度が世界で高まるかもしれない。

同じような記事は、6月4日にも掲載されている。

サッカーW杯 ビジネスの舞台裏(4) 用品市場、足元固め競う

2010/6/4付

「無回転」に着目

日本のミズノも売り込み方に知恵を絞った。資金力は海外勢に及ばないだけに「違う視点が必要だった」(東繁アスレティック事業部長)。着目したのは「無回転キック」。日本代表の本田圭佑から助言を受けて「無回転キックをけりやすいスパイク」を開発、昨年12月に売り出した。

本田が無回転キックをける時に使うのは左足のくるぶし付近。そこに素材から自社開発した反発性の低いパッドを張り付け、球に回転がかかりにくくした。売れ行きは好調で、1~6月期の目標だった5万足を5月時点で突破した。

イメージ戦略と機能性――。前者で大衆の関心を呼び、後者で定着させるのが用具メーカーの市場開拓の王道で、2つの要素が高次元でかみ合った時に希代のヒット商品が生まれる。

南ア大会では、どこが勝ち残り、どの選手が輝き、どんなプレーが印象づけられるのか。用品市場の争いもその結果と無関係ではない。先が見えないギャンブル性もまた、4年に一度の「お祭り」であるW杯の醍醐味(だいごみ)といえる。

開催時間の都合から、一日遅れのフォローになったW杯日本デンマーク戦の報道でしたが、w杯ビジネスの観点からネタを再生した日経新聞のピンポイント記事でした。

ちなみにYOUTUBEで揺らぐシュートがよくみえたのがここです

また、全くこの記事とは関係ありませんが)YOUTUBEでデンマークのサッカー選手が日本戦を予想していた画像を見つけました。プロ選手の慧眼に感心したのでご紹介

龍村式 指ヨガ健康法 について/その2

先日の龍村式 指ヨガのトレーニングをしたことをブログで述べましたが、その後、知人に著書をいただいたので、その紹介をかねて、続きです。

いままで、針灸のツボなどについてかかれてある書籍を何冊か読もうとしたことはあるのですが、やはり、難しい。東洋医学ということで、漢字も難しいし、経路などは記憶は不可能でしょうなどとは思っていました。で、前回の龍村式指ヨガでは、そのような難しい経路などは関係なく、指のツボを教えていただきました。

ホリスティック医療などとよく言われますが、体のパーツ、それは実はすべて、体の全体を包含している。いまはやりの言葉を使うとフラクタルである。なにをいいたいかというと、指は体の縮図であるということです。足は体の縮図ですといってもいいのですが、とりあえずはここでは指です。関係をあらわした写真を書籍から紹介します。

たとえば、首筋のこり、痛みについては、(本文P54-55)

考えられる直接的な原因の一つは、頸部のゆがみです。また、足の長短や、骨盤や背骨のゆがみの結果として、首にゆがみがでている場合もあります。首が左右や前後に傾斜したりねじれていると、筋肉も硬くなり、気の巡りが悪くなります。首のゆがみからくる筋肉の疲労や緊張、血行不良を解消しましょう。

●施術するポイント:中指の爪に近い方の第一関節から第二関節の間が、相応します。

●施術の方法・その一:中指の第一関節と第二の間接を、左右に息を吐きながら回します。両手、または片手だけでもOKです。

●施術の方法・その二:中指の第一関節と第二関節の間を、手の甲側からもんだりこすったりします。首の後ろの右側がよりこっている場合は、押さえたときに真ん中より右側が痛い場合が多いです。両手、または片手だけでもOKです。

経路などを記憶することもなく、手や指を当てて、痛いところをもんだりこすったり押さえたりすればよいわけです。

瀧村先生に聞いたところ、痛いところがいわゆる「ツボ」ということです。そして手や指を当てて、痛いところをもんだりこすったり押さえたりするのはなぜかというと、痛いのをより強く感じるためです。痛さを感じれば、それが癒しにつながるというわけです。痛さがなくなれば完治ということです。

野口体操入門 / 羽鳥操

2010年3月13日に仙台に震度4の地震、今日14日に震度5の地震があった。昨日の地震で自宅の本棚から転げ落ちた書籍数冊。その中にこの本があった。偶然には意味がある。そう思いながらこの本を手に取り、ページをめくったら、三島由紀夫に関する文章が目に付いた。この本を購入したときには、全然思ってもいない文章である。3月12日、地震の前日に私はエルパーク仙台のスタジオでヨガを研修していた(野口は昭和30年代、周りのひんしゅくをかいながらヨガ教室に通ったらしい。いいものは誰がなんと言おうといい。権威は自分が感じたことにあって、他人が決めた権威に従うことはない、と言い放って続けていたという。p74)。また、先立つこと数日前に三島由紀夫に言及している瀬戸内寂聴と美輪明宏の対談集(ぴんぽんぱん ふたり話)を読み終えたばかりであった。

野口体操入門第一章第二節身体感覚を甦らせよう、p14から引用する。

・・・三島由紀夫のエッセー「実感的スポーツ論」を軸に、現代人にとってどのようなからだとのつきあい方がよいのか、一つの方向を提案してみたい。

JR中央線お茶の水駅を聖橋方面に降りて、線路沿いに、淡路坂はある。。急勾配の坂である。この坂を下りきる手前に、「日本健康スポーツ連盟」の本部はある。

私は二年前の秋、初めてこの連盟の理事長である玉利斉氏を訪ねた。そのとき、玉利氏が最初に話されたことに、私はひどく驚かされた。

「三島さんは、スポーツ共和国を夢見ていたのです」と言いながら、玉利氏は用意してあったコピーを手渡してくれた。三島由紀夫の「実感的スポーツ論」であった。このエッセーは「荒野より」という中公文庫に収められていた。

このようなエッセーを三島が残していたとは、三島は戦争と絡んで肥大した身体コンプレックスを持っていた。現在、三島が生きているとすれば、喜寿を迎えたことになる。三島は小学校入学から敗戦を迎える20歳まで、戦争の影につきまとわれていた。三島に限らず、この時代に、からだが貧弱で運動能力がおとったものがどれほどに惨めな学校生活を送っていたかは、私が改めて書くまでもない。

ところが、三島を溺愛した祖母夏子の英才プログラムには、身体への配慮は微塵もなかった。夏子の身体不在とも思える教育が、三島文学を生む源であったことだけは確かだ。三島は早熟な才能を文学に花開かせて、ひ弱な躯で走り続け、息切れてしまった30代に肉体を鍛える道に邁進した。(ちょうど今、私はNHK教育テレビで吉本隆明の講演を聴きながら引用文をタイプしている。吉本隆明は講演を終戦後の話から始めている。世界認識の方法として古典経済学アダムスミスからマルクスまでを勉強したという。そして経済学以外の古典。言語の本質は沈黙。芸術言語論。)ボディービルで鍛えたからだが欲するままに、ボクシング、そして、剣道へと道を進んだ。そこで三島は、運動音痴のおちこぼれや、遮二無二働き続ける企業戦士の健康を慮って、社会スポーツの必要性を説いていくのである。

「例えば私は空想するのだが、町のすみずみに体育館があり、誰でも自由にブラリと入れ、僅少の会費で会員になれる。夜も十時まで開いており、あらゆる施設が完備し、好きなスポーツが気楽に楽しめる。コーチが、会員の運動経験の多少に応じて懇切に指導し、初心者同士を組み合わせて、お互いの引っ込み思案を取り除く、そこでは、選ばれた人たちだけが美技を見せるだけではなく、どんな初心者の拙技にも等分の機会が与えられる。・・・こういうスポーツ共和国の構想は、社会主義国でなければ実現できない、というものではあるまい」(実感的スポーツ論)

肉体改造において予想以上の成果を実感した三島の告白ともいえるエッセーはこう締めくくられている。私は密かに思っている。このエッセーは、作家・三島由紀夫の仮面を脱いで、平岡公威の肉声をつづったものではないかと。

それはさておき、実は、三島の肉体改造の出発点となったボディービルを指南したのが、玉利氏である。

三島に出会う前の玉利氏は、早稲田大学柔道部に属していた。体重が少なく、力が出せなかった玉利氏は、何かいい方法はないかと模索していたのだ。のそとき知ったのがアメリカでおこなわれていたウエイトトレーニングであった。実際にとれをおこなってみて、短期間に効果が表れる「即効性」に驚かされたという。

玉利氏はさっそく、早稲田にバーベルクラブを発足させた。噂を聞きつけた学生たちが、百名近くも集まってきたのだという。そのことがきっかけとなって、玉利氏は日本にボディービルを定着させるために奔走する人生を始めてしまった。そこに表れたのが、三島由紀夫であった。

1955(昭和30)年夏、三島由紀夫30歳、玉利斉22歳。玉利氏は三島がボディービルを始めるに当たって、三つの条件をまず提示したという。第一は、本気で続けること。第二は、がむしゃらなやり方はしないこと。第三は、合理的な練習方法を身につけることであった。とくに第三番目の条件は、剣道家を父に持つ玉利氏の見識が言わしめたことだ。一流になれないものまで十把一絡げにして、精神主義で乗り切らせようとする方法は間違っていることをつげながら、暗に文学におけると同等の野心を持たないようにほのめかせておく気持ちが、玉利氏にははたらいたようだ。

話は前後するが、なぜ私が玉利氏を訪ねたのか。それは、次のような経緯による。

私の恩師である野口体操創始者・野口三千三(1914-98)東京芸術大学名誉教授が、私の手元に残した資料を整理しているうちに、三島自決当時の新聞・週刊誌・月刊誌等々を見つけた。私は、さっそく資料に目を通し、野口自筆ノートの三島関連の記述を調べ始めた。事件当時のページには、三島以外に玉利生の名前が記されていた。そこで私は、玉利氏を訪ねたのだった。玉利氏は野口との出会いの経緯を次のように語ったくれた。

1954(昭和29)年、ある雑誌に載った「世界のボディービルダー」という特集に当事、゛芸大の助教授だつた野口がつけたコメントに玉利氏は感銘を受けたという。すぐさま上野の芸大の野口を訪ねた。野口地はそのときすでに野口流の筋肉トレーニング方法を持っていた。

野口自身は、師範学校在学中に陸上部と体操部に所属し、昭和10年代には、選手として活躍していた経歴を持っていた。野口は玉利氏の申し出を即座に快諾した。野口、40歳の時であった。

さて玉利とは、1955(昭和30)年12月に、日本ボディービル協会を発足させた。そして、翌年正月過ぎに、神田共立講堂において第一回「ミスターニッポンコンテスト」を開いた。