もしもノンフィクション作家がお化けにであったら 工藤美代子

もしもノンフィクション作家がお化けに出会ったら (幽ブックス)読みました。面白かったです。

著者本人はそれほど霊感はないとのことであるが、どうしてどうして、かなりの特殊能力をお持ちのようです。全編興味深く読まさせていただきました。リンクしておいたアマゾンのページでの読者レヴューもそうだが、非常にさっぱりとした書き方で好感がもてました。

あの世とか、お化け、幽霊とかというと、とかく怖い話になりがちだが、実際はどうなのだろうか、あの世よりもこの世の方が怖いのではないかい? 幽霊とかお化けよりも、人間の方が怖いのではないかい?

人間は手前勝手なものだから、なんでも今、ここにこだわってしまい。あの世とか彼岸には冷たいようです。頭を柔らかくして、冷静に考えてみると、こっちもあっちもどっちもどっちなどと思うのだが・・・。

その点で、この本はなかなか中立的です。あっちもたて、こっちもたてて、あちらの人にはそれなりの敬意をはらった書き方をしています。霊に対する態度にも好感が持てました。

わたしの開高健

わたしの開高健を読みました。図書館から借りたまま、つん読している間に返済期日を過ぎてしまっていました。たまたま昨日は眠れずにいたので、この本を手にとって読んでみたら・・・、面白かったですね。おかげで眠れずに夜明けを迎えてしまいました。

開高健は私には、巡り合わなかった作者で、つい最近寂聴女史が開高健に関して文章を書いているのをみて、「夏の闇」を流し読みしていたところです。「夏の闇」は壮絶な小説で、若いときに巡り合っていたら、私の中では村上春樹を遥かに凌ぐ小説家になっていたでしょう。開高健とは、釣り好きで、グルメで、サントリーのコピーライターぐらいにしか思っていなかったので、まあ、巡り合う事はできなかったのですね。

学生時代に「夏の闇」に巡りあい、開高健ファンになった作者(細川布久子)が、念願どおりに開高健のすぐ近くで生活するようになって、それでもずーと熱烈なファンであり続け、ここにきて、とうとう作者にしか知り得ない開高健を披露してくれるのがこの本「わたしの開高健」です。

「夏の闇」のヒロインのモデルとなった女性との別れや、夫人との確執などは、興味がある人には貴重な話になることでしょう。

あとがき(あとがきにかえて)の直前の文章。(ドメーヌ・ド・ラ)ロマネ・コンティのオーナーとのインタビュー中に開高健の『ロマネ・コンティ・1935年』が突如として引き合いに出され、それが縁でロマネ・コンティ1997を試飲することになったエピソードには、泣けたな。

 

さらば、吉本隆明。もう後戻りはない。

書店で佐高信の原発文化人50人斬りを立ち読みしていて、敬愛する吉本隆明の名が出ていた。吉本隆明が著書にて原発を擁護しているのはなんどか目にしているので、そんなものかぐらいは思っていたが、過去の言葉尻をとらえてそれほど糾弾しなくてもいいのではないかという気もした。

実際、周到に用意された原発神話に浸っていれば、原発が日本には必要不可欠であるといわれても、そうですかといいたくなります。太鼓持ちがスポンサーにおべっかをいってもそれは仕事ですといえるでしょう。職業に貴賤はないのですから、よいしょが仕事の太鼓持ちを糾弾しても、大人げないのではという気がします。

問題は、芸能人だろうが、文化人だろうが、3.11以降に人間としてどんな行動を取るかということが重要ではないか、そう私は思っています。

そして本日、2011/8/5付、日本経済新聞、8.15からの眼差し-震災5ヶ月、その3は私の敬愛する吉本隆明氏が登場。願ってもいない吉本隆明の3.11以降を披露してくれました。以下に記事を掲載します。

科学に後戻りはない/原発 完璧な安全装置を

詩入で批評家の吉本隆明氏(86)は戦時中、軍国主義少年だった。その体験を自らに問い、戦後、独自の思想体系を築いた。

戦後思想の巨入に、今回の震災体験を聞いた。

-3月11日は、どうしていたか。

「自宅のこの部屋で書き物をしていたと思う。

足腰が不自由で、自宅周辺のことしか分からないが、地震の後は、不気味なほど、静かだった」

-戦中と比べると。

「あのころの東京は、人々も町中の印象も、どこか明るくて単純だった。戦争で気分が高揚していたせいもあったろうが、空襲で町がやられた後でも、皆が慌ただしく動き回っていた。

今度の震災の後は、何か暗くて、このまま沈没して無くなってしまうんではないか、という気がした。元気もないし、もう、やりようがないよ、という人が黙々と歩いている感じです。東北の沿岸の被害や原子力発電所の事故の影響も合わせれば、打撃から回復するのは、容易ではない」

ー復興への道は。

「労働力、技術力をうまく組織化することが鍵を握る。規模の拡大だけを追求せず、小さな形で密に組織化された産業の復興をめざすべきだ。

疲れずに能率よく働くシステムをどうつくっていくか、が問われるだろう。

それには、技術力のある中小企業を大企業がしっかり取り込む必要がある。外注して使い捨てるのではなく、組織内で生かす知恵が問われている。この震災を、発想転換のまたとない機会ととらえれば、希望はある」

ー事故によって原発廃絶論がでているが。

「原発をやめる、という選択は考えられない。原子力の問題は、原理的には人間の皮膚や硬い物質を透過する放射線を産業利用するまでに科学が発達を遂げてしまった、という点にある。燃料としては桁違いにコストが安いが、そのかわり、使い方を間違えると大変な危険を伴う。しかし、発達してしまった科学を、後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じです。

だから危険な場所まで科学を発達させたことを人類の知恵が生み出した原罪と考えて、科学者と現場スタッフの知恵を集め、お金をかけて完襞な防御装置をつくる以外に方法はない。今回のように危険性を知らせない、とか安全面で不注意があるというのは論外です」

ー明るさは戻るか。

「全体状況が暗くても、それと自分を分けて考えることも必要だ。僕も自分なりに満足できるものを書くとか、飼い猫に好かれるといった小さな満足感で、押し寄せる絶望感をやり過ごしている。公の問題に押しつぶされず、それぞれが関わる身近なものを、一番大切に生きることだろう」

 

学生時代からなんどか吉本氏の著者を読んでいるのですが、どうにもわからない。全くわからないかというとそうでもなく、時折納得する箇所も多々ある。が、なんとも消化不良というか、著書を読んだぞという達成感は味わえずにおりました。最近、テレビで、糸井重里がかかわった講演などのドキュメンタリがあって拝見しても、ま、見るだけで楽しいというか、実際、何をかたっているのかは、腑に落ちないままでおりました。

まあ、アイドルだったんでしょうね。私の中では、小林旭と同じで、いつかは吉本隆明をわかるぞぉぐらいに思っておりました。マルクスもおなじ。どちらもアイドルです。

それで、日経の記事ですが。正直、吉本隆明さんに生きててもらって良かったと思いました。吉本隆明氏の3.11へのコメントを知ることができなければ、わからないままでしたから。吉本隆明氏を私がわからないのが正解で、吉本隆明氏はわかるようなことは言っていない人だったんですね。

実際。下記の部分ですが、理解できますか?

 

「原発をやめる、という選択は考えられない。原子力の問題は、原理的には人間の皮膚や硬い物質を透過する放射線を産業利用するまでに科学が発達を遂げてしまった、という点にある。燃料としては桁違いにコストが安いが、そのかわり、使い方を間違えると大変な危険を伴う。しかし、発達してしまった科学を、後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じです。・・・」

 

文章として、文法的には存在しうるが、これを理解しろといわれて理解できる人がいるかというと、あまりいないでしょうね。理屈になっていないからです。意味を持っていないからです。

戦争をやめる、という選択は考えられない。戦争の問題は、原理的には人間の皮膚や硬い物質を透過する武器を産業利用するまでに科学が発達を遂げてしまった、という点にある。殺害方法としては桁違いにコストが安いが、そのかわり、使い方を間違えると大変な危険を伴う。しかし、発達してしまった科学を、後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じです。・・・」

原発を戦争に、放射能を武器に燃料を殺害方法に代えた上の文章をあなたは理解することができるでしょうか。文法的には間違っていません。名詞を代えただけですから。しかし、理屈も意味もない文章です。

「科学に後戻りはない」、「それは、人類をやめろ、というのと同じです」、「人類の知恵が生み出した原罪」というフレーズは、決まる場所にあると決まりますね。これは、彼が詩人だということでしょうか。コピーライターでも通用するでしょう。糸井重里氏とは通じるものがあるかもしれませんね。

要するに私は、吉本隆明氏の気の利いたキャッチコピーと、文法的に正確だが、意味のない文章に振り回されていたわけです。今回の記事で、夢から覚めたというか、目から鱗がとれたというか、正直そんな気がします。

文章も、科学も。使う人間がどのような意図を持っているかによって変化していくものです。人を生かすために科学があり、文章があると思っている人は沢山いると思います。そのような方々が吉本隆明氏の言葉に迷うことなく前進していくのを願うばかりです。

人間をダメにしていく科学は、後退させるというより、よりよくする方に進歩させましょう。使わないという選択支ももちろんあります。原罪というしゃれたコピーを使わずに、いらないものは使わなければよいのです。当たり前の事を当たり前におこなってすすんでいきましょう。

さて、記事の最後の部分がなんとも、等身大の文章といおうか、アノニマス(anonymous)な老人の姿と言おうか、醒めた意識には不健康に感じましたが、いかがでしょうか。

「全体状況が暗くても、それと自分を分けて考えることも必要だ。僕も自分なりに満足できるものを書くとか、飼い猫に好かれるといった小さな満足感で、押し寄せる絶望感をやり過ごしている。公の問題に押しつぶされず、それぞれが関わる身近なものを、一番大切に生きることだろう」

とりあえず、わたしもキャッチコピーつくってみました。

さらば、吉本隆明。もう後戻りはない。

新聞の書評と図書館の在庫

購読している日本経済新聞の毎週日曜日には書評が載っている。面白そうな本は、市立図書館のインターネットで検索することがある。在庫があるのは半分ぐらいかな。

今週は、ウィキリークスからフェイスブック革命まで 逆パノプティコン社会の到来 (ディスカヴァー携書)刑務所図書館の人びと―ハーバードを出て司書になった男の日記の二冊が興味をひいたので早速検索したところ、「ウィキリークスから・・・」は在庫無し、しかし「刑務所図書館の人びと」はなんと榴岡、宮城野、泉の図書館の三カ所に在庫があった。これは珍しい。

予約は、順番待ちとなり10番目なのだが、なんといっても在庫は豊富。じきに借りれることになりそうだ。

ちなみに、新聞の書評を再度眺めてみると、「知の広場」(ネット時代の図書館の役割探る)という本をみつけたので、これを市立図書館で検索してみると、やはり複数(宮城野、市立)の在庫があった。これも現在はすべて貸し出し中となっていた。

「いつもの空を飛びまわり」読みました。

幽体離脱をテーマにした小説を探して手にしたのがこれ。「いつもの空を飛びまわり」です。本棚の背表紙で、「空を飛ぶ」ようなタイトルをさがして見つけました。面白かったな。

アマゾンの商品説明には、

12歳になる少女エマは、外科医の父親と、英語教師の母親のもとに生まれた。一見ノーマルで厳格そうなこの一家は、子供にとっては実に悲惨な家庭だった。母親は死んだエマの姉ジニーが忘れられず、ことあるごとにエマとひき比べる。そして父親は、毎日明け方になるとエマのベッドに忍び込み、実の娘をレイプしている。ある日、エマは父親のあえぎ声から逃れるため、心を肉体の外に飛ばす方法を覚えた。体の外の世界で、エマは死んだ姉の幽霊に出会い、彼女の死の真相についてヒントを授けられる。そして…クライマックスに次ぐ、クライマックス。読むたびに勇気が出る感動のラスト。国米で絶賛された、待望のミステリー・ファンタジー。ファンタジー小説のすぐれたデビュー作に与えられる、クロフォード賞受賞。

と書かれており、まあその通りです。ミステリー仕立てで、ぐいぐいと読者を引っ張ってくれましたね。就寝前に書を広げて、翌日の昼間に読み終わりました。この筋立ては、そうですね、今のハリウッド映画です。父親が悪漢で、勧善懲悪本というところでしょうか。わかりやすいのですが、それだけです。何も解決していません。悪いものが切り捨てられて終わりです。

つまらないときは、悪者を捜してやっつければいいのかという気もします。この筋のわかりやすさが、トンキン湾事件9.11を創り上げたのかと思ってしまいます。

病気なんかでも、悪いところを切り取って終わりとするのが普通ですが、悪くなった原因を取り除くということも大事なだと思います。

とはいえ、幽体離脱の描写は予想以上にリアルでした。何らかの体験が元になっているものと思われます。ここは評価したいですね。