熟年と性、愛は時空を超えるか?その4 工藤美代子-快楽IIをよんで

快楽Ⅱ – 熟年性愛の対価を読みました。とはいっても去年の暮れには読んでいたのですが。内容的には、シリーズ化してるから、それなりに過激にこなれた口調で、よりポップになったかなぁ。雑誌連載ですから、世の中に迎合するのもうまくできているみたいで、3.11もしっかりと反映されていました。

このところ、このブログでは、「エンディング・ノート」と「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」を取り上げましたが、快楽Ⅱ – 熟年性愛の対価も同じような範疇にはいるのかなぁと思っているところでもあります。アマゾンのリンクを辿れば「カスタマー・レビュー」を読めますが、この時点では二人、いずれも男性で、かなり呆れた感じで評価しています。私も同じように思っているので、だいたいは男性の評価はこんなものなのでしょうか。

「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」では、映画の最後の方に二人の最後のセックスが描かれています。高校生のように若いブラッピに比べて、老醜が避けられないケイト・ブランシェットの裸が(CGも駆使されていて)リアルでした。こころは変わらないといえるのは、若い肉体をもっているからで、ケイト・ブランシェットは語ることもなく部屋を去っていくのです。なんとも胸が締め付けられる描写でしたが、それからしばらくしてベンジャミンはこどもになり、赤ん坊になり、ケイト・ブランシェットの胸に抱かれて息を引き取ります。

ベンジャミンにとってのデイジー(ケイト・ブランシェット)は、幼女で、少女で、処女で、恋人で、妖女で、聖女で、淑女で、誘惑者で、ダンサーで、情婦で、母で、老婆で才女で、様々なありとあらゆる女性となっているのです。性もそのうちの大事なパートであります。目を背けることなく、直視していきましょう(できる範囲で)。男は、不都合が有れば、バイクにでも乗ってどこかに行くことができます。しかし、女性は家族を守らなければなりません。目を背けてはならないことが沢山あるのでしょう。辛いときは、ボケるのが一番かな?などと考えることもある今日この頃(そんなオチにしてどうする?)でもあります。

熟年と性、愛は時空を超えるか?その3

「工藤美代子著、炎情―熟年離婚と性」からの連載、その3です。

前回、「目と目を合わせただけで充分に感じてしまうカップルだって(多分)いることでしょう。」と述べました。また、前々回は「愛のために、肉体上の問題、勃たないとか、濡れないとかに拘泥しなくともいいのではないか」と提案しました。

今回紹介する本は愛のヨガ。射精とオーガズムによらない性交についての記述部分です。著者はこの本で、プラトンのプラトニックラブと、男女間の生体電気を結びつけ、射精とオーガズムによらない性交について説明し、具体的事例を揚げている。

まずはプラトン。

プラトンは、二四〇〇年まえに、なんらかのかたちで射精とオーガズムによらない性交について知っていたらしい。

愛の性質についてのプラトンの対話篇『饗宴』から引用しよう。

「わたしのかんがえでは人類はぜんぜん〈愛〉の力の理解が行きわたっておらず、愛神をおがむかめにりっぱな神殿や祭壇をつくったり大きな儀式をしたりはしない。愛神は、ほかのどの神にもまして、崇拝と名誉にあたいするのに、彼はいまだにぜんぜんかえりみられていない。

とにかく〈愛〉は、すべての神々のなかで、もっとも人間の味方であり、傷をいやす医者であり、彼の治療こそ人類にあたえられる最大の幸福であろう。

というわけで、わたしがのべてきたように、はげしく……愛と欲求にうたれると……一瞬間といえどもわかれがたくなる。彼らこそは一生をたがいにささげあい、むなしく言いがたいあこがれをもって自分でもわからない何かを互いにもとめあう。それはたんなる性交の感覚的よろこびをもとめて、ふたりがそのように真剣に献身しあうのではなく.亙いのたましいがあきらかに渇望しあうのは、ことばではいうことのできない何かをもとめてなのである」

この引用からあきらかなことは、プラトンは愛の関係には、オーガズムにおげる男の精液と女の腺分泌の放出以外のなにものかがある、ということをよくしっていたということだ。

この「以外のなにものか」とはなにか?それはいわゆる「精神的愛」として多くのひとびとがプラトンの愛を理解しているような、たんなる友情か?そうとはおもわない。それはぜったいにもっとちがうなにものかでプラトンが経験したが説明できずにいたものだ。・・・中略・・・そうなのだ、うたがいもなく.プラトンはこう知っていた.ふたりの恋人のあいだの放電のやりとりのなかにこそ性交それ自体よりも深い、もっとずばらしいよろこびがあることを。・・・中略・・・人体の測定可能な電気は性器においてもっともつよい。だからといって、無数の電源からの電気の量が、それがいかにつよいといってもひとつの流れからの電気の量よりもつよくないはずはない。例としてあげた経験から、わたしの信じるところでは、どれらの無数の小電流は、直接、それらどうし流れこみ、たんなる身体的接触だけで、性交なしでも.均衡に達することができるのだ。このやりとりは、2,3時間というよりは数日間にわたっての喜びに充ちた気持ちを持続させる。P115-117

翻訳がこなれてないので、わかりずらいですが、我慢してください。続いて事例に移りますが、メアリーという男性恐怖症の女性と彼女に惚れたまじめな男性フレッドとの風変わりな恋愛と結婚生活(性器によらない愛の交歓)について記述してあります。

このおかしな結婚の結果はどうなったか?フレッドは約束をまもり、メアリーも態度をかえなかった。ふたりのあいだで性交へのこころみはぜんぜんなかった。メアリーの肉体的に正常な性器に対する精神的障害はいぜんとしてそのままだった。しかしこの禁欲からたとえようもないむくいが彼らの関係にもたらされた。

床入りなしの結婚が六週間つづいたあとでフレヅドに対ずるメアリーの愛は彼におとらず情熱的なものになった。そのとき彼らははじめてはだかどうしでだきあって一夜をすごした。ブレッドは超人的な努力をしたのだ。私との約束をまもるため、彼は性器をゴントロールせねばならず、そこへむかうすべての神経のながれをたちきり、そこへむかうすぺての欲望をたちきらねばならなかった。メアリーがこれまで苦しんできた神経症の状態へ、フレッドは最大の意志の力でもって、一挙に到達しなくてはならなかった。これをする最善の方法を.彼はみつけた。それは彼のすべてのかんがえと感覚を、彼のすべての自覚を、メアリーと触れている自分のからだの全部分に集申することだった。

彼らはだきあってよこたわり、完全にリラックスし、このからだの接触をよろこんでいた。すると、約半時間後に、フレッドによれば、いうにいわれないなにかが彼らの中に流れはじめ、彼らの肌の細胞のひとつひとつが生き生きとよろこんでいることが感じられた。これはフレッドが今まで経験したこともない狂喜とよろこびをもたらした〔ふたりがねるまえに風呂にはいらないと、このよろこび

は減った)。そしてメアリーも、彼によれば、おなじく感じた。彼の印象では、これら何百万のよろこびのみなもとがとけあってひとつとなり.メアリーと触れあっている彼のからだの肌の部分へとながれた。彼のからだはとけたかとおもわれ、時間空間はなくなった。すぺてのかんがえはきえ、彼はことばではいいあらわせない感覚的よろこびで燃えつくした。それに対するメアリーのことばは「超入間的」「神聖な」というのだった。ふたりとも、フレッドによれば、その瞬間には死の恐怖をずっかりわすれた。これは、彼らの感じでは、死後の世界をかいまみたにちがいない。彼らはすでに物質の世界と精神的宇宙のかけ橋に立っていたのだ。彼らは天国をあじわった。

この恍惚的経験は一晩中つづいた。しかし、七時聞たつと、息苦しい感じになってきた。ふたりはすぐにはなれなくてはならなかった。この感じを無視しようとすると、ふたりはおたがいに敵意を感じた。しかしシャワーをあびるとか、ぬれたタオルで体をふくとかすると、もういちどペヅドへもどって、またかんたんにあの超人間的祝福の状態にはいることができた(わたしはこの現象を説明できない。しかし説明は、それがみつかるとすれば.たぶんなにかの物理的法則、逆電流に関係があるだろうとおもう。もういちど読者にもおもいだしてほしいことは、そもそも神経と皮膚の細胞は、胚としては、おなじものだったのだ。それがたぶん同様な逆電流を説明することになろう)。つぎの日ふたりともこのうえなく幸福でくつろいだ気分でいられ.生命力とエネルギーに満ちあふれ、あらゆる種類の不安、神経質、怒りとは無縁だった。

以前に経験したふつうの性交の満足の種類と、このメアリーとのあたらしい歓喜の経験をくらべてみて、フレッドは、そのちがいは地上と天上の愛のちがいだといった。このあたらしい経験によりもたらされた永続的につづく超人間的な幸福にくらべれぱ、白動的な射精のあいだの瞬間的なよろこびなど、ほとんどくらべものにならなかった。

一〇年たった。メアリーは自己中心的、反杜会的な、つめたい心の少女から、あたたかい、おもいやりのある、しんせつな女にかわった。ふたりは.はじまったころとまったくかわらず、たがいに献身的に愛しあっていた。

これがメアリーとフレッドの物語りだ。想像をこえたものだが、一言たりとそれをうたがう理由はない。p119-121

ということで、セックスに寄らない性的関係についての記述でありました。

そもそも、この「熟年と性」について連載になってしまいましたが、はじまりは、読んだ本の案内で炎情―熟年離婚と性について、の感想でした。「バイアグラもバイブもいらない、年齢相応のセックスというものがあるとは考えられないでしょうか。もしくは、歳月を経たからこそできる男女の情交とか情愛があると信じることはできないでしょうか。若さを維持することや、歳を取ることを忌諱するのではなく、むしろ、前向きに歳を取る、人生を深化するという、ことをもう少し考えてもいいのではないでしょうか」という問題提起をさしていただき、その内容について何冊かの書籍を参照しつつ補足説明をさせていただきました。

宇宙は、まったくもって不思議に包まれています。残念ながら、その宇宙を人間は肉体的な五感によってしか知ることはできません。宇宙という真実を肉体的な、たとえれば、脳というインターフェイスを通じてバーチャル的(仮想的な)疑似宇宙として捉えるしかできません。しかし、魂というか、心というか、そういったものでは、その実在する宇宙を知ってはいるのです。男女間のエロスは、離れていた魂を解け合わせることにより、宇宙に触れさせる乗り物なのかもしれません。

大事なのはエロスの発動であり、それは男女間の思いに根ざしており、バイアグラとか潤滑油の問題ではないと思うのですが、いかがでしょうか。

熟年と性、愛は時空を超えるか?その2

「工藤美代子著、炎情―熟年離婚と性」からの続き、その2です。前回は古代エジプトのファラオと巫女の愛について書かせていただきましたが、今回は日本、亡き恋人と逢瀬するためついには時空を超えるようになった小森さんについて。ご紹介するのは臨死体験(上)-立花隆です。

・・・小森さんがこういう能力を開発するようになったのは、二十七、八歳のころ、金縛り状態の中で、死んだ恋人の幽霊に会うという体験をしたことがきっかけだという。それは幽霊というより、生きた人間そのままだった。体温もあり、呼吸をしているのも感じた。金縛り状態の中でその人をじっと抱いていた。その人の髪が自分の頬にふれていたという。

この体験をしたあと、何とかしてもう一度その恋人に出会いたいと思った。それは幻覚だろうとは思ったが、幻覚でもよいから、もう一度そのときと同じように、生きた彼女そのままを自分の腕に抱く感覚を得たいと思ったのである。どうすればその夜と同じ体験ができるかわからなかったので、とにかくいろんなことを試してみた。多分、金縛り状態になるのがカギだろうと思ったが、それも求めて得られるものではなかった。そのうち呼吸を止めることを思いついた。体を一切動かさず、無の境地になって、呼吸を意識的に止めることを繰り返ず。苦しくなると少し息を吸うが、吐くのはとことん止めるようにする。そのうちに、目の前に紫色の棚があらわれてそれが開くのが見えてくる。体がしびれ、稲妻のような光がピカピカしてくる。その光に驚いて手を握りしめたり、体を動かしたりすると、意識が覚めてしまって、それ以上はいけない。

三十四、五歳のごろ、結核で一年ほど入院していた。暇だったので、その練習を毎晩やっているうちに、どんどん上達し、ある日、ついに屋根を突き抜けてどんどん天に昇っていく感覚を得るようになった。そこまでは努力すればいつでもいけるようになったが、その先の心臓の拍動が止まって、絶対的に澄みきった世界に足を踏みいれるというところまでいったのは、一度きりだという。

六十五歳ころまでは、ときどきこの体験を試みていたが、何しろこれは死と紙一重のところまで行くことで、命の危険もあるので、最近はずっとやっていないという。

にわかには信じ難い話と思われるかもしれないが、私はごれはありうることだと思っている。実は、血中の二酸化炭素濃度が過剰になると、幻覚を見ることがあるごとは昔から知られている。先に、臨死体験の生理学的解釈の一つとして、脳の低酸素状態説があることを紹介したが、ごれとならんで、血中二酸化炭素濃度過剰説竜有力な解釈の一つとしてあるのである。小森さんのやった呼気をできるだけ止めるという努力をつづけれぱ、確実に血中の二酸化炭素濃度は上昇していく。そして、小森さんがいっていた、体のしびれや閃光を見るという現象も、・・・。P107-108

ここが言いたいのは、まさに「一念岩をも通す」ということです。死んでいった恋人に会いたいと思い続けてそれがかなったと言うことです。

好きな人の事を思い、その好きな人(たとえ死んでいる人でも)に会いたいと念ずる、もしくは抱きたいと念ずる。その一念が潜在意識(もしくは集合無意識)に働きかけ、方法を知り(理屈ではなく体で)出会いをかなえたわけです。結果、臨死体験とか死後の世界にいったということであり、手段であった臨死体験をするとか死後の世界に行くとかはどうでもいいことなのです。

上記に引用した文章の最後の段落は立花氏の解釈ですが、この部分は理屈であり、あまり問題ではありません。そういう意味でそのまま掲載してみましたが、問題は「血中二酸化炭素濃度過剰」云々ではなく、好きだということ、愛してるということ、会いたいと思うこと、そして抱きたいと思うことです。そうすれば、勃たなくても勃ち、濡れなくても濡れます。

逆に、勃たないとか濡れないときは、セックスする必要がないのです。自分の体を信じましょう。歳をとったから体が反応しないのではなく、歳をとったから体が反応しているのです。目と目を合わせただけで充分に感じてしまうカップルだって(多分)いることでしょう。大事なのは相手を思うことで、その思いに対する最適な解を体が教えてくれるという風に解釈できないものでしょうか。

ということで、以下に本論から若干はずれますが、興味のある方向けに小森さんの体外離脱についての箇所をご紹介。

・・・小森さんだけでなく、インドのヨガの行者の中にも、自分の意志の力で呼吸を止めその状態を持続できるとずる入々がいる。

小森さんによると、呼吸を止めるとともに、胃の動きも止まり、腸の蠕動も止まり、ただ心臓だけが動いているという状態になる。すると、まず「太陽の何倍もの白光」が見え、つづいて、体外離脱が起こる。自分の体が二つにわかれて、一方は上昇していく。

「天に昇って行く、天井も屋根も何の抵抗もなく抜けて上って行きます。春夏秋冬が一時に現れた下界が見えます。天女もいます」

という。

この現象を小森さんがどう解釈しているかというと、これは幻覚にちがいないという。なぜなら、そのとき登場してくるのが、天女だけでなく、

「時には映画女優が裸体で浮遊してきます(高峰秀子が出た)。だから幻覚と思います」

というのである。

小森さんは、ごういう不思議な能力を身につけながら、自分の能力をクールに見ている。

「私が何か宗教の勉強をしたとか、禅の修行をしたとかしてごういう体験をしたというなら立派なものなんでしょうが、私の場舎は、安直に呼吸を止めるという肉体的練習だけで得たものですから偉そうなごとはいえません。ごれは何人でも、身体を清浄に保って練習すればでぎるものと思います。いろんな現象は、身体の機能がそうさせるものだと思います」

そういう立場から解釈すると、「太陽の何倍もの白光」を見るという経験も、「呼吸を止めて仮死状態に入ったときに、瞳孔が散大ずるので無限光を感じるのだと理解しています」という。

ごの段階で、他にもいろんなことが起きる。人の声が聞こえてきたり、文字が浮かんだりしていろいろ教えられることがある。山よりも大きな人物が立っていて両手を広げているのを見たこともある。それとともに、「体悦」と小森さんが表現する肉体的快感が出てくる。それは、

「皮膚の表面ではなく、体の奥の方、筋肉か骨か骨髄かわからないが、ずっと奥の方からあふれてくる何とも表現しようのない気持ちのよさ、居ても立ってもおられぬほどのすごい気持ちのよさで、そのときちょっとでも体を動かすとズンと突きさされるようでとても耐えられないので、微動だにできません」

というほどの快感だという。この強烈な決感に耐えていると、次に、小森さんが「澄」と名づける段階に入る。それは「明澄としかいいようがない、何もかもが澄みきった世界」だという。

その段階に入るのには、呼吸停止だけでは十分でない。心臓が止まる必要があるという。

「心臓がバタッと止まります。その瞬間、間髪をいれず澄んだ中に入ります。そこは無で、ただ澄んでいます」

という。そこにいたると、自分の体から光があふれ、それが矢のように発していく。そのとき、自分の望みがすべてかなえられたような気持ちになり、宗教でいう、「大悟を得た」という心境になる。

「神も仏も友達のような気になります。神や仏と一体となり、白分がその→部になってしまったような気です」

という。小森さんの解釈では、臨死体験もごれと同じもので、昔の偉い宗教家が苦しい修行の末に得た悟りというのもこの境地だろうという。p105-106

そもそも「エクスタシー(ecstasy)」そのものが、体脱を意味するもので、セックスとあの世とは密接な関係があるものらしい。

というところで、やはり最後はエクスタシー賛歌ともいうべき「夜明けのスキャット」で締めくくってみたい。

 

愛し合う その時に この世は 止まるの 

時のない  世界に 二人は行くのよ  

夜は流れる 星も消えない

愛の歌 響くだけ                     

愛し合う二人の時計は止まるのよ

時計は止まるの  

 

熟年と性、愛は時空を超えるか?

さて、「工藤美代子著、炎情―熟年離婚と性」からの続きです。ここで、参考図書として転生―古代エジプトから甦った女考古学者を紹介します。かつて巫女であったオンム・セティ(ドロシー・イーディ)は禁じられたセティ一世との愛が原因で処刑されたのだが、その愛は3000年以上も後に再び巡り会うことになる。

この本の著者、ジョナサン・コットはニューヨーク在住の作家・詩人。「ローリングストーン」誌の創刊以来の編集者。音楽家へのロング・インタビューや緻密な評伝を得意とし、『グレン・グルードとの対話』(邦訳・晶文社)、『シュトックハウゼン』、『ボブ・ディラン』などの編著書がある。現代の児童文学者たちに取材した『子どもの本の8人―夜明けの笛吹きたち―』(邦訳・晶文社)や小泉八雲の研究書『さまよう魂―ラフカディオ・ハーンの遍歴―』(邦訳・文藝春秋)などの作品もある。奇しくも工藤美代子女史とは、ラフカディオ・ハーンつながりということになります。転生―古代エジプトから甦った女考古学者では、転生などの誤解を招くような不可思議な話については、慎重に取材や記述をしているようだ。

3000年の恋は、今生においても結ばれるのですが、早速その記述部分を紹介しましょう。

しかし、ドロシーにとって避けられない最終目的であったアビドスへの「帰還」が遅れたいちばん大きな理由は、彼女の秘密の愛人、セティ一世との情熱的潅恋愛に関係していた。それはアストラル・トリップ[肉体を離れて自由に移動すること]や、物質化[霊あるいは実体の未知の働きにより物質が形成される作用]、それに超白然的な「幽霊の恋人」[目に見えない魂の伴侶]など、言語を超えた神秘的世界にかかわる話になる。

ドロシー・イーディーはけっして他人の家に泊まろうとしなかった。ドロシーの親友でさえ、その理由を知らなかった。あるドロシーの女友だちは回想している。あるとき、夕食がたいへん遅くなり、ドロシーの友人は家に帰るたがるドロシーをなんとか説得して泊まっていってもらった。真夜中、女友だらは客室の窓を間断なく叩く奇妙な音に気ついて、目を覚ました。悪い予感がして、彼女は起きあがった。

そっと客室に入ったとたん、彼女は恐怖と不安に襲われた。ドロシーがほとんど血の気を失って、死んだように横たわっていたからである。空気が必要だと考えた女友だちは窓を開けた。驚いたことに昏蹊状態にあったドロシーは、魔法から覚めたように甦った。翌朝、女友だちがこの出来事について話しだすと、ドロシーはようやくわけをうち明けた。自分が眠っているとき、アク[古代エジプト用語=アストラル体]がしばしば肉体を離れることがあり、窓が大きく開いていないと戻ってこられなくなるのだ、と。

私がエジプトにやってくると、王様はふたたび現れるようになった。ドロシー・イーディーは、あるとき友人のハニー・エル・ゼイニにに語った。ハニー・エル・ゼイニは、トロシーがファラオの恋人についての物語をすへて判ち明けた唯一の人物である。ー十四歳のときの初めての出会い以来、私はふたたび王様に会えるのをずっと待っていたわ。けれども、王様がおいでになったのは、私が結婚してからだった。王様に会うためにはエジブトに行かねはならないことは心の奥深くではわかっていた。けれども、一方では、たとえ私がインクランドだろうと、エジプトだろうと、どこにいようが、王様にとってそんな距離は無いに等しいことも知っていた。

王様は古代エジプトの道徳観に縛られていたのね。私が結婚していたときには、王様は私を眺めるだけだった。ふだん王様は物質的な姿では現れなかった。私は王様の存在を感じるだけだった。けれども、そうでないこともあった。私の母や義理の父、それに一度は私の息子が、王様の姿を目撃したことがある。・・・そのことが<評議会>の機嫌を大いに損ねたらしいわ。p76-77

何度もアストラル体の姿で王様を訪ねて、すてきな夜を過ごしたわ。大神官のメリイとその愚かな妻のこと.大神官ウェンネフェルのごと、それにセティの家来たちのことも覚えている。ラメセス[セティの息子で王位の継承者]がいたときもあった。まだ若かったラメセスは、馬の引き具をもてあそびながら、鼻歌を口ずさんでいた。元気がよくて、すてきな方だった。それにとてもハンサムだった。・・・その晩、王様がおっしゃったの。今後、人聞として物質化して、そなたのもとを訪れてもよいかと。王様は、自分の気持ちを察してもらいたかったのね。ラメセスは鷹のような目で見つめていたわ。私はいった。もちろんですとも、と。

私は王様に訊ねた。私が十四歳のとき、どうしてサフ[ミイラ]の姿で私のところに来る許可が下りたのですか、と。王様はこうお答えになった.『地上で最後に自分自身を見たときの姿になったときのみ、そなたを訪れることを許されたからだ』と。初めて出会ったとき、王様は五十代前半で、私は十代の少女ベントレシャイトだった。だから、ふたたび会うときも、まったく同じようにして再会したいとお望みになったの。けれども、王様は、ご自分が最後に見た自身のお姿がミイラだったことをすっかり忘れていた。王様は『サフの姿でそなたの前に現れたとき、そなたをたいそう脅えさせてしまった。そのことで.余は〈評議会〉から厳しく非難されたのだ』とおっしゃった。きっと、そのために王様は何年もの間、私に会うのを禁じられてしまったのだと思う。

いま、王様は、生きておられたときの姿で私のところにおいでになる。いつも五十代の前半の男性の姿で現れる。・・・でも、とても魅力的で、若く見えるの。王様が亡くなったのは、六十三歳のときだった。一方ラメセスは九十歳くらいまで生きたのに、二十二、三の若者の姿をしていた。不思議に思って、いちど王様に訊ねた。王様は、どの歳の姿で現れるかは、自分で選ぶことができるのだとおっしゃった。ただし、死んだ歳よりも老いた姿にはなれない……子供のときに死んだ者が、大人の姿で現れることはできないというわけね。王様は、ほとんどの者は自分が地上でもっとも幸せだった頃の姿を選ぶとおっしゃった。だからラメセスも、いつまでもカデシュの戦いのときの若い英雄の姿でいたかったのでしょうね。私は王様に訊ねた。どうして、即位したときの歳を選ばなかったのかと。

そのときの王様の答えを覚えている。『王になることは幸福ではなかった。それは辛い徒労にほかならなかった』陛下が選んだのは、ベントレシャイと知り合い、彼女を愛した年齢、つまり五十四歳だった。その短い数週間こそ、全人生の中でもっとも幸福な時期だったと、王様はおっしゃった。黄泉の国では、人生の中のどの年齢の姿で現れるかは完全に自由なのだ。また、黄泉の国での肉体は、完全に健康な状態にあるともいった。たとえ、地上の人生で事故や病気によって手足を失ったり、口が見えなかったり、あるいは傷を負ったり、からだが不白由になっていたとしても、アメンティではそのことで苦痛をもたらされることはない。

カイロに暮らした最初の二年間、私は結婚していたため、自由な身ではなかった。〈評議会〉は王様の罪を許していたけれど、それでもまだ〈物質化〉することは許さなかった。……つまり、私の了解なしには、物質的な姿で現れることはできなかったの。でもアメンティを訪れたとき、私は王様の望みを了解した。そうしなくては、私は王様を見ることも、触れることもできなかったのだから。王様の物質化には、私白身の同意が不可欠だった。物質化するには、私のセケム[霊的な力]が必要で肉体的なカも少し関係していた。それから会うたびに、王様の姿ははっきりとしてきたわ。逢瀬の時間が長くても短くても、彼が去ったあと、私はある種の肉体的な疲れを感じたものよ。くたびれていたり、気分が悪かったり、病気だったりしたときは、王様が行かれたあと、疲れはてて、すっかり消耗してしまうこともあった。だから、王様は地上を訪れる前に、私の了解を取り付けなくてはならなかったのだろうと思う。それはきっとアメンティの決まりなのね。生者の暮らしを妨げないよう、まず死者は白分たちが物質化した姿で現れることを了解してもらわなくてはならないのね。

あるとき、王様に訊いたことがある。どうやってご自分を物質化させる方法を知ったのですか、と王様は、自分は地上に生きていたときに、そのやり方を学んだのだとおっしゃった。初めて私のもとに物質化して姿を現されたときに、ふつうの男女のように関係が結べるかしらなんて訊く必要などなかった。……だって、彼はご白分の性的能力を実証したのだもの。けれども、子供ができる見込みはなかった。朝早く、そう、いつも夜明け前だった。王様が去ったあと、そのしるしはなにも残っていなかったから。王様はアメンティで私と結婚しようといった。それには及びませんわといったのだけど、王様は、いや必要なのだとおっしゃった。私のアストラル体を連れていくことや、そこでどのような形式で結婚するかについては、なにもいわれなかった。おそらく、王様は、私が死んで、結婚できるようになるまで待たなくてはならないのをご存じだったのでしょうね。p80-82

ドロシーとセテイ1世について、若干の捕捉をしてみる。

ドロシー・イーディは、幼少の頃よりかつてエジプトに住んでいたというようになる。彼女は巫女としてエジプトに住んでいたが、そのときのファラオ、セティ1世と禁じられた恋に落ち、若くして処刑される。それから3000年の時を経てイギリスに転生。同じく、最愛の恋人をうしなったセティ1世は死後の世界にて彼女を捜し求めつづけていた。ドロシーが14歳の時に、セティ1世はドロシー(エジプトでの名前はベントレシャイト)と出会うことになる(ミイラの姿をしていたために、ドロシーを驚かせてしまう)。

さて、ドロシーはエジプト人と結婚し、エジプトに渡り、一人の子供を得てから離婚、考古学者として名を馳せるようになる。セティ1世との愛は今生において成就できたようだ。この愛については、ドロシーには、有名な(秘密の)日記がある。そこでは、上記に関して次のように書かれている。

初めてセティ王とお話しするようになったときから、私は王様に、アビドスに暮らして、神殿で働きたいという生涯の希望について話してきた。王様は、私の願いにいつも賛成してくれた。ときには.この願いがかなわないのではないかと悲観的になっている私を励ましてくれた。そして、自分たちの運命を成就するためにも、アビドスに戻るべきなのだといってくださった.アビドスの神殿での仕事への派遣がついに決まって、考古局から知らせを受け取った数日後、王様はピラミッドのところで、私の前に姿を現された。アビドス行きが決まったごとを告げると、とても喜んでくださった。「心から嬉しく思う、愛しい入よ」と王様はおっしゃった.一晩中、王様は私といっしょにいて、絶妙な仕方で愛してくださった。お帰りになる前に、「明日の晩、神官をつかわすので余のもとに来るがよい。そなたに伝えなくてはならないことがあるのだよ、我が白い蓮の花よ」とおっしゃった。それが私たちが愛を交わした最後の晩だった.このうえなく甘美な時間だった.王様は私のそばに横たわり、何度も抱き合い、ロづけをした。しかし、これが最後だった。なぜなら、これからは私たちの間に、抜き身の剣のように神殿が立ちはだかることになるからだ。

次の日の晩、初めて会う神官が私のアストラル体を連れに来た。私は王様のお住まいに案内された。王様は独りでいらした。穏やかではあったが、厳粛な雰囲気があった。私を愛情をこめて抱擁すると、そばに座るようにとおっしゃった。長年の間、私はオシリスとイシスの祭りの目には、自宅の彫像の前でお香をたくごとを欠かさなかった。しかし、このとき王様は、私がアビドスに戻ったら、神殿のお祭りの日を守らなくてはならないとおっしゃった(むろん.そのつもりだった)。また、お香をたき、ワインかビールを供え.神秘劇の中で二人の女神たちが歌った「イシスとネフティスの悲歌』を暗誦しなくてはならないともいわれた。私が「けれども陛下、私は悲歌を思い出せません」というと、王様はおっしゃった。「悲歌なら文書として書かれているはずだ。残ってはいないのかね」「悲歌の書かれた本なら持っています。けれども、それは異邦人の言葉で書かれたものです」王様は、言葉は問題ではないとおっしゃった。「神々はいっさいをご存じでおられる.神々は心の内にあるものをお聴きになるからだ」私は王様の前で誓いを立てた。今後.ずっとこの約束を守ることを。

しばらく黙ってすわっていた。それから王様は私の両手を取って、おごそかだが、緊張をはらんだ声でおっしゃった。なにが起こったのかを理解しなくてはならないと。「運命の車輪が回転して、輪が完成したのだ。いまこのときから、そなたの地上での人生が終わるまで、そなたはふたたび神殿に属するものとなった。そなたはもはや余に触れるごとはできない.余だけではなく、いかなる男にも触れてはならない」私は泣き出した。そしてアビドス行きをやめるとまでいった。すると、王様は私をやさしく揺すって、「可愛い入、そなたはふたたび過ちを犯そうというのかな」とおっしゃった。

王様は、これは二人にとっての試練の時期なのだ、誘惑に打ち勝ってアビドスで残りの人生を送るならば、自分たちの罪は許され、私は永遠に陛下のものになる、とおっしゃった。またお会いできるのでしょうか、と私は訊ねた。王様は.かならず、そなたに会いにアビドスへ行くとおっしゃった。

「以前のように、実体のない霊魂の姿でおいでになるのでしょうか」と私は訊いた。すると王様は「愛する人よ、そうではない。余は生ける入間の姿で、そなたのもとに現れるであろう。そなたのロづけや抱擁を控えることなど、余にはできない」とおっしゃった。「それが誘惑なのでしょうか」私が訊ねると、王様はこうおっしゃった。「誘惑のないところに、試練はない.だが、愛する入よ、余が強くいられるよう助けてほしい。そして泣かないでほしい。余は、そなたを愛することをけっしてやめはしない」王様は服の袖ロで私の涙を拭ってくださった。私はいった。「どうして、陛下に触れてはならないのですか。アビドスに行くのは神殿の修復のためであって、巫女として行くわけではありません。それにご存じのとおり、私は処女ではありません」王様ほ、これは運命の導きであること、そして私が「悲歌」を暗誦すると誓ったではないかとおっしゃった。王様は私にロづけし、いい子だ、とおっしゃった。また王様は、そなたが今までピラミッドのそばで暮らしていた間、ともに幸福な年月を過ごせたことを感謝しているとおっしゃった。王様はすてきな言葉をロにされた。「そなたの愛は、余の心の傷を癒してぐれる薬のようだ」と。私はふたたび泣きだしそうになった。

しかし、そのときいつものように騒かしい音をたてて、ラメセスが到着した。お互いに挨拶を交わすと、セティはラメセスに事のてんまつを話した。ラメセスは、私たちを祝福してくれた。だが、私にはラメセスが少し心配しているように見えた。セティはラメセスに、何を案じているのかと声をかけると、微笑みながらいった。「怖れるな、我が息子よ。われわれはいまこそ、強くあらねばならないのだから」これに応えて、ラメセスは「神々のご加護のありますように!」といった。セティとラメセスは乾杯をしようといった。ラメセスが飲み物を運んできた。私はいつものように二人にワインを注いだ。ラメセスの励ましが、張りつめた緊張感を断ち切ってくれた。やがて行かねばならない時が来た.神官が私を連れに来た。セティはいつもの穏やかな表情だった。

私がアビトスへ向かったのは、それから数日後だった。 p88-91

転生―古代エジプトから甦った女考古学者は、なかなか幅広い内容であり、上記引用で、、書籍全体がきわものであるかのような誤解がないようお願いいたします。

さて、引用部分から解るのは、肉体を離れたセックス(?)もしくは肉体を超えたセックスともよべるものが存在しているらしいということだ。肉体がないからといって無味乾燥した男女関係というものではなく、むしろセックスを超えたセックスがあるのではないかとすら思えてくる。愛のために、肉体上の問題、勃たないとか、濡れないとかに拘泥しなくともいいのではないかということを提起したいのだが、いかがだろうか。

古代エジプトの十代の巫女ベンシャトーレとファラオ、セティ1世(当時は54歳)。二人の3000年以上もの時を超える壮大なロマンスに敬意を表して、最後に松任谷由実のリインカーネーションを置いておこう。

※Once upon a time 遥かな過去から/今日まであなたを求めて/REINCARNATION※

恋人達はときどき/不思議なミラーをのぞく

二人は知らない時代/どこかで一度めぐり逢っていたはず

静かな台風の目に/蝶々が運ばれるように

二人の愛は旅して/あるとき遠い国までたどり着く

(※くり返し)

恋人達はときどき/不思議なワープをくぐる

二人は気づかぬうちに/同じあやまちをくり返すかもしれない

生まれた川をめざして/魚が帰るように

二人の愛は旅して/ときには時の流れを逆のぼる

Once upon a time 時間にはぐれて/ 今日まで宇宙をさまよい/REINCARNATION

熱い腕の中で 今 DE JA VUを見てた/なつかしい景色へ さあつれてって

Far beyond time この次死んでも/いつしかあなたを見つける

Far beyond time この次死んでも/いつしかあなたを見つける/REINCARNATION

Once upon a time 遥かな過去から/今日まであなたを求めて/REINCARNATION

Far beyond time この次死んでも/いつしかあなたを見つける/REINCARNATION

工藤美代子著、炎情―熟年離婚と性

炎情―熟年離婚と性を読みました。面白くなかったですね、残念ながら。途中から、惰性で読んでいて、面白いところもあるのではないかと思っていたのですが、最後までダメでした。

熟年離婚と性という切り口ではこういう風にならざるを得ないというか。元々、離婚と性(結婚と性?)はあまり関係ないのではないかなと改めて思いました。離婚した女性に性を尋ねれば、こんな風にしか応えられないだろうし、それはやはり後味の良いものではありません。それに具体的すぎるというか、露骨といおうか、詳細な事例には正直辟易したというところです。敗軍の将、兵を語らず。別れた男女は、性を語らずということだと思うのですが、いかがでしょうか。それでは、本にならないといわれればその通りなのですが・・・。

一緒にいたくないから離婚するのだろうし、交わりたくないからセックスをしないわけで、そこに理屈をつけようとすると本質からはどんどん遠ざかってしまいます。大きいとか小さいとか醜いとか変態だとかは、結果から導き出されたもので、後付けの原因にしかなりません。バイブレーターとかSMとか、整形とかは語れば語るほどエロスから離れていってしまいます。

体は大脳皮質に比べれば正直ですから、やりたければ立つし、好きだったら濡れるでしょう。それを、バイアグラで立たせ、ホルモンで濡れさせたら、それは悲惨な結果を招くだけです。立たなければやらず、濡れなければ交わらずというのもありにしてはいかがでしょうか。

情交は経済とか生産性とかとは別のところにあるものなのに、そこに経済とか生産性をあげさせようとするから無理が生じます。確かに性は金になり、生産性をあげます(例えば、メディア・セックス (集英社文庫)参照)が、それを目的にしては過剰なストレスが人間にかかります。かからないはずがありません。そして、現代資本主義はすべて貨幣価値化しているため、そこで暮らす人間は、そこのところが分からなくなってしまっているのだと思います。そこに気づくのが、本当の性を知ることにつながると思っているのですが、どうでしょうか。後書きの部分で著者は次のように書いています。

それにもかかわらず、離婚という選択を自らの手で下した女性たちは、私か驚くほど逞しく、新たな生活の再建を始めていた。その生命力の強さと、英知に、私は何度も感動した。

彼女たちの胸の奥底にあるのは、「これで女としての人生を終わってたまるものか」という叫びだった。理性では、現状現状維持で安泰な生活が一番だと理解していても身体がそれを拒否するのだと語った女性がいた。

なるほど、心と身体が激しく亀裂するのが、熟年世代なのかと、私は、その言葉に納得した。

女性が閉経をしたら、もはや女性ではないといった観念は、まったく通用しないことを、私は取材の途中で何度も思い知らされた.もう孫かいる年齢になっても女性は女性であり、良いパートナーに恵まれれば、もう一度、豊かなセックスライフを送りたいと願っている。

男性もまた、熟年離婚をした後に新しい妻と再出発したいと、ほとんどの人が語っていた。

また、これは私の思い込みがあるのかもしれないが、熟年離婚した女性たちは何らかの形で

セックスに関して傷ついた過去を背負っているように見えた。

夫とのセックスライフが充実していたら、離婚はしなかったと語った経験者もいた。それは、一瞬にして起きる突風ではなくて、長い年月をかけて、少しずつ吹き付けていた北風により、ある日、彼女たちのこころも身体も完全に冷え切ってしまっていたという結末である。

それか、夫や妻の婚外恋愛や、介護問題などによって顕在化するのである。そのとぎに、もう我慢するのを止めるのは、自分の生命を維持するための決断とさえいえるような気がした。

間違ってはいないと思うます。ただ、年老いていく男女が若い男女のセックスを求める続けることが間違いなのではないでしょうか。バイアグラもバイブもいらない、年齢相応のセックスというものがあるとは考えられないでしょうか。もしくは、歳月を経たからこそできる男女の情交とか情愛があると信じることはできないでしょうか。若さを維持することや、歳を取ることを忌諱するのではなく、むしろ、前向きに歳を取る、人生を深化するという、ことをもう少し考えてもいいのではないでしょうか・・・。

ということで、この続きは近々にご案内したいと思っております(本当か?)。乞うご期待。