「工藤美代子著、炎情―熟年離婚と性」からの連載、その3です。
前回、「目と目を合わせただけで充分に感じてしまうカップルだって(多分)いることでしょう。」と述べました。また、前々回は「愛のために、肉体上の問題、勃たないとか、濡れないとかに拘泥しなくともいいのではないか」と提案しました。
今回紹介する本は愛のヨガ。射精とオーガズムによらない性交についての記述部分です。著者はこの本で、プラトンのプラトニックラブと、男女間の生体電気を結びつけ、射精とオーガズムによらない性交について説明し、具体的事例を揚げている。
まずはプラトン。
プラトンは、二四〇〇年まえに、なんらかのかたちで射精とオーガズムによらない性交について知っていたらしい。
愛の性質についてのプラトンの対話篇『饗宴』から引用しよう。
「わたしのかんがえでは人類はぜんぜん〈愛〉の力の理解が行きわたっておらず、愛神をおがむかめにりっぱな神殿や祭壇をつくったり大きな儀式をしたりはしない。愛神は、ほかのどの神にもまして、崇拝と名誉にあたいするのに、彼はいまだにぜんぜんかえりみられていない。
とにかく〈愛〉は、すべての神々のなかで、もっとも人間の味方であり、傷をいやす医者であり、彼の治療こそ人類にあたえられる最大の幸福であろう。
というわけで、わたしがのべてきたように、はげしく……愛と欲求にうたれると……一瞬間といえどもわかれがたくなる。彼らこそは一生をたがいにささげあい、むなしく言いがたいあこがれをもって自分でもわからない何かを互いにもとめあう。それはたんなる性交の感覚的よろこびをもとめて、ふたりがそのように真剣に献身しあうのではなく.亙いのたましいがあきらかに渇望しあうのは、ことばではいうことのできない何かをもとめてなのである」
この引用からあきらかなことは、プラトンは愛の関係には、オーガズムにおげる男の精液と女の腺分泌の放出以外のなにものかがある、ということをよくしっていたということだ。
この「以外のなにものか」とはなにか?それはいわゆる「精神的愛」として多くのひとびとがプラトンの愛を理解しているような、たんなる友情か?そうとはおもわない。それはぜったいにもっとちがうなにものかでプラトンが経験したが説明できずにいたものだ。・・・中略・・・そうなのだ、うたがいもなく.プラトンはこう知っていた.ふたりの恋人のあいだの放電のやりとりのなかにこそ性交それ自体よりも深い、もっとずばらしいよろこびがあることを。・・・中略・・・人体の測定可能な電気は性器においてもっともつよい。だからといって、無数の電源からの電気の量が、それがいかにつよいといってもひとつの流れからの電気の量よりもつよくないはずはない。例としてあげた経験から、わたしの信じるところでは、どれらの無数の小電流は、直接、それらどうし流れこみ、たんなる身体的接触だけで、性交なしでも.均衡に達することができるのだ。このやりとりは、2,3時間というよりは数日間にわたっての喜びに充ちた気持ちを持続させる。P115-117
翻訳がこなれてないので、わかりずらいですが、我慢してください。続いて事例に移りますが、メアリーという男性恐怖症の女性と彼女に惚れたまじめな男性フレッドとの風変わりな恋愛と結婚生活(性器によらない愛の交歓)について記述してあります。
このおかしな結婚の結果はどうなったか?フレッドは約束をまもり、メアリーも態度をかえなかった。ふたりのあいだで性交へのこころみはぜんぜんなかった。メアリーの肉体的に正常な性器に対する精神的障害はいぜんとしてそのままだった。しかしこの禁欲からたとえようもないむくいが彼らの関係にもたらされた。
床入りなしの結婚が六週間つづいたあとでフレヅドに対ずるメアリーの愛は彼におとらず情熱的なものになった。そのとき彼らははじめてはだかどうしでだきあって一夜をすごした。ブレッドは超人的な努力をしたのだ。私との約束をまもるため、彼は性器をゴントロールせねばならず、そこへむかうすべての神経のながれをたちきり、そこへむかうすぺての欲望をたちきらねばならなかった。メアリーがこれまで苦しんできた神経症の状態へ、フレッドは最大の意志の力でもって、一挙に到達しなくてはならなかった。これをする最善の方法を.彼はみつけた。それは彼のすべてのかんがえと感覚を、彼のすべての自覚を、メアリーと触れている自分のからだの全部分に集申することだった。
彼らはだきあってよこたわり、完全にリラックスし、このからだの接触をよろこんでいた。すると、約半時間後に、フレッドによれば、いうにいわれないなにかが彼らの中に流れはじめ、彼らの肌の細胞のひとつひとつが生き生きとよろこんでいることが感じられた。これはフレッドが今まで経験したこともない狂喜とよろこびをもたらした〔ふたりがねるまえに風呂にはいらないと、このよろこび
は減った)。そしてメアリーも、彼によれば、おなじく感じた。彼の印象では、これら何百万のよろこびのみなもとがとけあってひとつとなり.メアリーと触れあっている彼のからだの肌の部分へとながれた。彼のからだはとけたかとおもわれ、時間空間はなくなった。すぺてのかんがえはきえ、彼はことばではいいあらわせない感覚的よろこびで燃えつくした。それに対するメアリーのことばは「超入間的」「神聖な」というのだった。ふたりとも、フレッドによれば、その瞬間には死の恐怖をずっかりわすれた。これは、彼らの感じでは、死後の世界をかいまみたにちがいない。彼らはすでに物質の世界と精神的宇宙のかけ橋に立っていたのだ。彼らは天国をあじわった。
この恍惚的経験は一晩中つづいた。しかし、七時聞たつと、息苦しい感じになってきた。ふたりはすぐにはなれなくてはならなかった。この感じを無視しようとすると、ふたりはおたがいに敵意を感じた。しかしシャワーをあびるとか、ぬれたタオルで体をふくとかすると、もういちどペヅドへもどって、またかんたんにあの超人間的祝福の状態にはいることができた(わたしはこの現象を説明できない。しかし説明は、それがみつかるとすれば.たぶんなにかの物理的法則、逆電流に関係があるだろうとおもう。もういちど読者にもおもいだしてほしいことは、そもそも神経と皮膚の細胞は、胚としては、おなじものだったのだ。それがたぶん同様な逆電流を説明することになろう)。つぎの日ふたりともこのうえなく幸福でくつろいだ気分でいられ.生命力とエネルギーに満ちあふれ、あらゆる種類の不安、神経質、怒りとは無縁だった。
以前に経験したふつうの性交の満足の種類と、このメアリーとのあたらしい歓喜の経験をくらべてみて、フレッドは、そのちがいは地上と天上の愛のちがいだといった。このあたらしい経験によりもたらされた永続的につづく超人間的な幸福にくらべれぱ、白動的な射精のあいだの瞬間的なよろこびなど、ほとんどくらべものにならなかった。
一〇年たった。メアリーは自己中心的、反杜会的な、つめたい心の少女から、あたたかい、おもいやりのある、しんせつな女にかわった。ふたりは.はじまったころとまったくかわらず、たがいに献身的に愛しあっていた。
これがメアリーとフレッドの物語りだ。想像をこえたものだが、一言たりとそれをうたがう理由はない。p119-121
ということで、セックスに寄らない性的関係についての記述でありました。
そもそも、この「熟年と性」について連載になってしまいましたが、はじまりは、読んだ本の案内で炎情―熟年離婚と性について、の感想でした。「バイアグラもバイブもいらない、年齢相応のセックスというものがあるとは考えられないでしょうか。もしくは、歳月を経たからこそできる男女の情交とか情愛があると信じることはできないでしょうか。若さを維持することや、歳を取ることを忌諱するのではなく、むしろ、前向きに歳を取る、人生を深化するという、ことをもう少し考えてもいいのではないでしょうか」という問題提起をさしていただき、その内容について何冊かの書籍を参照しつつ補足説明をさせていただきました。
宇宙は、まったくもって不思議に包まれています。残念ながら、その宇宙を人間は肉体的な五感によってしか知ることはできません。宇宙という真実を肉体的な、たとえれば、脳というインターフェイスを通じてバーチャル的(仮想的な)疑似宇宙として捉えるしかできません。しかし、魂というか、心というか、そういったものでは、その実在する宇宙を知ってはいるのです。男女間のエロスは、離れていた魂を解け合わせることにより、宇宙に触れさせる乗り物なのかもしれません。
大事なのはエロスの発動であり、それは男女間の思いに根ざしており、バイアグラとか潤滑油の問題ではないと思うのですが、いかがでしょうか。