「思い残し症候群-親の夫婦問題が女性の恋愛をくるわせる」読みました。

思い残し症候群―親の夫婦問題が女性の恋愛をくるわせる (NHKブックス)読みました。以前紹介した(?と思う)ファミリー・シークレット―傷ついた魂のための家族学と似たような内容で、最近、子供たちも家を離れてしまって、家族とは何かということを考えているので、家族学とでもいえるこのような本は面白いですね。また、この思い残し症候群の「つかみ」は、父親が娘の恋愛に重要な影響を与えるということなので、父親として、俺はどのような役割を果たしているのかということを知りたいということもこの本を読んだ理由でもあります。

このところ、子供たちもそれぞれの恋人と呼べるような人を両親に紹介したいといい始めてきたので、面談前にちょっと勉強をということもありました。娘の恋人なんかは、通常は父親の天敵ともいえる代物ではありますが、思い残し症候群によれば、娘の恋人選びは父親の責任といっている箇所もあるので、そういったものを読んで、天敵を理解しておこうということもあります。ここまで、非常にわかりにくい文章が続いているような気がしますが、ま、デリケートな箇所なのでご理解よろしくお願い申し上げます。ということで、まずは、序章から紹介しよう。

・・・女性の思い残しで一番多く、かつ重要なのが父性愛の欠如である。実父から父性愛を得ることは、女性に取って根源的な願望であるために、欠如すると太きな空虚さを感じるし、またその影響力も大きい。母親からの悦びの共感も重要だが、恋愛に悪影響を与えるのはおもに父愛の欠如の方である。 ・・・。

女性にとって、父性愛を調達することは、男性が、年上の女性から母性愛をもらうよりもむずかしい。なぜなら、父性愛とは性を超えた聖なる愛だからである。男性は、歳をとっていても、若い女性を性の対象として見てしまうために、性を超えた愛を出すのがむずかしいからだ。・・・。
さて、「思い残し症候群」について述べるにあたり、家族機能についての解説をまず第一章で行いたい。なぜなら、家族機能不全の中から思い残し症候群が発生するからである。家族機能が低下すると、まるで動脈硬化したように愛情が家族全体に行きわたらなくなる。
ところが女性は、そんな家族閾係に不満を感じているにもかかわらず、恋人と自分の家族関係と同じ関係、すなわち愛がなかったり、しがみつかれる関係を作ろうとする。女性は、父親と自分との関係と、恋人と自分との関係がイコールになるような恋人選びをしてしまう傾向が非常に高いのだ。その結果、家族機能不全の家庭で育った女性の多くが恋愛不全になりやすいのである。17-19頁

ということで、娘の恋愛関係は、父親の影響が深いということである。責任は重大ですね。その父親を家庭で規定するのは、母親であります。最近、岳父がお亡くなりになったのですが、思い出せば、岳父の立場というか、そういったものが、実は現在の私の立場と似通ったものを感じたことが多々ありました。この本の45ページを読んで、納得したので紹介します。

女性は実家を再現しようとする

女性は、ほっておくと実家と同じ夫婦関係を再現しようとする。なぜなら、・・・自分はこれまで生き延びてこられたという成功体験があるからだ。つまり、実家の両親と同じような夫婦関係を作れば、自分の命だけは保障される。死ぬことはない、安全である。と無意識に考えてしまうのである。女性はそういう意味では、非常に保守的だ。確かにもくろみ通り、肉体は死なない。だが、精神的幸せは保証の限りではない。・・・

人は経験したことしか理解できない動物だ。・・・彼女のみならず、今の多くの若い人達も知らない。愛や信頼は未知なる世界の出来事になっているのである.映圃や小説の世界のできごとなのだ。現実の人間関係には執着や依存しかないと思っている。結婚とは束縛し合うことだと思っているのだ。 45-47頁

家庭で、最も重要な役割を果たすのは、母親であるというのが一般的な常識ではあるが、実は、父親はそれ以上に重要なのだ。

家族の愛の流れ(父親が起点)

家族の愛の流れをひとことで表現すると、「父→母→子」となる。母親が家族の中心であり、母親がもっぱら子どもに愛情をそそぎ世話もするが、しかし、愛情の起点は父親である。これがポイントだ。子供の世話という行為だけに着目すると母親が子育ての主役のように見える。だが実は、父親の愛が母親に流れないと、母親から子には愛が流れないのだ。なぜなら、父親が母親を愛さないと、母親の心は安定しないからだ.・・・父親に愛されていない妻はイライラしてしまう.イライラしている人は、決して人を愛せない。たとえ我が子でも愛せない。・・・安心の安という字はウかんむりに女と書く。つまり、家の中で女がどっしりと構えているのである。要するに、母親が楽しく元気にしている家はうまくいっていて安心ということである。母親の心が安定していれぱ、子どもも安心なのだ。
その母親の心の安定に重大な影響を与えているのが父親の愛なのである。・・・48-49頁

とまあ、こんなわけで、父親の重要性について改めて認識させてもらいました。娘の紹介する恋人は、実は父親の通信簿ということになりそうです。

うーむ、しかし、昔から通信簿は・・・。

 

前世療法の探究を読みました。

前世療法の探究を読みました。面白かったですね。アマゾンのカスタマーレビューも概ねいい評判です。

催眠の施術に多くの経験を持つ著者が、最初は懐疑的だった前世療法―米国精神科医が体験した輪廻転生の神秘 について、臨床事例を子細に検討して経験を重ねるうちに、フォロワーとなっていくさまがわかりやすく書かれています。どうしても前世療法―米国精神科医が体験した輪廻転生の神秘を信じられない方々にお薦めの好著といえそうです。

本書の中でもっとも大事な事例、「天明三年の火山噴火に際し、人柱になったタエの前世」は、Youtubeで以前に見ておりました。いま、再度検索してみましたが、私がみたビデオは現在みつかりませんでしたが、テレビ画面をビデオで撮影したものがありました。これは、「タエの前世」ではなく、同じ方の違う前世、ネパール人であった頃についてです。ネパール語を知らないひとが、催眠でネパール語を語る(真正異言)にフォーカスを当てたビデオとなっています。Youtubeで「真正異言」を検索して見つけました。テレビで放映されたものとのことですが、最初見たときは、びっくりした覚えがあります。

そのビデオの背景について、子細に著されていたので、その点でも非常に得した気分がします。

参考までに、「あとがき」の一部を以下に紹介します。

 

前世療法に取り組み始め、「前世記憶」「中間世」「神的存在者」などの解釈に思いを巡らせていた筆者に、大きな示唆を与えてくださったのは、畏敬する成瀬悟策先生でした.先生は、二〇〇四年二月、明治学院大学で開かれた、策二九回日本教育催眠学会の対談席上で、「脳は心の家来です」「脳の病変によって動かないとされている脳性麻痺の動作訓練を催眠暗示でやってみると、動かないとされていた腕が動くようになりました。しかし、脳の病変はそのままです、こうしたことから身体を動かすのは脳ではなく、『オレ』であることにやっと気づきました.私のこの考え方を、正統医学は賛成しないでしょうが、二一世紀の終わりには、私の言ってることが明らかになるでしょう」と言われました,筆者の理解が誤っていなけれぱ、成瀬先生のこの考え方は「心・脳二元論」の言明であることになります.海外でも、W・ペンフィールド、J・エックルズ、R・スペリーなど優れた大脳科学者が、自らの実験研究をもとに「心・脳二元論」に至ったことを思うと、催眠研究歴六〇年の成瀬先生の言明には重さがあり、解釈としての「死後存統仮説」をとることに躊躇していた筆者には、深く共感できるお話でした。

一般に信じられている言説、つまり、心は脳の随伴現象であり、脳の消減とともに心も消滅してしまえぱ、生前に経験されたものはすぺて棄却されることになる、という言説は、唯物論科学の立場から、その立場上構成されている「信念」や[主張」をそのまま表現したものであって、その言説自体は、科学的に確定された手続きによって、証明・検証されたものではないのです。[心・脳二元論」は、この事実を認め、物質である脳の消減後も、脳とは別個の実在である「オレ(意識体)」の、死後生存可能性を否定しないことを意味します。したがって、成瀬先生のお話を契機に、「死後存続仮説」は、ありうべからざる非科学的憶説として忌避されるものではけっしてない、と益々思うようになりました。

 

読み初めは、FabLife ―デジタルファブリケーションから生まれる「つくりかたの未来」 (Make: Japan Books)

2013年の、新春読み初めは、FabLife ―デジタルファブリケーションから生まれる「つくりかたの未来」 (Make: Japan Books)でした。

昨年から気になり始めた、3Dプリンターやレーザーカッターなどについて、もっと知りたいと思ったからだが、この本を選んだのは正解だった。デジタル時代が切り開く新しい世界について、ざっくりながら、イメージをつかむことができたと思う。

著者は、Fabについて本当によく考え抜かれているようで、わかりやすくていねいに解説されている。しかも、深い。参考までに後書き部分を少し紹介してみよう。

・・・

日本でカルチャーセンターというと、すでに一般的になっている教養や日常芸術、運動などを習い、身につける場所というイメージが強い。しかし私たちがつくりだしたいのは、「既知のことを伝承する文化」ではなく、「未知のことを実験し、それを奨励する文化」である。

そしてもうひとつ、ファブとは「混溝の文化」だと思っている。約1年の間、ファブラボ鎌倉を運営してみた結果、そこに育まれたのは、「ものをつくるための多種多様な技法や技術を交換しあうコミュニティであった。

特に鎌倉では、土地柄もあって、クラフツマンとの交流か数多く生まれた。そんななかで、私たちはオリジナルの3Dプリンターの研究開発に取り組んでいる。ハンドクラフトとテジタル・ファフリケーションは、それぞれ「比較的過去から存在した技術」と「比較的最近になって生まれた技術」であり、現在の視点で偏見なく見てみれぱ、どちらもか等しく価値をもつ。「比較的過去から存在した技術」は長い淘汰を乗り越えて残ってきた価値かあり、「比較的最近になって生まれた技術」には「未知である(やってみなけれぱ、まだわからない)こと白体」に価値がある。取り出し方によってはどちらも「有用な」技術であり、どちらもかお互いを再発見できる関係になるだろう。

ファプラボは、現代の私たちが有している技術のレパートリーのなかから、各自が豊かに生きるために必要とする技術を適宜選択し、まなび教えあえる場にまで進化しつつある。「ゲストとホスト」の立場を限りなく溶かし、仮に残ったとしても時に入れ替え、交流と交換を行っている。一方向の「伝授」ではなく、双方向の「教えあい」「まなびあい」としての実践。そのなかから、複数の技術が混ざりあった、新しい何かが生まれ出てくるはずなのだ。それは私の考えるコミュニティラホーーファプラボの理想でもある。

本書にはさまざまなことを書いた。ますますファブ」フボが何なのかわからなくなった読者も」いるかもしれない。そして本のタイトルも、ファブラボではなく、「ファブライフ」にしてしまった。

人類の起源から横み上げられてきた、不器用で非効率な、そしてもっとも人間の人間らしい「つくる」という経験。それを、加速化する現代の情報環境の上でも、情報環境だからこそのやり方で、豊かにたどり直し、そしてまだまだ新たに可能性を広げていくことができるー。そんな事実に気づき、再発見していく日痔の堆積。そんな暮らしのスタイルこそを「ファブライフ」と呼んでみたいと思う。

ひとまずこれで私からの実況報告を閉じる。続きはまた、ウェブなどでー

後書きなので理屈っぽくなっているかもしれないが、内容は概ねわかりやすいと思う。本書の巻末に参考文献と参考urlが付属している。ファブラボの現状を知るには、webなどサーフィンしてみるがいいかもしれない。

ということで、以下に紹介します。

参考文献

『ものづくり革命一バーソナル・ファブリケーションの夜明け』ニール・ガーシェンフェルド著、糸川洋訳、ソフトバンククリエイティブ、2006年刊

『工作機械の歴史一職人の技からオートメーションへ』L.7C,ロルト著、磯田浩訳、平凡社、1989年刊

『アルゴリズミック・デザインー建築・都市の新しい設計手法』日本建築学会編、鹿島出版会、2009年刊

『アルゴリズミック・アーキテクチャ』コスタス・テルジディス著、田中浩也監訳、荒岡紀子/重村珠穂/松jll昌平訳、彰国社、2010年刊

『設計の設計』柄沢祐輔/田中浩也/藤村龍至/ドミニク・チェン/松]11昌平著、メディア・デザイン研究所編、INAX出版、2011年刊

『FORM+CODE一デザイン/アート/建築における、かたちとコード』ケイシー・リーズ他著、久保田晃弘監訳、吉村マサテル訳、ピー・エヌ・エヌ新社、2011年刊

『Open Design Now:Why Design Cannot Remain Exclusive』Bas Van AbeしLucas Evers、Roel Klaasse∩, PeterTroxler著、Bis Pub,2011年刊

『Cooking for Geeks-料理の科学と実践レシピ』ジェフ・ポッター著、水原文訳、オライリー・ジャパン、2011年刊

『Making Things TaLk-Arduinoで作る「会話」するモノたち』Tom lgoe著、小林茂監訳、水原文訳、オライリー・ジャパン、2011年刊

『Making Things Move一動くモノを作るためのメカニズムと材料の基本』Dustyn Roberts著、岩崎修監修、金井哲夫訳、オライリー・ジャパン、2012年刊

『考える「もの」たち一MITメディア・ラボが描く未来』二一ル・ガーシェンフェルド著、中俣真知子訳、毎日新聞社、2000年刊

『アーキテクチャの生態系-情報環境はいかに設計されてきたか』演野智史著、NIT出版、2008年刊

『ソーシャルデザインー社会をつくるグッドアイデア集』グリーンズ編、朝日新聞出版、2012年刊

『コミュニティデザインー人がつながるしくみをつくる』山崎亮著、学芸出版社、2011年刊

『いきるためのメディアー知覚・環境・社会の改編に向けて』渡邊淳司/藤木淳/丸谷和史/ドミニク・チェン/坂倉杏介/田中浩也著、春秋社、2010年刊

『世界を変えるデザインーものづくりには夢がある』シンシァ・スミス、槌屋詩野監訳、北村陽子訳、英治出版、2009年刊

『フユーチャーセンターをつくろう一対話をイノベーションにつなげる仕組み』野村恭彦著、プレジデント社、2012年刊

『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック-クリエイティブ・コモンズによる創造の循環』ドミニク・チェン著、フィルムアート社、2012年刊

『組立性・分解性設計一資源循環を進めるモノづくり』山際康之著、講談社.2011年刊

『世界一大きな問題のシンプルな解き方-私が貧困解決の現場で学んだこと』ポール・ポラック著、東方雅美訳、英治出版、2011年刊

参考URL

Oつくってシェアする

Ol,インストラクタブルズllnstructables

木ヘラ利用の歩行ロボから、カー・オーディオ、古い窓枠で作ったスカーフ掛け、 チーズまで、メイカーたちの作品とそのレシピの投稿サイト。いろいろなジャンルの作品コンテストが随時行われている。http://www.instructables.com/

02,制約から自由を生み出すデザインコンテスト|(UN)LIMITED DesignContest

デジタル・ファブリケーション環境を前提とした、オーブンデザインのオンライン作品 コンテストを開催している。アート性の高い、衣・食・住に関連した作品が投稿される。作品のデータや説明書をダウンロードできる。http://unlimiteddesigncontest.org/

03,シンギバース|Thingiverse

エッグスタンドから、ベアリング、工具まで、3DプリンターやCNCミリングマシンな どのデータ投稿サイト。

ビットからアトムへ。http://www.thingiverse.com/

04,グーグル3DウェアハウスlGoogle 3D Warehouse

グーグル・スケッチアップ(Google SketchUP)で作成した3Dモデルのギャラリー。住宅、国会議事堂、スタジアムなどの建築物が多数。

http://sketchup.google.com/3dwarehouse/

05.ナーバスlNervous

指輪やコップなどの造形を、パラメトリック(変数的)なモデルとそれを操作するインターフェイスの組として公開し、ユーザーが白由にカスタマイズ可能にするデザ インプロジェクト。http://n-e-r-v-o-u-s.com/

06.イケア・ハッキング|IKEA HACKING

家具ストアのイケアで調達した素材でオリジナル作品をつくる、DIY愛好家のサイト。皿洗いスタンド利用のノートPCスタンド、ランプ付きのベッドの天蓋、時計 の文字盤改造など。http://www.ikeahackers.net/

07 オープンデザイン・プロジェクト|Ronen Kadusin

カドシン氏がデザインしたアルミ椅子などのデータが公開されている。ダウンロードしたデータを工場に持ち込めば、同じものを生産可能。

http://www.ronen-kadushin.com/index.php/open-design/

◎なんでもつくる!

08,「(ほぼ)なんでもつくる方法」の授業アーカイブ

受講した学生の週間レポートには、授業の詳細と授業で製作した作品が個性的に記録されている。

http://fab.cba.mit.edu/classes/MIT/863.10/prior.html

参考URL

09.ファブアカデミー

「(ほぼ)なんでもつくる方法」と同様の授業が、インターネットを介したビデオ会議を通して行われている。その様子が一部公開されている。

http://www.youtube.com/watch?v=HMoXchaFzHl

10.100ドル・ミリングマシンMantis9-1

工作機械も白分の手でつくろうというファブラボ2.0プロジェクト(MIT Machines that Meke projec)から生まれた。製作手順の群細を説明するビデオが用意されている。http://makeyourbot.wikidot.com/mantis9-1

11.ファブラジオ|FabRadio

「[ほぼ)なんでもつくる授業」から生まれた、ファブラポオリジナルのラジオキット。ファブドゥイーノを使用している。

http://fab.cba.mit.edu/classes/MIT/863.10/people/shelby.doyle/12.html

12.どこからでも工作機搦を使えるようにする。

インターネット経由でレーザーカッターを操作できるようにするプロジェクト。ニューヨークのファブラポ、AS220が開発e

http://as220.org/votm/?doing_wp_cron=1357099557.4050900936126708984375

◎世界を変えるプロジェクト

13.適正技術とは何か?

発展途上国への技術支援のあり方として、なぜ「適正技術」という考え方が生まれたのか、それはどのようなものなのか、コンパクトにまとめられている。遠藤謙さんによる解説 http://dlabjp.blogspot.jp/2010/03/blog-post.html

14.無線地域ネットワーク・プロジェクトl FabFi

インターネットなきところにインターネットを届ける直無線LANルーターとリフレクターを組みあわせた、メッシェネット方式の地域ネットワーク。 http://fabfi.fablab.af/

15.ソースマップ| SourceMap

MITのメディアラボによる、サプライチェーン可視化のオープンソース・プロジェクト。ある製品がどこの材料でできているか、材料の生産・輸送にどれくらいのCO,を排出しているか、わかりやずく表示する。 http://sourcemap.com/

◎ライセンスを考える

16,クリエイティブ・コモンズ・ライセンスとは?

作者がコンテンツを配布するとき、利用条件を白分の考えにあわせて選択できるように考えられた、ライセンスのセット。オープンなコンテンツを促進する道具として、クリエイティブ・コモンズ(Creative Commons]プロジェクトがまとめた。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンスとは

17,オープン・コンテントとは?

デイビッド・ワイリーが創設したOpenContent.orgは、オープンなコンテントの基本要件として、再利用、改変、他の著作物との組みあわせ、再配布の4つを挙げ、「4Rフレームワーク」で表すことを提案している。

http://www.opencontent.org/definition/

18,オープン・デザインとは?

オーブンデザイン財団(Open Design Fundatlon)によって、オープンデザインの頒布条件(The Open Design Definitian)が提案されている。

http://www.opendesign.org/odd.html

19.オープンソース・ハードウェアとは?

エリク・メーラー (ウィキメディア創設音)らによる「オープンソース・ハードウェア(Open Source Hardware:OSHW)」の定義と、それをめぐる議論。現在は、 「すべての人が、製造・改変改造・配布・使用できるように、設計が一般に公開される有形の実体[機械や装備などの製造物]」と定義されている。

http://freedomdefined.org/OSHW

20.ファブコモンズとは?

ファブラボ・ジャパンの法律・弁護士グループ、ファブコモンズ(Fab Commans)は、ものの派生・継承・連鎖を生み出すライセンスとして、「改変」をうながず「ファブコモンズ(Fab Commons」を検討している。議論が重ねられているが,水野祐氏による「Design, Afchitecture and Law」での資料が参考になる。

◎ファブラボを知る

21.ファブラポ・ジャパン

日本でファブラボに関心をもつ人々の有志ネットワーク.ウェブサイトには、各ファブラボやファブラボ関連のプロジェクトへのリンクがまとめられている。

http://fablabjapan.org/

22.ファブラボ鎌倉

JR鎌倉駅から徒歩5分の場所にある蔵を利用したファブラボ。伝統工芸との融合、オープンソース・デザイン、まちとともにあるものづくりを軸に、新しいコミュニティづくりをしている。 http://fablabkamakura.net/

23.ファブラポつくば

筑波大学の近くに開設されたファブラポ宙オーブンゾース・ハードウェアを主軸に

活動し、日曜日にはカフェとしても営業している。 http://www.fpga-cafe.com/

24.ファブカフェ(渋谷)

渋谷の道玄坂上にある、レーザーカッターを備えたカフェ。コワーキング・スペースとしても使用できる。クリエイターによるワークショップも頻繁に開催されている。

http://www.fabcafe.com/

◎世界のファブラポ

25.国際7アブラポ協会 llnternatianal FabLab Association

2011年に発足したファブラボの協会。躍挙で選ばれる6人の代表が中心となり、各国の情報を交換し、コラボレーションを促造する。田中浩也は代表のひとり。

http://fablabinternational.org/

26.ファブセントラルlFabCentral

MITビット・アトムズ・センターのデジタル・ファブリケーション設備と、同センターが迎営しているファブラポ解説のサイト。

http://fab.cba.mit.edu/

27.ファブフォークlFab Folk

ファブラボ利用者のコミュニティサイト。アカウントを取得ずると、プログ、ウィキサ

イト、ビデオ、写真などの投滴が可能になる。

http://www.fabfolk.com/

28.オランダとベルギーのファブラポ

ベネルクス3国には.アムステルダム.ルーペンなど、現在15のファブラボがある。各ファブラボへのリンク、この地域のイベントなどが案内されている。各ファブラボのカラーは、アーティスティック、日用的、ギークなものまで、十人十色だ。

Home

29.インドのプネーにある工科大学COEP

インドの工業都市プネーにある工科大学(College of Engineering. Pune)にも、ファブラボの拠点がある。

http://www.coep.org.in/index.php?pid=261

30.インドの農村にあるヴェイジャン・アシュラム

インドの膿村ババルにある技術教育施設。身近にある問題を自分たちの手で解決できるように創設された。もっとも古いファブラボのひとつが設置されている。孵卵器、農園管理システムなどのプロジェクトが見える。

http://www.vigyanashram.com/

31.ポストン近郊のファブラポAS220

ボストンからほど近いケープコッド半島のプロヴィンスタウン。そのまちのクリエイターが集まるオフィスの一角に拠点を構える。アート、ハック、ギャラリー、バー、ヨガ、フィットネスダンス、そして「お仕事募集中」の表示も。

http://as220.org/

32.ポストンのサウスエンド・テクノロジー・センター

地域の住民に読み書き・算数やコンピューターの使い方を教える、ボストンの地域センター。近所の小学生がデジタル工作機器を使用した工作を学びに通ってくる。

http://www.tech-center-enlightentcity.tv/home.html

33.バルセロナのソーラーハウス・プロジェクト

laaCを拠点とするバルセロナのファブラポでは、分解・組み立て可能なソーラーハウスを開発している。トラックで移築可能な建築物だ。

http://www.iaac.net/projects/fab-lab-solar-house-3

34.アムステルダムのファブラボ

ワッグソサエティが運用しているファブラボ。デザイン系・アート系プロジェクトが多数進行している。サイトで紹介されているプロジェクトを眺めると楽しい。

http://fablab.waag.org/

35.ファブラポ・ジョグジャカルタlFabLabJogjakarta

インドネシアにはじめて設置されたファブラボ。HONF財団が中心となり、オランダのファブラボが協力して誕生した。アーティストの活動が中心で.バクテリアを用いた作品など、生物学とのコラボレーションが盛んだ。

Home

36.モバイル・ファブラポlMobile Fablab

トレーラーに工作機械を積んで、まちからまちへと旅を続け、行った先々で工作教室などを開いている。スーツケースに工具を詰めて出かける構想もある。

http://mobilefablab.blogspot.jp/

http://mtm.cba.mit.edu/fabinabox/blog.html

37.ファブモーメントlFabMoments

ファブラポ利用者が作品のつくり方やデータなどの公開に使用する、ウェブサイトシステム開発のプロジェクト。オランダのファブラボが開発中。

http://fabmoments.org/

38.ファブウfィキlFabWiki

アイスランドのファブラボが運営しているウィキサイト。型枠を使用したコンクリート成形など、建築構法の知織も公開されている。

http://wiki.fablab.is/

 

ということで、2013年もよろしくお願い申し上げます。

 

ポックリ名人。 帯津 良一(おびつ りょういち)

ポックリ名人読みました。目にやさしい大きな活字の本文組で、さらに読みやすくなったと、帯に書いてあります。巻末には、付録として書置きノートがついています。中身は、まあ、当たり前のことが書かれております。しかし、その背景にある意思とか思想といったものは同感しました。ということで、あとがき部分を紹介します。

あとがき  死は何も特別なことではない

本書では、「命の旅は永遠に続く」という私の死生観をベースに、死後の世界にエネルギッシュに突入していった(またはいくであろう)入たちを、敬意をこめて「ポックリ名人」と称して紹介しました。

「命を軽んずるものではないか」というそしりを受けるかもしれませんが、それはまったく私の意図することではなく、死を考えることは今ある生をしっかり生きるために必要不可欠なものなのです。

昨今、世界的不況のあおりを受けて、日本経済も不況にあえいでいます。これは景気が好調なときに死にしっかり思いを馳せなかったがために、そのつけがまわってきているように思えてならないのです。

死を忌み嫌う社会は異常です。死をしっかりと視野の中に入れてこそ、はじめて健全な社会といえると思います。

「死」というゴールがはっきりしない限り、生きている今の時間を大切に充実させる養生ができないのです。

永遠の命を生きるとは、未来を予感しながら、今を輝いて生きるということにほかならないのです。

死後の世界については、生きている私たちには誰もわかりません。あるとかないとか、信じる信じないと大上段に振りかぶることもないのです。ただ、目の前の養生の先に、壮大な一大パノラマがあると思うと、なんとなく楽しいではありませんか。

日々を大切に、命を精一杯輝かせて生き、そうしていざ死に時が来たらそれを間違えることなくポックリ逝き、死んだら虚空をまっしぐらに目指しましょう。

これを読んでくださっているみなさんとも、いつの日にか虚空にてお会いできる日を楽しみにしています。

二〇〇九年

帯津良一

 

誰が小沢一郎を殺すのか?画策者なき陰謀

誰が小沢一郎を殺すのか?画策者なき陰謀」を読んで、腑に落ちたところが何か所もありました。3.11以降、日本のマスコミの酷さに気が付くことができ、おかげさまといってはなんですが、この本のかなりの部分に共感をおぼえることができたのです。

日本人ならほとんどが好きじゃない「小沢一郎」ですが、それが当たり前になった背景をこの本は明らかにしてくれます。アマゾンへのリンクを辿ってもらえば、読者レビューが、マスコミよりは遥かに正確に、この本について語っていて、頼もしくさえも感じることができるのではと思います。

以下に、私が個人的に記録にしておきたい箇所を何点かご紹介します。まずは、小沢抹殺の起源は1993年であると指摘している出だしから・・・。

一九九三年という”直近の起源”

小沢一郎氏の政治生命を抹殺しようとする動き、それは一見するときわめて些細な出来事として起きていた。しかし私は自分の目で確かに見たのだ。それは一九九三年、小沢氏らが自民党を離党して新生党を結成し、非自民運立政権が成立した、日本の政党政治の大変動とも称すべき出来事と、ほぼ時を同じくしていた。・・・そのとき、我々の目の前で、日本の政治の根本を決定づけ、政治の現実を形作る重要ななにかが、あらゆる人々の予想を超えて変わってしまったのだった。・・・数年を経て事態が沈静化したとき、人々は、日本ほふたたび一九九三年以前の状態に戻ったと考えるようになった。連立政権がいくつもあらわれては短命に終わったことで、結局、日本の政治はなにひとつ変わらなかったのだ、と人々は失望を味わった。ところが、日常のなかではっきりした変化を指摘することはできなかったとしても、確かに日本は変わったのである。p14-p15

そして、この本のテーマである「人物破壊」についての説明箇所

「入物破壊」とはなにか

さて冒頭から「人物破壊(character assasination)」という表現をたびたび使ってきたが、これは具体的にはなにを意味しているのだろうか? 実は、ヨーロッパ諸国やアメリカではよく使われる表現である。読者はすでにおわかりだろうが、標的とする人物を実際に殺さないまでも、その世間での評判や人物像を破壊しようとする行為を指す。

これは相手がライバルだから、自分にとって厄介な人物だから、あるいは単に敵だからという理由で、狙いを定めた人物の世評を貶める、不快で野蛮なやり方である。人殺しは凶悪犯罪であるが、人物像の破壊もまた、標的とされる人物が命を落とすことはなくとも、その人間を世間から永久に抹殺するという点では人殺しと変わらぬ、いわば殺人の代用方式である。p26

小沢氏の政治生命を抹殺するために用いられたのは日本の伝統的な手法、すなわちスキャンダルであった。スキャンダルを成功させるには、検察と新聞の協力が不可欠である。そこで検察は法務省の記者クラブに所属するジャーナワストたちに、だれに狙いを定めているか告げ、逮捕や証拠品の押収時に注意するよううながし、彼らが欲しがる多くの情報をリークしてやる。そしてリークされた情報にもとづいて記者は記事を書き、それが新聞の一面にどかどかと掲載されることになるのだ。

日本のスキャンダルの特徴は、世間一般には許されてはいても、それがやり過ぎ、もしくは行き過ぎと見なされた場合に、抑える役目を果たす点だ。そのようなスキャンダルの餌食になるのは決まって、日本の政治・経済の現体制を撥るがしかねない人物である。p28

・・・小沢氏の政治生命を破壊しようとするこのキャンペーンは、一九九三年以降、再燃するたびにその舌鋒を強めてきた。そしてそれがひとつの頂点に達したのが、彼が首相になるかと思われたときだった.二〇〇九年の初め、その年の後半に行われる選挙で民主党が自民党を破ることになり、そうなれば当時、民主党の代表であった小沢氏は自動的に、日本の公式の政治システムの頂点に立つだろう、というのが大方の予測だった。ところが小沢氏は党の結束を維持するため、そしてキャンペーンの被害が民主党におよぶことのないよう、代表の座を辞した。ところが2009年の秋に民主党が政権の座に就くと、またしてもこのキャンペーンは新たな高まりを見せた。今度は検察が思いがけない新たな手段に訴え、それによって小沢氏の資金管理団体の政治資金をめぐる間題で、証拠がないために不起訴となっていた件に関して、ふたたび捜査を行うことを決定した。そして再度、不起訴になったにもかかわらず、またもや捜査が行われるのである。p34

このような「人物破壊」を可能ならしめるもの政治システムは、その起源を徳川幕府とそのクーデターである明治維新までさかのぼるという。そして、重要な人物として山県を挙げる。彼は、政党による政策決定の影響を一切受け付けないよう、「天皇」を利用するなど画策して官僚機構を隔離したのだ。

山県が講じた措置によって、官僚はその後も日本の政治システムを支配するもっとも重要な勢力でいることができた。もちろんそこになんら公式の規則という裏づけがあるわけではない。第二次世界大戦後の日本では、法律上は、日本国民を代表する選挙された者が、国家を統治する権力を与えられることになっている。そして憲法によれば主権は国民にあるとされている。ここまで議論を進めたところで、我々は日本政治の重要な一面を知ることになる。つまり日本の政治システムの大部分は、「法的枠組みを超え」ているということだ。日本には当然、あらゆるものごとを規定する法律があり、犯罪に対処する作用において、他諸国とまったく大差はない。ところが日本の揚合、経済や政治上の取り引き、関係性など、現実のなかで実際に利用されるやり方が、法律によって決められているわけではないのである。それを決定するのは慣習である。さらには現状維持をほかる勢力である。

ちなみに個人やグループにみずからの行いを恥じ入らせる「辱め」は、日本の当局が秩序を維持するために用いる手口のひとつだ。体制を揺るがしかねない人間を、辱め、世間の見せしめにすることで、超法規的な秩序を逸脱すれば、このような仕打ちが待っているとあらゆる人々に警告するのだ。その陣頭指揮をとるのはもちろん、日本の検察である。 p54

その日本の検察の特殊性については以下のように記載している。

検察、この大いなる守護者

完壁にして、純粋、無謬であること、検察はそのすべてを兼ねそなえていなければならない。人間は過ちをおかすものだ、などという考え方は、検察の伝統とは相容れないのである。裁判に負ければ、検察側は辱めを受けたかのように感じる。そこで彼らは断固たる姿勢をもって上訴し、決してあきらめることなく、あらゆる手を尽くして闘おうとする。この特異な役割は、日本の歴史的産物だということを忘れてはならない。ほかの民主国家の検察の役割は法の番人であるが、日本の検察が守らているのは法律などではない。彼らが守ろうとするのはあくまで政治システムである。しかも、半ば宗教信仰を思わせるような熱意をもってその任務に取り組んでいるのである。 本来、検察は、同じように伝統を誇るほかの官僚にも増して、「天皇の忠臣」の手本のような存在であった。しかもそのような役割に付随する権力が与えられていた。検察がこのような権力を掌握したのは一九二〇年代にさかのぼる。司法制度全体を支配するにいたった検察の下で、日本の裁判官はまるで付属物、検察の使用人のようなあつかいを受けるようになった。一九三〇年代になると、検察は、軍国主義者たちがみずからの右翼的政策を正当化するために利用した、「国体思想」というイデオロギーを支持した。政策を阻もうとしていると見なされれば、政治家を含めてだれもが検察による苛烈なあつかいを受けた。 p71

続いて、山県に続いた人物として平沼騏一郎を紹介し、戦後の政治家と検察の維持関係について語る。

・・・戦後、平沼のやり方に倣ったのが馬場義続[元検事総長、1902-1977]である。彼は自民党のリーダーのひとりだった河野一郎[1898-1965]に恩を着せ、彼を操ることで政治的な影響力を増した。

先に述べたように、自民党の政治家たちはもちろん裏で取り引きをしていた。自民党が長い間存続できた理由のひとつは、同党が従来の日本の政治システムの維持に寄与してきたことである。つまり彼らは検察と特別な関係を取り結んでいたということだ。自民党の「保守的な姿勢」の恩恵を受ける検察は、有力政治家たちが政治資金や選挙などでたとえ重大な法律違反をしても、ことさらに騒ぎ立てはしなかった。こうして真に重大な犯罪行為でないかぎり、政治家たちが不正を働いても、検察は通常はそれを見咎めることはなかった。たとえ大きな不正行為に手を染めたのであったとしても、官僚出身であれば、そうした政治家が司法関係者に邪魔立てされる心配はまずなかったと言っていい。一方、いわば草の根出身の政治家の楊合は、さほど運がいいわけではないが、それでも守られた状態にあったと言える。p72-73

しかし。天才的ともいえる政治家、田中角栄は、その過大な実力ゆえ、葬られることになる。

そして、民主党政権とアメリカとの関係も興味深い考察が開陳されている。

ところが、二〇〇九年九月に民主党が政権を握ると、軽い衝撃がアメリカ政府内を走った。アメリカ人記者のなかには、これまでアジアのなかで自分たちが懸念するとしたら、つねに中国だと相場が決まっていたが、これからは日本のことも心配しなければならななったようだ、とアメリカ政府の役人が語ったと報じた者もいた。そうした反応はすべて鳩山首相が、日本は、これからはより対等な立場でアメリカとかかわることをめざすと述べ、沖縄のアメリカ海兵隊基地の移設案をすぐに受け入れようとしなかったために生じたのだった。

鳩山氏、そして小沢氏が当初から望んでいたのは、アメリカ大統領を含む政府幹部たちとひざと膝を突き合わせて、世界の変化について、台頭する中国について、ほかの東アジア地域内の問題について、さらには新たに生じた問題に対処するための新しい方法について議論することであった。

たとえいかに批判的に見たとしても、それは実にもっともな要望である。

そして鳩山氏はそうした要望にもとづいて、オバマ大統領に面会を求めた。私が数え上げただけでも、彼は少なくとも三度、要請した。さて、アメリカに次いで重要な地位を占める先進国の新しい首相が、世界最大の先進国の、これまた就任して日が浅い大統領と語り合いたいと望むことほど、道理にかなったふるまいが一体ほかにあるだろうか? これまで何十年間というもの、互いこそがもっとも重要な同盟国だと考えてきた両国が話し合いをすることになんの不思議があるというのだろうか?

しかし鳩山氏の努力はなんの成果も得られなかった。アメリカは彼にきわめて無礼な態度で応じたのである。彼はバラク・オバマと広範な問題について話し合うチャンスを与えられはしなかった。一度など、鳩山氏の求めに対して、アメリカ政府の報道官は、もし日本の首相が連立内閣内で国内間題を解決するつもりであるのなら、アメリカの大統領を利用すべきではないとすら発言している。鳩山氏はまたコペンハーゲンで開催された環境会議の際にひらかれた晩餐会で、ヒラリー・クリントンと話す機会があった。会場の外で待ち構えていた日本のメディアは、もちろん友好的で前向きな話ができたというコメントを期待していたことだろう。ところがアメリカに戻るや、ヒラリー・クリントンは日本大使

を自分のオフィスに呼びつけ、鳩山氏がウソをついたと非難したのだった。さらにオバマのアドバイザーを務めるアメリカの高官がどこかで出くわしても、日本の首相に10分以上時間を割いてやる必要はないと大統領に伝えたという発言までもが伝わっている。

たとえ相手がどんな岡であったとしても、二国関係のなかでアメリカのようなふるまいは決して許されるものではない。このような侮辱を受ければ、自国の大使を召還させることすらあるだろう。友人であるはずの日本に対して、アメリカがこのような態度をとるなど、信じがたいとしか言いようがない。

これまで私を除けば、日本の政治や日米関係について詳細に検証し、それについて執筆し続けてきた非アメリカ人作家はオーストラリア出身のギャバン・マコーマックただひとりだ。この一件が起きた後、彼は、たとえ相手が敵国であったとしても、アメリカが他国に対してこれほどまでに無礼で、侮辱的なふるまいを見せたことは、いまだかつて一度もなかったと言っていた。

こうしたいきさつを日本の新聞はあまり報道しないか、たとえ報じたとしても、大抵は、日本の首相のやり方がまずいから、アメリカ政府にそのようなあつかいを受けたのだ、という諭調で書かれているのだ。つまり外交手腕に欠けるため、鳩山首相には、新しい状況に適切に対応することができなかった、と結論づけられてしまうのである。しかしそうした論調は、明らかに重要な事実を見落としている。それは相手国の主権を認めようとしない国との間に、外交など成立し得ないということだ。それこそが日米関係という間題の核心でもある。

そもそもアジア情勢の変化についてオバマ大統領と真剣に話し合いたいという鳩山氏の求めをすげなく拒絶する以前から、アメリカが日本の主権を認めていない事実は、アメリカ政府高官の発言の端々にあらわれていた。本書でも述べたように、民主党が政権を獲得することになった選挙前の時点で、東京を訪れたヒラリー・クリントンは選挙でどの政党が勝利し、政権党になろうと、アメリカは従来のやり方を変えるつもりはないと言明していた。これは日本がその三分の二もの致用を負担する、沖縄にあるアメリカ軍基地を指しての発言であった。つまり、ヒラリー・クリントンは、これから日本の新しい政権の座に就こうと、待機していた政治家たちに向かって、あくまでボスはアメリカであると警告し

たのだ。民庄党政権が発足すると、今度はゲーツ国防長官が訪日し、またしても自分たちこそがボスであるごとを無礼な態度で示した。そのとき彼は、外交儀礼である日本の自衛隊による栄誉礼を拒絶したばかりか、歓迎食事会にも出席しなかった。

愛国心のある目本の記者なら、あるいはこのようなふるまいに激怒していたのかもしれないが、それは報道にあらわれてはいなかった。逆に、日本のメディアは憤慨するどころか、アメリカの態度こそ日本の新しい政権が安定していない証拠だと説いたのであった。

そのような論調が、数十年にわたるアメリカ政府周辺の専門家やシンクタンクなどの古い人脈を持つ、自民党政治家の解釈であることは疑いない。官僚や元官僚、そして夏の選挙で民主党に敗北した自民党の政治家たちは、長年にわたって交流のあったアメリカ政府周辺の関係者たちに、鳩山政権をまともにあつかわないよう忠告していたのであった。彼らにとっては選挙に圧勝して新政権が誕生したことも、そしてその新しい政府が国民のぞむようなやり方で、日本の政治を変えようとしていることも、なんの意味もないらしい。民主党政権が日本の政治という舞台でつかの間上演される、おそまつな幕間劇でもあるかのようにに見なす諭調が日本側にあるからこそ、いまアメリ政府内で日本を担当するペンタゴン出身者たちが日本にやってくると、保護者を任じる同盟国アメリカに対する新政権の態度はなっていない、と声を荒らげることになるのだ。だからこそ日本の運営を任せるべきではないのに政権を強引に奪い取った無能な集団であるかのように、新政権はあつかわれたのである。コロンビア大学のジェラルド・カーティスといった日本学の権威とされる人々までもが、最初の民主党内閣を中傷するような発言をして、かえって日本の政治になにが起きているかをまるで理解していないことを、みずからさらけ出すことになったのであった。

日本のメディアの記者たちは、自分の国がどんなあつかいを受けているか気づかなかったのだろうか? 民主党がアメリカに対等な立場を求めたことは、日本の主権が認められていない事実を指摘したものであったにもかかわらず、アメリカがそれを完全に無視したという構図が、彼らには見えなかったのであろうか? メディアはもちろんアメリカのふるまいが無礼であることはわかっていた。恐らく紙面の編集者たちは、日本は本当に主権国家なのだろうかと、漠然と疑問に感じているのではないだろうか。日米関係について語る際、日本は純粋な意味では独立していないと多くの人々が認め、またそのことがよく話題にもなる。また対中関係でもこのことが間題となっていることは、やはり多くの人々がうすうす感じている。

しかし目下のところ、日本ではこうした新しい事態に対するはっきりした見解が打ち出されるにはいたっていない。新聞はそれをどう理解していいかわからないので、これまでと同じような反応を示すにとどまっている。そうした出来事が、馴染みある報道パターンに当てはまらないので、どうあつかえばいいのかわからないのだ。p165

なかなか日本のマスコミを通じてはわからない日米関係の描写ゆえ長い引用になってしましたが、いかがだったでしょう。外国人ならではの観点は、確かにあると思います。