禁じられた知―精神分析と子どもの真実 /アマゾン投稿

忘れもしない、私のアマゾンのレヴューデビューは禁じられた知―精神分析と子どもの真実でした。残念なことにこのレヴュー、しばらく前から文字がかぶってしまい、読めなくなっていたのです。

今日、たまたま昔のパソコンをいじっていたら、オリジナルのファイルが見つかりました。念願の修正を施すことができ、アマゾンのサイトで読むことができるようになりました。これも何かの縁でしょうから、この場にも掲載しましょう。

以下がそうです。

幼児期に体験したことが大人の無意識内部に蓄えられており、精神病症状として表現されるという事実はまず、ジクムント・フロイトによって発見されました。フロイトは自分の扱っていたヒステリー患者の全てが、子供時代、性的に弄ばれた経験をしていることに気づき、そこからこの事実に至ったのです。ところが、フロイトはまもなく、自分の患者の言うことを信ずるのをやめてしまい、患者が子供時代、性的に弄ばれたと語るのは単なる幻想であるとみなすことに決め、衝動理論に転じていくのです。

著者アリス・ミラーは、ただひたすらさまざまな例を紹介しながら、そのフロイトの転向を告発し続けるのですが、きわめて説得力があり分かりやすいのです。そして、フロイトの転向による問題はかなり明快に論破しています。フロイトを難しく考える方にはお勧めです。

昨今、日本でも小学生誘拐、拉致事件などが勃発していますが、原因を調べる上では、この本の、『個性的虐待は、世代を超えた連鎖の結果』という視点は重要です。

また、100ページ以上にわたる、有名な「変身」の作者、フランツ・カフカの分析は圧巻です。下手なミステリー顔負けの推理ともいえる分析は、スリル満点でした。カフカに興味のある方は必読です。

500ページ近くのボリュームですが、集中が途切れることなく最後まで楽しめました。アウシュビッツロリコン、渋谷の小学生誘拐、新潟の中学女子生徒拉致、家庭内暴力など、社会問題から文学まで、この本の関与する問題は今後も多発し続けることでしょう。

アマゾンへのレヴューはそこそこ書いています。実名で書いてますので、禁じられた知のレヴューから辿ってもらえればすべて読むことができます。禁じられた知は記事がだぶってしまいましたが、いままで読めなかったのが読めるようになったと言うことで、勘弁してもらいましょう。他はだぶっている記事はありません。すべてオリジナルです。

で、なんでこの本を読んだのか考えていたのですが、多分ファミリー・シークレット―傷ついた魂のための家族学を読んだ後に書店(東京駅前の八重洲ブックセンター)で類書を見つけ購入したのではないかと思います。ですから、1995年頃に読んだのですね。15年前か。

いずれもおもしろい本でしたね。ファミリーシークレットは家族間に秘密は保てないという本です。とはいっても秘密のない家庭は多分ないと思うのですが、ところが当人は秘密を隠し仰せたとおもっても、家族には伝搬し、とくに親の秘密は子供に結実してしまうという内容でした。いわゆる「親の因果が子に報い・・・」というようなものです。仏教で言う「業」ですか・・・、この業を絶つのがある意味人間の使命でもあるというような話はききますね。親と子は本当に長い間一緒にいるわけですから、どうしても似てしまいますよね。始末の悪いことに当人同士はそれがわからないわけです。当たり前だと思ってしまう。意識して自覚しない限り、死ぬまで業を背負ったままなのです。「かわいい子には旅をさせろ」といいますが、これは子供のためであると同時に親のためでもあります。

話がそれてしまいましたが、まぁ、難しい本なのにどうして私が読むことになったのかはそのようなわけです。ファミリー・シークレット―傷ついた魂のための家族学は書店で展示されている本を立ち読みして購入しました。おもしろい本は、結構覚えているもんですね。

幻の映画 ア・ルース・ボーイ 見ました。

仙台メディアテーク7階スタジオシアター(スクリーンに描かれた街 仙台)にて「ア・ルース・ボーイ(出演者小嶺麗奈/岡田義徳/KONTA)」鑑賞しました。

全編仙台ロケということで、見ていて飽きなかったな。原作者佐伯 一麦氏のゲストトークもおもしろかった。会場には、当時エキストラや映画の赤ん坊役で出演した方々も鑑賞にきていたりしていて盛り上がりました。映画もよかった。

帰り際に映画好きの知り合いに会ったので、「映画の出来はどうなの?」と聞いたら「良くない」との応え。また、「ああいう小説を映画にするというのはどういうこと?」と聞いたら、「私小説ですよ」という応え。この「私小説」という言葉が妙に腹に落ちたなあ。

学生時代に吉本隆明の「共同幻想論」が大ブームになり、読んだのだがさっぱりわからなかった。この本の中に、個人幻想、対幻幻想、共同幻想というキーワードが出てくるのだが、全くわからない。わからないままに、結婚して子供ができて、先日子供たちが独立して家をでていったのだが、おぼろげながらに個人幻想、対幻想、共同幻想の重要性がわかり始めたような気がする(共同幻想論はわからないまま)。

簡単にいえばこうだ。社会的に断絶した状態で一人でいる。ま、学生時代が個人幻想の領域。恋をして(しなくても)結婚したら対幻想の領域。子供ができたら共同幻想の領域だ(子供ができなくても、社会生活を営んでいればその領域は共同幻想の領域になるのだが、話を簡単にするために)。

わかりやすくいうと。例えば夫婦げんかをしたとしよう。たいした理由で始まるわけではないのだが、ま、原因がある。喧嘩が収まらない場合には、子供たちが夫と妻の言い分を判断する。社会的な問題の場合は、裁判所が判断するわけだが、このような第三者の判断が効力をもつ状態が共同幻想の領域だ。

ところが、子供たちが独立していなくなった場合。夫婦げんかに第三者は介在しなくなる。社会的にも「夫婦げんかは犬でも食わない」ということばがある。そうすると、どうなるかというと。

強いものが勝つ。

これが対幻想の領域だ。愛も理屈も、客観的判断がない状態。しかも二人しかいないのだから、中途半端な妥協などは一切ない。あるのは勝者と敗者のみ。対幻想は、ここまでにしておこう。なかなか危険な領域ではある。

そして個人幻想です。これを体験的にいうと「時間がなくなる」状態です。自分しかいない、自己完結しているわけですから、起承転結が起結になり、さらに起結すらいらなくなるように早く完結する状態です。理屈もある意味いらない。自分が納得すればいいわけですから。

ということで、ア・ルース・ボーイに戻ると、この主人公の男の子は対幻想の領域にいるように見えるのですが、子供は自分の子供ではないわけですので、おそらく個人幻想の領域にいるままなのでしょう。相手役の女性は共同幻想の領域にいます。映画ではでてきませんが、赤ん坊の父親との交渉もしているわけですから。当然、主人公の甘さはしっかりとわかっています。

最後には女性と赤ん坊が主人公の元を去っていくわけですが、これは当たり前の結論ですが、主人公には全くわからない。よって、映画では甘くきれいに撮られているわけですが、まあ、マスターベーションでしかない。こう考えると、映画冒頭のひまわりが画面いっぱいに映り出される場面とか、映画なかほどのモンキーズTVドラマ(古いか)のプロモビデオのような場面も納得がいく。ただただ甘い場面だけだったのだ・・・。

そして、私の疑問「こんなひとりよがりな物語を映像化する理由はあるのだろうか?」があるのですが、映画通は「私小説」と言ってくれたので腹に落ちました。

実は、この日仙台フォーラムにて、「ア・ルース・ボーイ」の前に「雪国(1957東宝/主演岸恵子・池部良)」を鑑賞していて、質の良さに感激していたところもあったので「ア・ルース・ボーイ」に辛い疑問をもつことになったのでしょう。

「雪国」観賞後にも対幻想に考えが及んでいたこともあり、「私小説」ということばで、それがつなぎ合わされたということも腹に落ちた理由なのかもしれません。

余談ですが、この映画の製作費用は8500万円とのことです。今回が二回目の披露ということですが、前回が80名ほど、今回が200名ほどということで、8500万円を1/280で計算すると、おお、303,571円だ!!

にっぽんのうた 世界の歌 / 富沢美智恵 / 二つで一つ

NHK FMで放送中のにっぽんのうた 世界の歌はカーラジオで聴くことが多く、なかなかいい番組だなと思っていた。選曲も渋く、声も地味で落ち着くなあと思っていたので、セーラームーンの火野レイ役の声優さんだとは思ってもいなかった。地味などこかのおばちゃんだと思っていた。

番組の語りのバックで流れているギターのインストルメンタル曲がある。ある日この曲にリクエストがあった。そして流れてきたのが2つで1つだった。

喜びと悲しみは2つで1つだから/と゜うそ゜ 泣かないで/明日はきっと晴れる

出会いとさよならは 2つで1つだから/どうか 忘れないで/いつかはまた出会える

夜の向こう側で 朝が君を待ってる/見上げた月の分だけ心が太陽になるから

あこがれとため息は2つで1つだから/どうぞ諦めないで/夢ならきっと叶う

冷たい雪の下に新しい命がある/凍えた冬の分だけ心が春になるから

喜びと悲しみは2つで1つだから/と゜うそ゜ 泣かないで/明日はきっと晴れる

「禍福はあざなえる縄のごとし」といいましょうか。表裏一体ともうしましょうか。でも、2つで1つというのはいい表現ですね。分け隔てがない、不公平ではない。喜びも悲しみも、同等に評価してますよね。これはいいと思います。リンク先にあったyoutubeのプロモビデオもいいですね。中ごろにテロップされるフレーズもいいですよ。

重荷だと思っていたものは支えだった

いいですねぇ。深いな。

生だったら、死。でも、人は生を愛し、死を忌み嫌う。いつかは死ぬのに、死をおそれあたかもないものかのように取り扱う。これはだめだと思う。「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉がありますが、これは死をおそれないということではなく。生きるということは、翻って死ぬことと同じだということです。いかに生きるかは、いかに死ぬかと同じです。2つで1つなのです。「武士道とは生きることと見つけたり」というのではなく、「武士道は死ぬことと見つけたり」ということで、深い言葉になるのです。

ゲド戦記-影との戦い-。最強の敵、”シ”との戦いは自分の影との戦いでした。最後にシを許し、自分の影と同一化して物語は終わります(多分そうだったと思います。もうだいぶ前に読んだので忘れてしまいました)。
ちなみにジブリのアニメは失敗作ですね、宮崎駿がいうように。
そういえば、「崖の上のポニョ」はどうですか。あれは楽しくカワイイ映画でしたが、裏がわは恐ろしい話ではありませんか?一目で好きになった男をどこまでも追いかけていく。嵐をもおこして、会いに行くのです。八百屋お七も真っ青ではありませんか。
ポニョは「女の一生」だと思います。なにも知らない稚魚が男を好きになり、一途に愛する。その過程で変態を繰り返します。映画のラストで、宗介はポニョを生涯愛しますかと問われて「うん」と答えますが、これが宗介の偉大なところなのです。
リサ(宗介の母)、グランマーレ(ポニョの母)、トキ(口うるさいおばあさん、宮崎駿の母がモデルともいわれている)もポニョというか女性の化身です。ポニョはリサになりグランマーレになりトキになるのです。トキにやさしい宗介はポニョにもやさしいままでいることでしょう。
小賢しい男でしたら、「うん」とはいえません。ポニョがおこした嵐にビビってしまうことでしょう。宗介は「うん」と素直に、難しいことは考えずに答えます。
「知らぬが仏」、あれ! 違うか・・・、「喜びと悲しみは2つで1つだから・・・」。ちょっと違うかな・・?・・・

ぼくが愛したゴウスト / 打海文三 (うちうみぶんぞう)

ぼくが愛したゴウスト 読みました。

イントロ部分でおもしろそうだと思い、著者の略歴を探したのだが見つからない。主人公は11歳の少年。著者はまだ若いのかなと思った。

しかしながら、途中でだめだと思った。こういうパラレルワールドものはロジックがしっかりしていないとだめです。若い人には無理だなと思いつつ、読書を終えて翌日、今日ですが、ネットで調べると1947/10/23-2007/10/9となっていました。本が世に出てから2年後にお亡くなりになっていたわけですね。

映画「春との旅」見てきました。非常に良かったです。

予告編(上記リンクの公式ホームページ視聴可)のような「お涙ちょうだい」映画ではなく、また、登場人物は味のある善人ばかりで、安心してみれます。こんな映画は最近は珍しいでしょう。また、いい役者さんを揃えてますね。

ストーリィは、厳しく、出口の難しい現実を直視しており、逃げてはいません。しあわせとは安易なものではなく、もちろんお金などで買えるものではなく、真摯な生き様を通して獲得していくものなのですね。

最後は、帰りの電車の中で、老人が死んで(と思う)春が泣き叫んで終わるのですが、これは悲惨な結末ではないと思います。

人は必ず死ぬのです。死ぬのが問題ではなく、死に方が問題なのです。