ウィキリークスが暴くもの 番外編

日本経済新聞、今日の中外時評は、ネット流出について語っているが、いままで出た日本経済新聞の意見の中ではまともな方ではないかと思った。というのは、既存メディアとネットの相克関係は今後も続くだろうし、その中で、当事者としての既存メディアの意見はバイアスがかなりかかっていて、なかなかまともには受け取れないと思うからだ。

まずは、中外時評をご紹介。

(中外時評)権力は隠す、しかし… “文法”のない暴露の危うさ 論説委員 小林省太
2010/12/26付日本経済新聞 朝刊
「権力は腐敗する。絶対的な権力は絶対に腐敗する」とは、19世紀英国の歴史・思想家、ジョン・アクトン卿の有名な言葉だ。それをこうもじっても、意味はさほど変わるまい。
「権力は隠す。絶対的な権力は絶対に隠す」
そうであれば、対抗する力がなければならない。不当に隠されたものを「暴く」力である。その力を持つことが、メディアに求められてきた最も大きな役割のひとつだろう。
「暴く」とは、隠されたものを手に入れることとそれを伝えること。取材と報道だ。どちらも長い年月をかけてルール化されてきた。日本でそのルールを側面から補強してきたのが、司法判断の積み重ねである。
「報道機関の報道は、民主主義社会において、国民の『知る権利』に奉仕するものであり、事実の報道の自由は、表現の自由を規定した憲法21条の保障のもとにある。報道が正しい内容をもつためには、取材の自由も、憲法21条の精神に照らし、十分尊重に値する」。1969年の最高裁の指摘は、憲法がメディアの仕事を保障していることを明らかにしたという点で、大きな意味を持っている。
公務員は「職務上知ることのできた秘密を漏らしてはならない」と法律で決められている。一方、メディアは秘密を手に入れようとすることがある。
この点について最高裁は78年、「公務員に対し根気強く執拗に説得ないし要請を続けることは、それが真に報道の目的からでたものであり、その手段・方法が法秩序全体の精神に照らし社会観念上是認されるものである限りは、正当な業務行為というべきである」と述べた。
条件付きではあるが、守秘義務の壁に挑んで情報を得ようとする記者の行為は違法ではないと判断したのである。
その行為を支える倫理の基本ともいえる取材源の秘匿については2006年、最高裁が「取材の自由を確保するために必要なものとして、重要な社会的価値を有する」「特段の事情が認められない場合は、取材源の秘密は保護に値する」との判断を示している。
留保条件はあるにせよ、こうして既存のメディアの役割は安定し、社会的にも認知されてきたといっていいだろう。日本に限らず、こうした仕事のなかからニクソン米大統領を辞任に追い込んだウォーターゲート事件の報道も生まれたのである。
ところが、既存メディアとはまったく別の「暴く」ルートがある。そんなことを改めて思い知らせたのが今年後半に続いて起きた事件だった。
尖閣諸島沖で中国漁船が海上保安庁巡視船と衝突した事件の映像がインターネットの動画サイトに投稿された事件。警視庁公安部の内部資料がネット上に流出した事件。そして、世界を騒がせた内部告発サイト「ウィキリークス」による米外交文書暴露である。
それぞれの性格は異なっている。共通しているのはネットが舞台になっていることと、取材や報道という既存メディアとは無縁の仕組みで情報が流れたということだろう。
既存メディアは取材で集めた情報を吟味し、加工する。真偽の確認。伝えるに値するのはどこか。伝えるべきではないのはどこか。軽重の順序。新聞ならスペース、テレビなら時間の制約もある。そうしたチェックのうえで報道する。ニュースをひとつの文法に沿って受け手に流す、と言えばいいだろう。
しかし、ネットに流出した情報に、吟味の跡はまったくないか希薄だ。情報はナマのまま瞬時に世界中を駆けめぐる。暴くというより、漏らすといった方が当たっている。
事件の背景には、既存メディアが求められている役割を十分に果たしていないという不信がある、との指摘が出ている。批判には耳を傾けねばならない。ネットが情報伝達の有力な武器であるのも確かだ。しかし一方で、事件が示した危うさにも目を向けないわけにはいかない。
一言で言うなら文法のない危うさである。情報は真実なのか。個人を無意味に傷つけ、国や国民の安全を脅かす恐れはないのか。結果的に権力の「隠す」姿勢に加担しないか。そうした視点のないまま、国の秘密も個人のつぶやきと同じ器に投げ込んでよいものだろうか。
既存メディアの文法は長い時間をかけて作られてきた。相次ぐネットへの情報流出は、その文法が通用しない世界の出現を見せつけている。もし文法がないことこそネットの真骨頂だというような見方があるとしたら、それは危うさを助長するものでしかない。

まとめると、ネット流出情報の重要性を評価しながら、後半、ネット流出情報への危惧というか、既存メディアの優れた点の記述してバランスをとっている記事なのだが、素直に読めば、後半の既存メディアの優れた点こそが、実は既存メディアの限界を露呈したものであることがわかる。

反権力という旗の基に築き上げてきたメディアの存在価値は、逆にいうと権力との協力関係を築きあげてきたということに他ならない。上記の記事には、一流大学出のエリート記者が、東大出身のエリートとの緊張関係でつくりあげた強固な権力構造について語ったものであり、下々の姿はみごとに省略されている。記事で語っている”危うさ”は”権力の危うさ”である、”危うさを通り越してる下々”にとっては、”危うさ”ではまったくなく、それこそ、危うさを作り上げてきた犯人をあぶりだす手段になるかもしれないのだ。

“文法のない危うさ”に解を求めざるを得ない記事は、権力の発するSOSを露呈しつつ、なおかつ、いまだに解が見出せない権力の焦燥をもあぶりだしているといえよう。

瞑想歩行中に経験したリモートビューイング

黒住宗忠ではありませんが、太陽の陽ざしを浴びながら歩くのは好きです。帽子をかぶっていたら、脱いで、頭に陽があたるようにして歩きます。姿勢を良くして、意識を太陽に向けると、あっという間に変成意識に到達します。

今から十数年前、90年代にこのような状態で歩行していたら、リモートビューイングを経験してしまいました。場所は下記に埋め込みましたのでご参照下さい。

より大きな地図で 瞑想歩行中のリモートビューイング を表示

ここを瞑想しながら歩いていると、急に眼前にメタリックブルーのイメージが現れました。それは、聞こえてきた爆音とともに、イメージはバイクになり、走り出します。驚いて目を開くと、目の前の左手からメタリックブルーの大型バイクが現れ、そして去っていきました。

いまから考えると、バイクの起動音に意識が触発されてイメージを形成したのだと思います。イメージの視点から推察するに、ライダーの意識を共有したか、感知したかですね。また、サイカワの通用門側の起点を指摘できるわけですから、あたりのイメージをも感知していたと思われます。イグニッションキーを回す覚えもありますから、前後の時間も感知していたというか、爆音の発生する前も含有していたことになります。

イメージの想起した段階では、なにがおこったかわからず、しばらくしてから、左手からバイクが登場してきて、イメージのなかの爆音とバイクのカラーが一致しているというえ、リアルタイムで重なっているわけです。もちろん、さらにわけがわからくなって、バイクが眼前から消えてしばらくしてから、全体像がわかるようになった。つまり、リモートビューイングだったんだとわかったわけです。

メタリックブルーは太陽の光を浴びて光っていました。

子どもはみな前世を語る

子どもはみな前世を語るを読んでいます。寝る前に読んでいるのですが、531頁もあるので、半月ぐらいかかっているかな。現在は400頁目あたりで、もう少しで読み終わります。以前に、猿の詩集(上・下) / 丸山健二を読んでいるときに、父親を身近に感じたのですが、この本を読んでいるときに子供たちの存在を感じました。

原題は”Children’s Past Lives”。著者、キャロル・ボーマン(Carol Bowman)が、実の子供達が過去世を語っていることに気づき、その劇的なヒーリング効果などを眼前に見ることにより、過去世療法、退行催眠などを学習し、研鑽、追求していく本です。理屈のみではなく、実生活に根ざした体験なので、説得力があり、著者の研究の成果なども交えての進捗状況も、貴重なものであります。『前世療法』の著者、ブライアン・ワイス、輪廻転生のイアン・スティーブンソン氏をはじめ、おもだった、前世や輪廻のキーパーソンにも言及、参照しているので、そのあたりの勉強している人にはお薦めできる本です。

ちなみに“past life regression”でyoutubeを検索してみたらかなりのムービーが並んでいました。時間のある時にゆっくり鑑賞するつもりです。言葉がゆっくりなのでヒアリングの勉強になるかななどとも考えたりしました。

さて、この本から今回ご紹介するのは、子供がエンジェルだったはなしです。(338-339頁)

 

【小さな赤い車】
これは、子どもたちが「受胎するずっと前に、両親の周囲を浮揚していた」と語っている、数多くの事例のうちの一つである。この事例を私に伝えてくれたのは、ワシントン州に住むジュデイーという母親だった。
それは、彼女の二歳の娘ジェシカが、どうしてママはいつも車椅子に乗っていて、他の人たちのように歩けないのかと尋ねてきたときに始まった。二歳の子どもに理解可能な言葉を用いて、ジュディは、彼女の足を不自由にした交通事故のことを話して聞かせた。するとジェシカは言った。
「私、そこにいた」
「そんなはずはないわ、ジェシカ。ママがまだずっと若くて、結婚していなかった頃のことなの…」
私(ジュディー)は言いました。「あなたはまだ生まれていなかったのよ」
「私、そこにいた」彼女は静かな自信を漂わせながら、同じ言葉を繰り返しました。
とっさに私は、彼女の話を真剣に聞く必要性を感じました。
「どのあたりにいたの、ジェシカ? ママはあなたがいることに気づかなかったんだけど」
「あそこで.座って見ていたの。ウー、ウーって言う車が来て、ママを連れて行くまで」
私は唖然として尋ねました。
「そうやって、ママがもう大丈夫だということを確かめようとしていたわけ?」
「うん」そう言うと彼女は、私の車椅子から手を離し、走って遊びに出かけていきました。
私はこのジェシカとの会話を、その後何日にもわたって、気がつくと頭の中で反芻していました。私にそうさせたのは、彼女が言ったごとそのものというよりも、そのときの彼女の真剣な表情でした。
私は母に、この会話のことを話しました。すると母は、サラッと言ったものです。
「あなたに守護天使か何かがついていたことはわかっていたわ。でも、それがあの子だったなんてね。そこまではわからなかった」
二週間後、もっとビックリすることが起こりました。ジェシカが突然、部屋に入ってきてこう言うのです。
「あのときママは、小さな赤い車から投げ出されたのよね? それで大怪我をしたのよね?」
「そうよ。車から投げ出されたの。でも、赤い車だったかしら?よく覚えていないな」
ジェシカは自信ありげに繰り返しました。
「小さな赤い車がママを投げ出したの。それでママは、怪我をしたの」
私はハッとしてその小さな天使を見つめました。小さな、赤い車……そうだ。そうよ。思い出したわ。確かにそうだった!あの車は、小さな赤のフォルクスワーゲンだった!

男女のハートに弓矢をあてて恋の成就に手助けをするというキューピット。あのキューピットはお父さんとお母さんを選んで結びつけ、その子供となって生まれて来るという話を、最近なにかの本で読み、なるほどなあと思っていた矢先、この話に出会いました。

いつか見たいと思っていた僕の天使。実はこどもたちだったんだね。サンキュー!

坊主は新しいのが好きなんじゃない

坊主は、実は私のあこがれの職業です。いつか出家したいと思っています。坊主は常に最先端の新しいもの好きでいて欲しい。そう思っています。

最近流行のスマートフォンも実は興味津々。いつかオーナーになろうと思っています。ちょっとした不安もあります。スマートフォンとトヨタのハイブリッド車は、あまりにもありすぎ。街で石ころをぶつけるとどっちかには必ずあたると思います。そういった現象は、やはり異常で、レミングスではないですが、どっかの沼に大量廃棄になってしまうのではないでしょうか。アマゾンブックストアでは、ベストセラーの本やCDは中古で1円になっています。スマートフォンやハイブリッド車も一円になってしまうのではないでしょうか、近い将来。ちょっと楽しみではあるのですが・・・。

そんな私が日経新聞の記事にがっくりしました。スマートフォン嫌いの坊主のインタビュー記事です。以下にご紹介。

情報端末から距離を 人と「つながる」は錯覚 月読寺住職 小池龍之介氏
インタビュー領空侵犯 2010/12/20付
――スマートフォン人気に異論をお持ちだとか。
「デジタルツールを通じて人と人がつながるといわれますが、それは錯覚です。ネット空間の情報の海の中で誰もが共通して強い関心を抱くものがあります。それは『自分の所在』です。自分が人からどう扱われているか、大事にしたいと思われているか……。すごく気になるのです。皆から認められたいというのは、誰もが抱く気持ちですが、自分あてのメッセージが生存に役立つ情報だと錯覚されています」
――ツイッターやメールですぐに返事が来ないと、寂しくなりますね。
「ネットで何か発信すると10秒後に答えが返ってきたりします。すると、あ、相手をしてもらえた。つながっているんだな、と感じます。その瞬間は気持ちがいい。ここに大きなワナがあります。うれしいと感じる脳内の作用に“慣れ”が生じるからです」
「返事を早くもらえないと不安になり、不信感や怒りに襲われます。しかも次の反応が来ても前ほどは気持ちよくない。何か足りない感じがして、もっと速く、もっと多く、という循環に入り込みます」
――ネット疲れ、ネット中毒という言葉もあります。
「情報端末から得られるのは、主に記号情報です。会話する相手の顔や声はなく、文字やアイコンだけです。人間の脳は、記号からイメージをバーチャルに再構成する性質を持っています。言語は抽象度が高い伝達手段なので、受けとる側は情報を変形、加工しなければならない。いくらでも連想ゲームを発展させることもできます。その作業を行うとき、私たちの心はとても疲れるのです」
――ネットへの依存が高まると、どうなりますか。
「バーチャルな情報処理量が増え、心の負荷が高まり、心が現実からどんどん離れてしまいます。それでも、ちっぽけな快感を得ていないと安心できなくなり、絶えず情報端末にアクセスするようになる。一瞬の快楽をもたらす脳内物質のドーパミンは、生物の生存に役立っていますが、野放しにすると暴走します」
――とはいえ情報ツールは買い物などに便利です。
「ネット空間で本当に売られているものは何だと思いますか? 実は『自分』が商品になっているのです。誰かに見てもらえる。誰かとつながることが商品になっている。つながりが欲しいということは、裏を返せば、みんな寂しいということです。寂しさが商売のネタになっているといえるでしょう。情報ツールと距離を置かないと、人は現実の身体感覚を忘れ、言語だけであれこれ考える“脳内生活”になってしまいます」
<聞き手から>
思い当たるふしがある方は多いのではないか。メールやネットの掲示板は気にし始めると気になって仕方がない。小池氏の著書や座禅道場の人気の裏側には、自分の心の在りかを見失ったネット空間の迷子が大勢いるに違いない。高機能の情報端末に人間が振り回されるのでは困る。寂しがっている場合ではない。(編集委員 太田泰彦)
こいけ・りゅうのすけ 1978年生まれ。山口県出身。東大教養学部卒。東京・世田谷の月読寺の住職。瞑想(めいそう)の修行を続ける一方、一般向けに座禅の指導をしている。著書『考えない練習』などが反響を呼んだ

小池龍之介氏は当ブログで取り上げたこともあります。期待していたのですが、残念です。インタビューではもっともらしいことをいっていますが、全然おもしろくないです。

ネット空間に限らず本当に売られているものは自分を含めて空しいものばかりではないですか。バーチャルといえば、いわゆるリアルそのものもバーチャルなわけで、ネット空間がバーチャルだとかリアルではないなどとはいえないわけです。色即是空、空即是色とはそういうことでしょう。

「情報ツールと距離を置かないと、人は現実の身体感覚を忘れ、言語だけであれこれ考える“脳内生活”になってしまいます」というのもおもしろくない。むしろ、情報ツールと距離をおかないで、現実の身体感覚にしてしまえば、言語を超えた身体知をも拡大することができるのではないかなどと想像力を羽ばたかせて欲しいな。

実際に、聴覚とか視覚とかがなくなった人でも電子機器を脳が感知できる生物信号に変換して直接脳につなげている時代です。立花隆がNHKの番組で紹介していたことがありますが、最先端科学はすごいです。当初は電子機器の精度が粗く、とても実用には耐えられないといわれていたのですが、実際に脳に接続してみると、脳が変化(進化)して十分に実用になっていった。そのうちに電子機器も進化して精緻になり、脳の進化との相乗効果が飛躍的なものになってしまったということです。

生まれつき耳の聞こえない人、目の見えない人でも、若い年代であれば、電子機器でも脳に馴染んでしまうと言うことです。

シリコンのコンピューターも、バイオコンピューターに変わっていくでしょうし、人間と電子機器の融合もさらにすすんでいくと思われます。そういった時代に、「情報ツールと距離を置かないと、人は現実の身体感覚を忘れ、言語だけであれこれ考える“脳内生活”になってしまいます」なんてことはまったくおもしろくない意見です。

それから「 実は『自分』が商品になっているのです。」なんて、使う場所がちがっています。資本主義が生起した時点で、すべて、ありとあらゆるもの友情も、恋も、時間も、森羅万象を貨幣価値に換算してしまうというのが、資本主義に内包された矛盾だったわけです。人間疎外とは、その矛盾をある意味言い換えたものなのです。卑近な例では、三高、つまり高身長、高学歴、高収入なんかがまさに貨幣換算です。身長も、学歴も収入も貨幣換算してしまうから、一律に意味を持つことができるわけです。身長が高い方が幸せ、学歴も高い方が幸せ、京都大学よりも東京大学の方が幸せ。年収1000万円より、年収一億円の方が幸せ。

実際、「幸せ」なんて、誰にもわからないことでしょう。それがいとも簡単に貨幣換算してしまうい、比較して判断できてしまう。簡単といえば簡単だが、それはあくまでもバーチャルで、リアルではないわけです。実際に、身長が高くても幸せであるはずがない、学歴も収入も、どこまでいっても満足できずに、むしろ不幸に不幸になってしまう。

そういったことを、ねじ曲げるようにネットとか電子端末のせいにするのは、間違いです。特に、坊主がマスコミで喧伝したら罪ですね。多くの人々を迷妄の世界に誘導してしまうことになる。

「一瞬の快楽をもたらす脳内物質のドーパミンは、生物の生存に役立っていますが、野放しにすると暴走します」などというのももっともらしい迷妄の所作です。パチンコで何万円もすった方が情報端末より、麻薬効果があるでしょうし、キャパクラで馬鹿騒ぎするほうがドーパミンは出るでしょう。そもそも、現代の資本主義社会で、いらないものも消費させるためには、ドーパミンは必要不可欠なもので、世に氾濫する3s(スピード、セックス、スリル)こそ、資本主義のアフターバーナーですよ。オートショーとか、レースには、水木姿の美人やレースクイーンがなぜいるのか、そういったことでしょう。それを、言うに事欠いて「情報端末にドーパミン」はないでしょう。

ここまで読んでくれた方には、もう一度引用したインタビュー記事を読んでください。いかに、意味のない記事であるかが実際に認識できると思います。

結論ですが、坊主もスマートフォンも悪いわけではありません。はさみとなんとかは使いようです。

いつかは、スマートフォンを持って出家してみたいなあ。

石原ヨシト 右岸の羊座 緊急ライブ

旅先で立ち寄った店に流れていた曲は、映画「裸の島」のテーマだった。曲名を女主人に確かめると、彼女は目をまるくしてうなずき、そして続けた・・・

「私、この曲を作った人の娘なのよ」

名古屋を本拠地に旅を続ける平成の吟遊詩人、石原ヨシト。仙台のシネマカフェ右岸の羊­座でのライブの一コマを紹介しよう。

動画は石原ヨシトさんの依頼で削除されました。