ネット革命にこそ、弱者の視点からの分析が必要

巷間、ネット革命についての論議が頻繁に取りざたされている。確かにジャスミン革命にはじまる世界同時多発ネット革命により世界は未だかつてないほどの激動を極めているわけで、こんなときほどな正確な現状分析が様々な観点から数多く求められているのだが、なかなか質の高い分析には巡り会えない状況だ。こんな時こそ、かつてのマルクス経済学が必要とされていると思うのだが、どうだろうか。

アメリカ帝国(主義ではなく、帝国にまで至ったといわれている)の極大化=資本主義世界のユダヤ金融支配の極大化→リーマンショックなどによる金融崩壊→国家金融資本主義の台頭→国家規模による世界経済搾取構造の極大化→ジャスミン革命に始まる世界同時多発革命時代の始まり→

私がざっと考えるところによると、上記のような骨格が浮かぶのだが、この骨格を補佐する現状分析にはなかなか巡り会えない。非常にもどかしい気がしています。

たとえば日本の場合、リーマンショックによる経済の建て直しが国を挙げて行われた。基幹産業は手厚く保護され、とくに銀行には0金利政策をはじめありとあらゆる補強が加えられた。銀行に限らず、車や家電の基幹産業については、エコポイントなどで大盤振る舞いされ、その甲斐あってか、大企業の回復は著しいものがあり、一部リーマンショックを超える利益をあげる企業も散見されるようになった。

しかしながら、一般庶民にその恩恵は回ることはなく、とくに若い人の経済的な困窮は回復の兆しさえない。むしろ、さらに悪化する方向にあるといえるでしょう。この、若者困窮化について、記憶に残るのは秋葉原通り魔事件です。この若者の派遣先での陰湿なイジメが引き金になったといわれているのですが、この派遣先での処遇などはあまり話題にはならず、この若者の特有な育ちに事件が集約されている状態です。昨日は「広島・高速バス横転 殺人未遂」がありましたが、これなども詳細に検討すれば、若者困窮化が必ずや背景にあると思います。

社会的な構造が不安定化すると、矛盾は弱いところへ先鋭化していきます。若者、老人、子供、女性などの弱者に抑圧がかかるようになります。

国際的でもそれは同じで、弱い国により多くの抑圧がかかっていきます。金融崩壊を前にアメリカ合衆国は未曾有の超金融緩和を実施、ドルが世界に蔓延して、資源の高騰化を招いているといわれますが、簡単にいうと、アメリカがドルを輪転機で多量に印刷して世界中から富みをアメリカに還流させているということです。ないところから富みを搾取されるわけですから、弱い国の弱い人々はますます食べていけなくなるわけです。

かつてマルクスはイギリスの困窮階層に胸をいためてユートピアを具体的に作成するために、科学的社会主義を掲げ「資本論」を書き始めました。そして、資本主義に内在する矛盾が世界恐慌などで極大化したときに、全世界同時に革命がおこることを予言したと言われます。この辺は、学生時代にあまり勉強しなかったのであやふやなのですが・・・。いざ、勉強しようと思っても、もう「マルクス」関係の書物はでていないのですね。

ソ連とか中国とか、北朝鮮とかが社会主義とか共産主義とか唱えて、すっかり評判の悪くなったマルクスですが、いわゆる共産主義国家というのは、革命の方便にマルクスを利用しただけで、マルクスの予言した社会主義国家ではありません。

で、なぜ今どきマルクスかというと、「弱者の視点」というのが実は大切ではないかということなのです。特に、今回のジャスミン革命にはじまる一連のネット革命は、この「弱者の視点」がないと見えてこないような気がします。

twitterを勉強してみました

とりあえずtwitterのアカウントは作成していたのですが、なかなか使えずにおりました。

パソコンというよりも、モバイルからの利用が本筋のような気がしていたので、iphoneを購入してからとおもっていたのですが、そのうちにスマートフォンがブームになりいろいろな機種が登場してきて、選択枝も広りはじめ、もう少しが、とうとうここまで使わずに来てしまったというところです。

iphoneは相変わらず人気で、値段が安くなりそうもないし、ソフトバンクの料金の不確定さにはストレスが溜まりそうだし、なんでも4月から携帯端末がsimフリーになるという話もあるし、スマートフォンの新機種は続々発売される予定だし、どうやら、さらにしばらくは待つことになるなと思いはじめた今日この頃です。

ということで、しばらくは、手持ちの携帯でなんとか利用できないだろうかということでネットを徘徊してみると、http://www.docodemo.jp/twil/index.html がよさそうです。、やる気がでてきました。

ストレートにdocomo の imodeを利用してtwitterをはじめるとパケット料金がかかりそうで、気が重かったのですが、このTwilはメールを利用してtwitterを利用することができます。バケット契約に頭を使うこともなくさくさく使えますし、結局は料金もお得、ということになります。

ついでにTwitterそのものも勉強しようと思い、つん読していた新書ツイッター 140文字が世界を変えるを読んでみたら、これがまた面白い。ビギナーには最適な本で、ためになりました。

この本に習い、朝日新聞とウォールストリートジャーナル、jpy(為替情報をつぶやくボット)をフォローして先ほどのTwilメールを送信して、メール受信にてタイムラインを取得してみると、おぉ、なかなか快適です。ということで、二時間ほどパソコンの前で、キーボードを弄りながらツイッター 140文字が世界を変えるを読み終えてしまいました。さらっと読めましたが、中身が薄いわけではなく、なかなかの内容です。ということで本当にお薦め。参考までに内容もご紹介(p185-186)、

日本語に有利なツイッター

ツイッターの140文字制限は、ここまでツイッターを利用した経験から、英語よりも実は日本語に有利なシステムではないかと考えています。第2章で述べたようにそもそも日本には俳句に代表される文字数制限をルールとした文化があり、それが今でも続いています。

五・七・五、もしくは五・七・五・七・七といった、とても簡単とは言えない言葉遊びにこれだけの多くの人が長い間興じている国というのもそうそうないでしょう。

また、日本語は少ない文字数で多くの情報を伝えることには長けている言語です。バイリンガルの友人何人かに確認してみましたが、ツイッターで英語と日本語を便うと、3倍ぐらい入れ込める情報量が違うそうです。

これをプログに例えると、英語の場合はタイトルレベルの僑報量しか入れられませんが、日本語の場合は「続きを読む」の手前ぐらいまでの情報量を入れられてしまいます。このためツイッターを文化的に捉えた場合、英語と日本語では今後さらに違う発展をするのではないかと考えていまず。

例えば、日本のツイッターでは、イペントやカンファレンスなどの中継をつぶやきでやることに「tsudaる」という言葉まで生まれたように、つぶやきにある程度の情報の固まりを入れることが可能です。

これはおそらく英語では不可能ではないまでも、かなり難しいことなのではないかと思います。こういった英語と日本語による文化的な発展の違いというのは、今後まだまだ広がっていきそうな予感があります。

やや、文化人類学的な考察もうかがえますが、この部分に限らず、簡単な文面、内容でtwitterをここまで書くのはなかなか大変だと思います。なによりも、背景の思想が前向きで明るいのです。著者(共著)はなかなかの人物だと思います。

ちなみに、私のtwitterのホームアドレスは

http://twitter.com/#!/kuranaka_com

ひまでしたら是非、アクセスしてフォローしてみてください。


相撲八百長:警察は職務上知り得た情報をリークできるのか?

現在の我が国のトップニュースは、相撲の八百長です。国会もエジプト情勢も遙か彼方。海老蔵の次は八百長にマスコミが占拠されています。

今回の相撲八百長事件は、警察が職務上知り得た情報をリークしたことから始まった。携帯電話というきわめてプライベートな個人所有のものを解読して、内容を勝手にリークしていいわけがない。

警察庁の安藤隆春長官は3日の定例記者会見で、大相撲の八百長疑惑に関して、捜査情報の一部を文部科学省に提供したことについて、「日本相撲協会の事業に関する公益性が高い事項と判断した」と述べた。

同庁は、暴力団関連企業を公共事業から排除するため国土交通省に情報提供したり、国際テロ関連の情報を外務省などと交換したりしている。
(2011年2月3日13時15分  読売新聞)

“情報提供は、国の行政機関が一体となって業務遂行することを義務付けた国家行政組織法2条などに基づいて行われた”とのことであれば、警察庁は情報を文部省に提供して、文部省が社会的に公表すべきだと判断して発表するのが筋だろう。

にも関わらず、警察が情報源となって時期、タイミングなどを勘案して(野球賭博がらみの情報はすでに相当前からあったはずで、発表時期を待っていたと考えるべきだろう)恣意的にリーク(情報操作)しているのはきわめて不自然だ。

そもそも、八百長と情報リークのどちらが問題だといえば、犯罪にもならないといわれている八百長よりも、憲法違反までいきかねない情報リークこそが問題だろう。

日本経済新聞はどうなってしまうのだろうか?

今日の日本経済新聞の一面は「小沢元代表を強制起訴」。その左側に政治部長宮本明彦氏の「一時代が過ぎ去った」という社説のような、解説記事のような不思議な記事を置いている。読んでみるとますますわからなくなる。いったい何をいいたいのか、不明瞭な記事だ。

まずは、その記事を読んでもらいたい。

一時代が過ぎ去った 国民、権力闘争に嫌気
政治部長 宮本明彦
2011/2/1 2:09

時代が、小沢一郎元代表の前を過ぎ去った感がある。過去20年余り、元代表は浮沈を繰り返しながらも、政局の中心にいた。政治家が小粒になる中で、大きな決断ができそうな風圧をもっていたのも事実だ。念願の政権交代も実現した。ここでまた、権力ゲームに興じてみても、もはや国の衰退を加速させるだけの「コップの中の嵐」でしかない。

一般有権者からなる検察審査会の制度的な問題は、小沢元代表のみならず、一部の識者からも指摘されている。ただ、起訴事実を含め、元代表をめぐる政治資金の流れは極めて複雑で、誰の目にも異様に映る。

昨年10月、検察審の起訴議決を受けた後の元代表の行動も、尋常ではない。手兵を集めて連日のように会合を重ね、忠誠心を測る。「徹底的にクリーンな党に」を理由にダブル辞任を迫った鳩山由紀夫前首相とも、いつの間にか手を握り、現政権批判で歩調を合わせた。

民主党執行部がなすすべもなく、検察審の強制起訴を待ちわびていたのをいいことに、堀をめぐらし、塀を高くして、裁判の長期化を見越した要塞を築いていたかのようだ。時折、要塞の中から出撃しては、自らの言い分を一方的に発信したのも、焦燥感の表れだろう。

確かに菅直人政権が早晩、行き詰まるとみる向きは多い。その時、首相が総辞職を選ぶにせよ、勝算のない衆院解散に打って出ようとするにせよ、要塞さえ構えておけば反撃もできる。

政治家として生存本能が強いのは、政界では美徳かもしれない。が、これが本当に「国民の生活が第一。」の結果をもたらすのかどうかは甚だ疑問だ。

子ども手当や高速道路無料化に代表される民主党のマニフェスト(政権公約)を実現するには、どれだけ財源確保に無理があるか、すでに明白になっている。菅首相でさえ、にわか仕立てとはいえ「税と社会保障の一体改革」を唱え始めた。

2009年の衆院選で圧勝した後、元代表が目指したのは翌年の参院選で過半数を取り、衆参両院の多数を握る完全与党をつくることだった。元代表の周辺には「その時、小沢さんは自分一人で泥をかぶり、君子豹変(ひょうへん)して財政健全化を断行するつもりだった」と解説する人もいる。

話半分としても、いまのマニフェスト墨守の主張は、政略のための方便とみられても仕方ないだろう。これまで歯牙にもかけなかった与野党の政治家に正面から切り込まれたような現状は、元代表のプライドが許さないかもしれない。それも、これまで何人もの先輩政治家が、元代表に対して抱いてきた感情と同じである。

暗たんたる経済、財政状況の中で、昔ながらの内なる権力闘争はもういい加減にしてほしい、というのが世間の偽らざる心情だ。

小沢元代表が敬愛する西郷隆盛は、いうまでもなく明治維新の立役者の一人だが、西南戦争に敗れ、あたかも古い武士社会に殉じるように自刃した。最期の言葉は「もう、ここらでよか」だった。

記事には「権力闘争」という言葉が使われているが、これは民主党内部の「内ゲバ」というべきであろう。真の「権力闘争」は民主党が政権をとってから、ずーと続いていてまだ決着がついていない。

検察、マスコミ大手は保守勢力を守るために小沢民主党に過剰と思われるぐらいに抵抗してきた。小沢も傷んだが、検察、マスコミ大手も傷んでいる。そして「権力闘争」はまだ続いている。政権が交代するというのは、大変なことなのだ。

政治部長 宮本明彦氏が、その「権力闘争」を見据えて記事を書くことはできないのだろうか?重箱の角をつつくような「コップの中の嵐」の記事はもうたくさんなのだが・・・。「内ゲバ」をいくら書いても本質的なものには到達しない。

「一般有権者からなる検察審査会の制度的な問題」について日本経済新聞をはじめとして、マスコミは多くを語らない。したがって、ほとんどの国民はその問題をしらない。逆に、重箱の角をつつくような「小沢氏の事情」には精通している。このようにマスコミは国民を誘導してきたのだ。

例えば、宮本明彦氏は「起訴事実を含め、元代表をめぐる政治資金の流れは極めて複雑で、誰の目にも異様に映る。」と述べている。しかし、ここは正確にのべるならば「政治家をめぐる政治資金の流れはきわめて複雑になっている。」とすべきであろう。「起訴事実を含め、元代表をめぐる」とか「異様に映る」というような姑息な修辞を弄して根本的な制度的な欠陥を小沢氏個人の責に収束させてはいけないと思う。しかし、マスコミはこういうことをいつもやってしまっている。

「昨年10月、検察審の起訴議決を受けた後の元代表の行動も、尋常ではない」とのことだが、この記事こそが「尋常ではない」。座して死を待つ指導者がどこにいるのだろうか聞いてみたいところだ。

「民主党執行部がなすすべもなく、検察審の強制起訴を待ちわびていたのをいいことに」も噴飯もの。これは小沢氏の内ゲバ相手の民主党執行部をさげてしまっているのだ。小沢氏の逆で、なにもしないで、座して死をまってしまっていたわけですね、民主党執行部は。

「時折、要塞の中から出撃しては、自らの言い分を一方的に発信した」というのは小沢氏がニコニコ動画に出演したことを言っているのだろうが、こういう言葉使いにインターネットメディアに対して凋落していく新聞メディアの「焦燥感の表れ」がつい出てしまうんですね。

ま、記事の揚げ足をとってばかりいてもしようがないが、つまり、この記事は小沢氏を陥れようとしているのだが、逆に讃える記事になってしまっているのだ。

「暗たんたる経済、財政状況の中で、昔ながらの内なる権力闘争はもういい加減にしてほしい、というのが世間の偽らざる心情だ。」というのは、そのまま日本経済新聞に言いたいところです。

そして最後の落ちというか決めせりふというのが、

「小沢元代表が敬愛する西郷隆盛は、いうまでもなく明治維新の立役者の一人だが、西南戦争に敗れ、あたかも古い武士社会に殉じるように自刃した。最期の言葉は「もう、ここらでよか」だった。」となるのだろうが、どうにも決まっていない。どんな頭でこのような決まらない記事を書けるのだろうか。しかも、一面に。

政治部長 宮本明彦氏はあまり文章が得意ではないということならば、日本経済新聞一面の一番下にある「春秋」。これを毎日読んで勉強しなくちゃね。

そして再び 「彼岸の時間」

人類の発祥、神々の叡智、文明の創造、すべての起源は「異次元(スーパーナチュラル)」にあった100%実話!自然霊との対話 上丘 哲 (著)と紹介してきたら、ふたたび「彼岸の時間―“意識”の人類学」に戻らねばならないと思いました。

本を開いて最初のページ、「はじめに」を紹介します。

古代インドの奥義書『マーンドゥキャ・ウパニシャッド』は、人間の意識がとりうる状態を四種類に分類している。その四種類とは、日常的な覚醒状態、夢のない眠り、夢を見ている状態、そして、一種の超越的な意識状態、であり、この第四の意識状態こそが人間にとって、もっとも本来的な覚醒状態なのだという。

人間は特定の訓練によって、あるいは特定の状況下で、この「第四の意識状態」を体験する。それは、さまざまな側面から、トランス、悟り、サマーディ、神秘体験、変性意識状態、シャーマン的意識状態、エクスタシー、法悦、サイケデリック体験、至高体験、トランスパーソナル体験などと呼ばれてきた、一連の非日常的な、しかし古今東西の入間が共通して体験してきた意識の状態である。そこでは日常的な〈俗なる〉時間は停止し、一瞬が永遠であるような〈聖なる〉時間の中で、人は世界の根源的な神秘に触れる。

おそらく人類は数万年の過去から、シャーマニズムやトランス・ダンスという形で、この「第四の意識状態」を、個入的な美的体験として、また社会的な問題解決の技術として活用しながら生きてきた。しかし、われわれの祖先が定住的な共同体を拡大させ、さらに中央集権的な権力を発達させていくにしたがって、「第四の意識状態」は宗教というイデオロギー装置の管理下に置かれることになる。宗教は一方では土着的なシャーマニズムの思考をより普遍化することによって科学と思想の母となったが、一方では超越的な意識状態を現世的な権力に迎合させる装置としての役割も果たすこととなった。宗教は神秘的な経験の領域を、自らの教義に合致するように統制する云で、合致しないものは排除した。シャーマニズムはどんな時代にもどんな場所にも存在したが、それはオーソドックスな宗教からはつねに排斥される存在であり、世界の神秘に褒触れようとした神秘主義者たちは・宗教的権威から繰り返し異端視されることになった。

近代のイデオロギーである資本主義もまた特異な形態の宗教だといえる。貨幣を至高な呪物(フェティッシュ)として崇拝する資本主義経済への信仰は、因果性の原理にもとずく高度な科学技術を武器にして、生態系を破壊し、共同体を破壊し、既成宗教の権威をも破壊しつつ、その勢力を全地球規模で広げてきた。近代社会の教義はいわゆる「覚醒状態」を唯一のリァルな意識状態だと考え、睡眠や夢は誰もが経験することは認めてもそれ自体に意味があるとは見なさない。さらに「第四の意識状態」に至っては、存在すること自体が異常と見なされる。これは、「第四の意識状態」こそが本来的な経験なのだというウパニシャッドの思想とはするどく対立する。

しかし、いわゆる先進国でも、無限に発展を続ける貨幣経済が楽園の到来を約束するという神話を信じることが難しくなりつつある現在、かといって既成宗教が求心力を失ってしまっている状況の中で、人々の呪術的シャ-マニズム的なものへの関心はふたたび高まりつつある。救命医療の飛躍的な進歩は逆説的なことに臨死体験者を増加させている。象徴的な〈死と再生〉を経験した臨死体験者は、資本主義的な競争原理への関心を低下させ、神秘的な経験の領域への関心を深める。しかし、だからといって既成宗教への信仰へと回帰することはない。資本主義と科学技術の燗熟した時代の中で、「第四の意識状態」がふたたび宗教という装置の検閲を経ない生の形で経験される状況が生まれてきている。われわれの祖先が狩猟採集民だったころの、いわば野生の神秘体験が復権しつつあるのだ。しかも、宗教の権威から白由であるというだけではなく、現代という時代は、シャーマニスティックな「霊魂」という実体概念からも自由でありうる。人類史上、意識の神秘それ自体について語れるようになった初めての時代だといっていい。

資本主義的世界システムの勝者である「先進」社会の一端を成しながらも、西洋社会に比べてキリスト教的な権威や、その裏返しの東洋趣味(オリエンタリズム)からも自由であり、またかつてのソ連や中国のような国家的な唯物論信仰からも白由な、極東アジアの日本という不思議な場所から、「〈意識〉の人類学」を語り始めることにしたい。

紹介してきた関連書、”ハンコック”も”自然霊”も含まれる状況認識がさなれていると思います。否定的でなく、肯定的な捉え方は好きですね。

ということで、今後も折に触れ、この書籍について語ることがあると思いますのでよろしく・・・。