天国と地獄―アラン・カルデックの「霊との対話」

天国と地獄―アラン・カルデックの「霊との対話」読みました。1800年代の書物なので、わかりにくい箇所もあるこのだが、総じてわかりやすい書物でした。164-168頁、自殺者との対話が説得力があったな、以下にご紹介します。

第四章自殺した入の霊
公衆浴場で自殺した身元不明の男性
一八五八年四月七日、夜七時ごろ、こざっぱりした服装の五十代の男性が、パリの、ある公衆浴場にやってきた。サ-ヴィス係の少年は、浴室に入ったその男性が、いつまでたっても自分を呼ばないので、不審に思って浴室をのぞいてみた。そして、そこで、見るも無残な光景を目撃したのである。その男は、剃刀で喉を掻き切っており、浴室中に血が飛び散っていた。身元の確認ができなかったため、遺体は死体公示所に運ばれた。
死後六日たってから、パリ霊実在主義協会において、この男性の霊を招霊したところ、次のような問答がなされた。
-招霊します;::。
霊媒の指導霊からのメッセ-ジ:「ちょっと待ってください。いまそこに来ていますから」
-いま、あなたはどこにいますか?
「分かりません……。ああ、私がいまどこにいるのか教えてください」
-あなたは、いま、霊実在論を研究している人々、あなたを好意的に迎えようとしている人々のあいだにいます。
「私はまだ生きているのですか……。棺桶の中で窒息しそうです」
彼の魂は、肉体から離れたとはいえ、いまだに混乱したままである。地上で生きていたときの感覚が強くて、自分が死んだとは思えないのである。
-ここに来るように、誰かに勧められたのですか?
「何か、ほっとしたことを覚えています」
-どうして白殺などしたのですか?
「では、私は死んでいるのですか……。いや、そんなことはない……。まだ、体の中にいますから……。私がどれほど苦しいが、あなたがたには分からないでしょう。ああ、息が詰まる!誰か、優しくとどめを刺してくれないだろうか?」
-どうして身元を確認できるようなものを何も残さなかったのですか?
「私は、みなに見放されたからです。苦しみから逃れようとしたのに、これでは、まるで拷問です」
-いまでも身元を知られるのはいやですか?
「ええ。どうか、血が噴き出している傷口に、赤く焼けた鉄を押しつけるようなまねはしないでください」
-お名前、お年、職業、住所を教えていただけませんか?
「いやです! どれも教えたくない」
-家族はおありでしたか?奥さんは?子供は?
「私は、みなから見放されたのです。もう誰も愛してくれません」
-どうして、そんなことになったのですか?
「ああ、どれくらい多くの人が私のようになっていることだろう……。家族の誰からも愛きれなくなってしまった……、もう誰にも愛きれないんだ-・」
-いよいよ白殺をしようとしたとき、ためらいはなかったのですか?
「とにかく死にたかったのです……。疲れ果てていたので、休息が欲しかった」
-「将来のことを考えて思いとどまる」という可能性はなかったのですか?
「私には、将来は、もはやありませんでした。希望をすっかリ失っていたのです。希望がなければ、将来のことなど考えられません」
-生命が失われる瞬間は、どんな感じがしましたか?
「よく分かりまぜん。私が感じたのは……。だいたい、私の生命はまだ失われていません……。私の魂は、まだ体につながっています。ああ、蛆虫が私の体を食っているのが感じられる-」
-死が完了したとき、どんな感じがしましたか?
「死は完了しているのですか?」
-命が消えていくときは、苦しかったですか?
「その後ほどは苦しくなかった。そのとき苦しんでいたのは体だけだったから」
-(聖ルイの霊に対して)この霊は、「死の瞬間には、その後ほどは苦しくなかった」と言っていますが、これはどういうことですか?
「死の瞬間に、霊が、その生の重荷がら解放きれつつあったのです。そういう場合には、解放の喜びが死の苦しみにまさることもあります」
-自殺した人の場合、常にそうなるのですか?
「必ずしもそうではありません。自殺した人の霊は、肉体が完全に死ぬまでは、肉体に結びつけられたままです。それに対して、自然死は生命からの解放です。自殺は生命を破壊することなのです」
-意志とは無関係に、事故で亡くなった場合でも、同じなのですか?
「いいえ・.・…。あなたは白殺をどう考えているのですか?霊は、自分のやったことに対して責任を取らざれるのですよ」
死んで間もない人が、自分が死んでいるのかどうか分からない状態になるということは、実に頻繁に観察される。特に、自分の魂を肉体のレヴェル以上に向上させなかった人の場合には顕著である。
この現象は、一見、奇妙に思われるが、ごく自然に説明できる。
初めて夢遊症に陥った人に、眠っているかどうか尋ねた場合、必ず「眠っていない」と答えるはずである。この答えは極めて論理的なのだ。非は、不適切な言葉を使って質問した側にある。
「眠る」という言葉は、一般的な使い方では、あらゆる感覚器官が休息することを意味している。ところが、夢遊症者は、考えられるし、見られるし、感じ取ることもできるのである。したがって、自分が眠っているとは思わないし、実際、言葉の普通の意味においては眠っていないのである。だから、彼は「眠っていない」と答えるのである。
これは、死んだばかりの人間についても言える。彼にとって、死とは、すべての消減を意味していた。ところが、夢遊症者と同じく、彼は、見ることも、感じることも、話すこともできるのである。したがって、彼にとっては、それは死を意味していない。だから「死んでいない」と言うわけである。
それは、彼が、この新たな状態について、しっかり理解するまで続くだろう。
この状態は、いずれにしても、つらいものである。なぜなら、それは不完全な状態であるために、霊をある種の不安定な状態に投げ込むからである。
右の例では、蛆虫が体を食っている感覚があるだけに、苦痛はより激しいものとなっている。
さらに、その状態は、彼が命を縮めた年数分だけ続くことになるので、いっそう、つらいものとなるだろう。
こうした状態は、白殺者において一般的に見られるものであるにせよ、常にそうであるとは限らない。特に、苦しみの強度と期間は、白殺者の犯した過ちの大きさに左右される。
また、蛆虫の感覚や、体が腐敗していく感覚も、白殺者特有のものであるとは言えない。それは、精神的に生きず、ひたすら物質的な享楽を求めて生きた人間が死んだときに、よく見られるものである。
要するに、罰せられない過ちはないということなのである。しかし、罰の与え方に、画一的で普遍的な法則はない。

蛆虫などの感触は、土葬が前提となっている。寿命(自然死)と自殺した日、すなわち寿命を縮めた分だけ苦しむというのはこの本以外では読んだ覚えはない。夢遊病者の例えはユニークかつわかりやすかった。

エマヌエル・スヴェーデンボリEmanuel Swedenborg

エマヌエル・スヴェーデンボリ(Emanuel Swedenborg)スウェーデンボルグスヱデンボルグとも訳されています。

スウェーデンボルグは、霊界を語る上で欠かせない人なのですが、アマゾンで購入できる書籍を調べると、紹介記事や抄訳がほとんどでオリジナルの著作は意外なほど少ないですね。

『夢日記』以降のスウェーデンボルグの著作と主な手紙を見てみると、著書のほとんどがなかなか難解であることがわかります。タイトルから、読みやすいそうで触手がうごきそうなのが、「夢日記」と「霊界日記」というところでしょうか。インターネットで公開されているのを見つけましたので以下にご紹介します。もちろん無料です。

http://aoi-press.com/Library/Diary/Diary-fr.html

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994067

「霊界日記」は訳者がなんと鈴木大拙氏ということです。

あなたは死なない―「魂の科学」が人生を変える/イアン・カリー

暑い日が続いていますが、ご自愛下さい。

あなたは死なない―「魂の科学」が人生を変えるを読みました。とてもおもしろかったです。

著者はカナダトロント大学社会学部教授、「死」に関する講座を持ち、医学・老年医学・神学・心理学の同僚教授たちとともに、運営した。本書は、豊富な実例とともに、ゴースト臨死体験体外離脱、あの世、輪廻転生、退行催眠、カルマなどについて語る。

はったりなどのない、誠実な説明は非常に好感がもてました。

この手の本で、注意するのは、読んでて怖いか怖くないかです。なにせ、就寝前の読書が習慣なものですから、怖いのは困ります。睡眠は小さな死という話もあるので、この本を読むと、寝るのが楽しみになりましたね。語り口も平易でやさしいから、神経を静めるにはもってこいです。

ということで、この本の中で本来はあの世にいくはずの死者がなぜこの世に留まっているのかについての部分(96ページから97ページ)を紹介しましょう。

未完成の仕事

ゴーストを地上にとどまらせてしまう、多くの種類の「未完成の仕事」がある。ここにあげるタイブのゴーストは、スピリット(霊)が、「アースバウンド(地上にとどまっているスピリット)」となってしまうだいたいの状況を明らかにするだろう。

第一番目の事例は、本章の前半に出てきた、せっかくお金をかけて内装を手入れしたのに、ゴーストのために住めなくなった家の事例である。ニューヨーク州ロックランド郡のダントン・ウォーカー氏の家にいたゴーストである。彼は、ポーランド系の移民だった。アメリカ独立戦争のときには、アメリカ兵として従軍した。彼は、秘密の軍事計画文書を運んでいる途中に、英国軍に捕らえられ、残忍な拷問にかけられた。その結果、精神に異常をきたし、数年後に死んでいた。そして、いまだに「捕虜となる前にかくした機密文書を守りぬくことだった。彼は、そのことにいまだにとらわれていたのだった。パーク・アベニューに開業している精神科医のL医師は、トランス・サイキックであるアイリーン・ギャレットの協力を得て、この「存在」と対談し、救っている。

そして、その日から、幽霊現象はやんだ。

次の「未完成の仕事」が原因の幽霊現象の事例ぱ、先の事例に比べるとドラマチックなものではない。

退役した「現実的な性格の」英国海軍将官の家族に起こったできごとである。彼の二人の息子たちが、彼に次のようにうったえはじめた。夜、息子たちが部屋で寝ているときに.「何者か」が部屋にいるというのである。二人の息子は、音を聞いていた。そして、朝には、寝る前に脱いだ靴が、移動されているごとに気づいていた。母親も、その足音が聞こえていたことを認めた。それに、ある日その元将官がスコッチウイスキーのソーダ割りを飲んでいると、ひとりでにそのグラスが移動して、床に落ちて割れた。二、三日後には、今度は、その元将官が使っていた水差しが、同じようにして割れた。彼は、何かおかしなカが働いていることを認めざるをえなかった。トランス・サイキックの助けを借りることを助言され、トランス・サイキックのアイリーン・ギャレットがこの事例を扱うことになった。そして、この家の母親の死んだ弟が起こしていた現象だったと判明した。彼は、二年前に精神病で死んでいた。彼は、その病気のときに、遺言書を作成していた。その中で彼は、最愛の妻には何も残さないで、白分の家屋を遠縁の従兄弟にゆずるとしていたのだった。死後、彼は自分のしたことを悔やみ、どうにかその状況をただそうとして、必死だったのだ。それで、姉の家族の注目を引くために、音を立てたり、物品を移動させたりしていたのだ。彼のこういった試みは成功した。そして、この幽霊現象もやんだのである。

ここまでの事例から、以下のごとが明らかとなった。つまり、どのようなことであれ、故人がやり残していると感じている気がかりな「未完成の仕事」があれば、それが故人を地上に(肉体がなくなっているのに)とどまらせてしまうということだ。単に、その故入が重要だと思い込んでいるものでありさえすればよい。

生きがいのメッセージ / 飯田史彦

生きがいのメッセージ―愛する故人とのコミュニケーションがもたらす新たな人生観を読んでいます。しばらく前に購入してつん読してあったものです。

編集なされている飯田史彦氏の本は何冊も愛読しているものですから、購入しました。内容はパラパラとめくり読み程度で、スピリチュアルな本だなぐらいに思っていました。テーマは死後とか、前世とか飯田氏の定番といえるようなもので、また、彼は似たような著書がたくさんあるものですから、読んだかどうかさえもわからなくなっていました。

少し前のブログで紹介した猿の詩集で述べたように、亡き父の気配を感じたことがあって、実の姉に電話をしたときにその話になって盛り上がったりしたのですが、電話の後に本屋に寄ったときにこの本「生きがいのメッセージ」を見たのです。何か見覚えがあったので、家にあるだろうと思い、探したら見つかりました。

ということで、ただいま読書中です。「2000人の人々と面談し、3300件にわたる体験談を収集してまとめ上げた」とのことですが、似たような話が綴られているわけで、若干飽きてきた所ではあります。

飯田史彦氏の簡潔にまとめ上げる才能はかなりのものなのですが、氏をもってしても冗長さがぬぐえないというと、原書はかなりの退屈な書籍だろうと思います。

原書のタイトルは「After death communication」、日本語でいえば「死後交信」とでもなるのでしょうが、飯田氏はオカルト臭さを排除するために「コミュニケーション体験」などといっています。

シンクロニシティ(意味のある偶然)により、読むことになった本書ですが、読むほどに、先日の父親の気配は本物だったんだなぁと感じた次第です。

実際、この本に書かれているような死者との交信は、予想以上に多いのではないかと推察しています。5人に一人以上、つまり20パーセント以上は何らかの体験をしているようなきがするなあ。

このブログを読んで、思い当たることがあって、是非紹介したいという方がいられるようでしたら、コメントしてもらえればうれしいですね。

猿の詩集(上・下) / 丸山健二 読みました

猿の詩集〈上〉読みました。

戦争で死んだ兵士が、霊となって故郷に帰り、原爆の爆発のショックからか居合わせた年老いた猿の体に、詩人の魂、鳶の視覚と合体して戦後の故郷を見守るという筋書きです。

文章は、詩人の魂と合体したわけですので、散文詩のような、リズミカルな文体で書かれており、読後しばらくは耳に残ります。読み終えるのに4-5日かかりましたが、個人的ですが、その間、戦争経験のある親父が、非常に近くにいるような感覚がありました(親父は30年くらい前に他界しています)。

夢などにでてきたのですが、とくに因果関係には気づきませんでしたが、おそらくこの本の影響かと思われます。読書前にも、親父のことはきになっていたので、逆にそのことがこの本に巡り会わせてくれたのかもしれません。

最近読書したのは、佐野眞一の「だから、君に、贈る。」手元に未読の「スタッズ・ターケル自伝」があり、普通の人々の生活に関心がある書籍が偶然に並ぶこととなりました。なにか意味があるのでしょう。

この本は、戦後を生きた人々の生活を、猿の体、詩人の魂、鳶の視覚と死者の観点からあますところなく伝える本に仕上がっています。