3.11に東電はトップ2(会長、社長)が東京にいなかったことを忘れていた

3.11に各種でさまざまなイベントが行われ、その前には地震への検証などがメディアを賑わせることとなった。中でも「民間事故調」とともに浮上した原発事故の責任追及などが記憶に新しい。
3.11にはどのメディアもこぞって、検証記事を書いていたのだが、その時に「東電はトップ2(会長、社長)が東京にいなかった。」という事実は、なぜか見当たらなかった(少なくとも私の目の届く範囲では)。当のわたしでさえも、今朝になって、ネットで見ることができた菅直人・前首相インタビューに3.11に「東電はトップ2(会長、社長)が東京にいなかった。」という記述により、ようやく思い出すことができたのである。

ということで、まずはそのインタビューをご紹介。

原発事故対応は「大失敗」

 =菅直人・前首相インタビュー=

時事通信社、政治部 リレーインタビュー

インタビューに答える菅直人前首相=2012年2月、東京・永田町の衆院第1議員会館【時事通信社】

菅直人首相は、3月11日で東日本大震災発生から1年を迎えるのを前に時事通信のインタビューに応じ、当時の政府の対応を振り返った。東京電力福島第1原発事故について「備えがなかったという意味で大失敗だった」と悔いる一方、自らが陣頭指揮を執ったことに関しては「やらざるを得なかった」と語った。発言内容は以下の通り。

-東日本大震災から間もなく1年を迎える。

地震と津波による大きな被害があり、東京電力福島第1原発事故が起き、国民の皆さんが大変厳しい状況に遭遇した。当時の政治の責任者として大変申し訳なく思う。国民が我慢強く対応し、復興に向けて頑張っていることに感謝したい。

特に原発事故は事前の備えがあまりにも不十分だった。それがあれば、もっと事故も大きくならず、放射線被害も大きくならずに済んだと思うだけに責任を感じる。準備が十分できていなかったという意味では人災と言わざるを得ない。そういう意味でも大きな反省が本当に必要だ。備えがなかったという意味で(政府の対応は)大失敗だった。

-大失敗か。

大失敗だった。

-首相官邸の初動には厳しい評価がある。

まず地震・津波について言えば、やはり阪神大震災のときの記憶が私の中にあった。あのとき自衛隊の派遣がやや遅れた。それは当時の法律は県知事が(派遣を)要請するという形になっていて、それがやや遅れた関係で、そうなった。

私はその記憶があったから、いち早く、地震発生直後、北沢俊美防衛相(当時)に「とにかく救命活動に即座に入ってほしい」と自衛隊の派遣を指示し、当初5万人と言ったが、10万人態勢を取ってもらった。自衛隊の初動は非常に迅速だった。消防、警察も頑張ってくれた。

大地震という状況の中でいえば、自己完結的な能力を持ち、いろいろな被災に対する対応が可能な自衛隊の活動は非常に効果的だったと思う。

原発事故は、地震、津波とはかなり性格を異にしている。初動という前の問題、何が起きているのか。地震、津波はもちろん分からないことはあるが、少なくとも物理的には目で見たり、そうはいっても段々分かってくるわけだ。

原発事故では、原子炉の中で何が起きているのか分かり、予測ができて初めて次の対策が可能だ。(原子力災害対策特別措置法)10条、15条の報告があって、すぐに動き出し、まずは事態の把握に努めようと、東電、経済産業省原子力安全・保安院、原子力安全委員会の責任者にそれぞれ(官邸に)来てもらったが、残念ながら、どういう状況にあるのか、少なくとも私に報告が上がってこない。

それは二つ原因がある。一つは本当に分からない。つまり原発そのもの(の計測器などが)壊れているわけだから、情報が分からない。情報がないから上がってこないという部分と、ある程度、現場に情報があったとしても伝わらなかった部分の両方があった。

そういう中で、どういう施策があるか、という提案が出てこない。つまり、普通だったら「こういう状況だからこうすべきだ」という提案が出てくるが、それが出てこない。これが一番ある意味大変なことだった。

(震災翌日の)3月12日朝、現地に(視察に)行った。官邸にきちっと情報が上がってきて、誰かが的確な対応をしているのであれば、任せることは可能だったが、あのときは(災害対策拠点の)オフサイトセンターも機能していない。

私としては黙って見ているときではなく、現場で実際に対応している(福島第1原発)所長に、きちんと話を聞かないといけないと思った。

-政府は阪神大震災などを教訓に官邸の危機管理態勢を強化した。危機管理監の動きも見えなかった。機能しなかったのか。

(評価は)政府の事故調査・検証委員会などの検証を基本的には待つべきだ。しかし、どの仕組みがどうだったというよりも、ほとんど機能しなかった。

役職的な危機管理監の責任はあるだろう。しかし、原発事故の状況を当然一番分かるのは、事業者(東電)だ。事業者の情報以外なら保安院の現地の情報だ。しかし、私の知っている限り、(情報は)来なかった。情報そのものが極めて不十分だった。

(事故の)早い段階でいえば、東電はトップ2(会長、社長)が東京にいなかった。それが影響したかどうかも分からない。

地震、津波に関しては、被災者からは「もっと早く」と言われるが、ある程度やれたと思う。

原発に関しては、極めて不十分だった。つまり、東電から上がってくる情報そのものが極めて不十分だった。(原因は)どうしても全部「3・11」前になる。つまりは(原発の)全電源喪失を一切想定しなかったからだ。電源が喪失すればメーターが見えない。メーターが見えなくなることを想定していないわけだから、危機管理が残念ながら結果としてうまくいかなかった。

(官邸が)ほかの理由で機能しなかったんじゃないか、と言われるかもしれないが、少なくとも、最大の問題は備えがないことだった。

 -首相が前面に出ることに批判もあった。

首相が陣頭指揮を執るのは例外だ。今回は一般的には多分、例外になるから、やらざるを得なかった。つまりは、野党も国会で「将たる者はあそこ(官邸執務室)に座るべきだ」と言っていたが、黙って座っていても何にも情報が来ない。そこを「じっと待って」という人は、そういう政治家であって、陣頭指揮が一般的にいいのか悪いのかではなく、私は必要だと思ってやった。

-政府の震災関連会議の議事録が未作成だったことをどう思うか。

もちろん知らなかった。議事録がないこと自体は恥ずかしい限りだ。しかし、議事録の有無の問題と、情報開示の問題は若干違う。会議はほとんどの場合、冒頭にテレビカメラが入り、決定したことは直後に官房長官が発表した。

議事録がないこと自体は弁解のしようがないが、情報を隠したとか、情報がその時点で出ていないかというと、ほとんど出ていた。

 -原発事故が深刻になった場合を想定した「最悪シナリオ」が昨年3月25日作成されたが、公表されなかった。

セカンドオピニオンというのか、現場に直接携わっていなくても原子力に詳しい人たちの意見も聞いておくことが必要だと判断した。最悪の状態が重なったときにどういう状況が起き得るのか、私自身の参考にしたいと思った。

 -首都が壊滅的な被害を受けた場合の首都機能バックアップは必要か。

結局、それも含めて備えの問題だ。例えば、今回の原発事故でも本当に最悪の場合は、それこそ首都圏からも避難しなければいけない可能性もあった。3000万人の人間が避難することが通常の対応で可能だろうか。少なくとも関東大震災のときは戒厳令をしいた。

つまり、日本が3分の1も、しかも首都という一番の中心が「見えない敵」にやられるわけだ。そういうときに、ハード的な備えも重要だが、それに対応できる態勢が何なのか。

今回、10万人や20万人に避難してもらったが、それでも大変だった。もしそれが1000万人、2000万人だったら、私は今の備え、法律、制度を含めて全く不十分だと思う。私が実際に経験してみて。

私はその後、小松左京の「日本沈没」を読んだ。何千万の人間が動くというのは、単に動くだけでない。そういうまさに緊急事態の時に、自衛隊や警察や消防に対してどうするか、あるいは場合によっては個人に対してどう規制をかけるか。今の制度でもできるが、とても十分だとは思えない。

 -自民党は災害・テロ時に首相の権限を強化し、私権を制限する緊急事態条項を創設する憲法改正案を検討している。こうした法制面の検討は必要か。

当然そうだろう。ただ今回のこと自体を、野党も検証してくれなければ。だから私はそのこともあって野党にも「協力してくれ」と言った。まさに危機だから、危機状態にあるのだから、もっと協力してほしいと思った。そういう問題は、まだ残っている。

時事通信社の編集もあったのだろうが、淡々とした語り口は好感がもてました。
個人的には『私はその後、小松左京の「日本沈没」を読んだ。』という箇所がありましたが、オリジナルの1973年版か新しい2006年版か、また「読み直したのか」、「初めて読んだ」のか気になるところではありました。

などと思いつつ、朝刊に目を通すと、以下の記事が目に留まった。

日本経済新聞 脱・成長論を疑う(4)「受動的な無責任」改めよ

2012/3/13掲載

北岡伸一 東京大学教授

他人依存の姿勢 限界 リスク取る精神欠かせず

<ポイント>

○危機意識の欠如と公的精神の衰退が顕著に

○世界の原発増加を踏まえ事故への備え必須

○日本の経済停滞の根源はリスク回避の精神

東日本大震災から1年を経たところで、震災と復興に対する政治の取り組みと、その背景にある政治意識について考えたい。以下、震災および津波への対応と、原発事故への対応を、適宜わけて考える。

多くの人が政治指導者の危機意識の欠如、リーダーシップの欠如と非効率を指摘する。過去の例と比べてみよう。

明治24年(1891年)、濃尾大地震が起きたとき、名古屋の師団長はのちの総理大臣、桂太郎だった。桂は直ちに被災者の救援と人心の安定のために師団を出動させ、大きな成果を上げた。そののち、桂は天皇の命令なしに兵を出したことについて進退伺を出し、却下されている。

こうした桂の行動のうち、兵を動かすことに関する責任の意識が昭和の陸軍からは失われ、機動的に軍を動かすという感覚が戦後には失われてしまった。阪神大震災時の村山富市内閣の初動の遅れはそれであったし、今回の震災でも初動は必ずしもスムーズでなかった。そもそも首相の周辺に自衛隊出身の秘書官はいない。こういう国はむしろ珍しい。

大正12年(1923年)の関東大震災では、震災の翌日内務大臣に就任した後藤新平は、その日のうちに復興に関する4カ条の基本方針を書き下ろし、その具体化に努めた。後藤は震災後約4カ月で退陣し、この間原案は相当に縮小されたが、それでも都市改造で画期的な成果を上げた。

今回は、政府の復興構想会議が設置されたのが震災から1カ月後であり、提言が出たのは昨年6月、つまり震災から3カ月後である。その遅さは、最終的には首相の責任だ。

こうした会議は、トップが大体の方向を示し、その方向を具体化するのにふさわしい人々を任命して進めるべきものだ。しかし、首相が発言して方向を指示することはなかったし、委員会も委員の間の意見対立の克服に時間を費やしたらしい。後藤のように都市計画に深い知見を持った人物は望めないにしても、トップの責任という点では、はなはだ物足りなかった。

中央の官僚制も、縦割りの弊害で自己の責任の範囲を超えた問題の処理は元来苦手なうえに、責任感の希薄化が進行しており、かつての能動的に行動する官僚制ではなくなっていた。この点、民主党の責任も大きく、政治主導の名において官僚の活動を封じた結果、ますます官僚は受動的な無責任に逃げ込んでいた。

地方自治体では、長年中央からの支持を受けて動くのに慣れていて、やはり主体的、能動的な動きは少なかった。細かいところまでマニュアル化された行政にとって、震災は巨大すぎた。

地震ののちに、国民の間の助け合いの精神が大いに発揮されたように見えたが、実際のところ、がれきの引き取りに対して多くの自治体で強い抵抗があり、進んでいない。戦後政治についていわれていた危機意識の欠如と公的精神の衰退は、震災でより顕著に浮かび上がった。根源には、自国の安全を米国に依存して、これを当然とする考え方があるのではないだろうか。

首相と周辺の関心が原発問題に集中していたということもあるだろう。原発事故は未曽有のことだが、冷却装置や非常電源などの設計上の問題点を含む東京電力の失敗と、政府の監督体制の失敗であった。当時の菅直人首相の個人的な判断ミスや過剰介入はあったにせよ、より大きな問題はそれ以前から存在した。

民主党政権の発足後、2010年4月に開催された核安全保障サミットのあと、国際原子力機関(IAEA)から、核テロに対する備えが不十分だとの指摘がなされていた。これに対して、日本は適切に対応してこなかった。

原発事故の結果、政府が事実を国民に知らせていないとの不信が広がり、政府の信頼は大きく傷ついた。外国からネット経由で情報は伝わってくるだけに、率直に国民に語りかけなければならない。「由(よ)らしむべし知らしむべからず」の政治(それを主導してきたのは自民党だが)には終止符を打たねばならない。同時にインターネットの時代には、国際的な協調、協力はますます重要になる。

筆者は震災以前から、消費税および社会保障制度改革のために連立政権が必要だという意見だったが、特に震災直後には連立政権をつくるべきだったと思う。小選挙区の本場の英国でも、20世紀に3度の連立を組んでいる。第1次世界大戦、大恐慌、第2次世界大戦の3度である。国家の危機には大連立というのは、むしろ常道である。

連立すれば直ちによい知恵が出るとは思わない。連立によって、共同で責任を担当し、無用な批判や揚げ足取りをしなくなるということだ。

昨年5月、菅内閣を引きずりおろしたい自民党と小沢一郎氏のグループが、将来の方向については全く意見を共有しないのに、不信任案を提出する動きを示したのは、その証拠である。自民党も、連立すれば民主党に利用されるというようなケチな考えを持つべきではなかった。連立の中で不満があれば、閣議の中で議論すればよいのである。

世界で原発が増えていくことは確実だ(表参照)。長年先進国がエネルギーを大量消費して、豊かな社会を築いてきた。新しく勃興してきた国々はだめだということは許されないだろう。今後もエネルギー需要は増え続ける。原発はその有力な手段として、多くの国が拡大しようとしている。その際、最も安全なのは日本の原発だ。原発の輸出について、反倫理的だからやめるべきだという意見がある。しかし輸入する側から考えれば、日本のような地震の多い国で開発された原発なら、安全と考えるのが当然だろう。

韓国で今月、核安全保障サミットが開かれる。筆者はその準備のため、インドのアブドゥル・カラム元大統領、シンガポールのゴー・チョクトン元首相、オーストラリアのギャレス・エバンス元外相、ハンス・ブリックス元IAEA事務局長らとともに、昨年11月の有識者会議に参加した。韓国が任命した人々なので当然だが、原発に対する根本的な反対の声は出なかった。

彼らが日本の原発事故を真剣に受け止めていないわけではない。事故はどこでも起こりうるので、その場合に備えなければならないということを、宣言に取り入れる方向だ。

日本の原発反対派には、「想定外」ということは許されないという人がいる。しかし、世界の情勢を考えれば、ホルムズ海峡をめぐって中東で軍事衝突が起きる可能性もゼロではない。こういう事態も想定しなくてはいけない。それなら、中長期的にはともかく、直ちに原発をやめるわけにはいかないのである。

多くの人が「安全・安心」を強調する。しかし大事なのは安全の確保であって、安心の確保ではない。安心を強調するのは、実はお上に依存するということである。

国民が安心を求め、リスクをゼロにせよといえば、政府はこれに答えて、リスクはゼロだという。こういうフィクションはやめるべきだ。人生はリスクに満ちている。リスクを直視し、これをできるだけ減らすように様々な努力をし、あとはリスクを取って行動することが必要だ。日本の経済発展の停滞も、根源にあるのはリスクを取らない精神ではないだろうか。

石橋湛山は大正12年10月に書いた「精神の振興とは」において、「亡(ほろ)び行く国民なら知らぬこと、いやしくも伸びる力を持つ国民が、この位の災害で意気阻喪してはたまるものではない。心配はむしろ無用だ」と述べている。傾聴すべき言葉である。

=この項おわり

きたおか・しんいち 48年生まれ。東京大法卒。元国連代表部次席大使。専門は日本政治

つまらない記事を、長い引用で申し訳ないと思います。この記事というか、文章は日本経済新聞に「反原発」を諌めるために用意されたもので、北岡氏は忠実にそれに沿った文章を書いたものです(と私は推測しました)。「脱・成長論を疑う」シリーズとなっていますが、正確には「脱・原発を疑う」シリーズなのでしょう。肝は以下の部分です。これ以外は原稿料に見合うだけ文章を長くしようと思って付け足した、いわば蛇足と思って間違いありません。

世界で原発が増えていくことは確実だ(表参照)。長年先進国がエネルギーを大量消費して、豊かな社会を築いてきた。新しく勃興してきた国々はだめだということは許されないだろう。今後もエネルギー需要は増え続ける。原発はその有力な手段として、多くの国が拡大しようとしている。その際、最も安全なのは日本の原発だ。原発の輸出について、反倫理的だからやめるべきだという意見がある。しかし輸入する側から考えれば、日本のような地震の多い国で開発された原発なら、安全と考えるのが当然だろう。

韓国で今月、核安全保障サミットが開かれる。筆者はその準備のため、インドのアブドゥル・カラム元大統領、シンガポールのゴー・チョクトン元首相、オーストラリアのギャレス・エバンス元外相、ハンス・ブリックス元IAEA事務局長らとともに、昨年11月の有識者会議に参加した。韓国が任命した人々なので当然だが、原発に対する根本的な反対の声は出なかった。

彼らが日本の原発事故を真剣に受け止めていないわけではない。事故はどこでも起こりうるので、その場合に備えなければならないということを、宣言に取り入れる方向だ。

日本の原発反対派には、「想定外」ということは許されないという人がいる。しかし、世界の情勢を考えれば、ホルムズ海峡をめぐって中東で軍事衝突が起きる可能性もゼロではない。こういう事態も想定しなくてはいけない。それなら、中長期的にはともかく、直ちに原発をやめるわけにはいかないのである。

おそらく、編集者から「こんな内容を織り込んで」と箇条書きを手渡されて、書いたもので。上記の肝の部分以外は、著者の博識からとりとめもなく付け足したものなのでしょう。どうでもいいような事柄で水増しされたあげく、見事に意味のない文章になっております。このような詭弁を弄するたくさんの方々(御用学者)によって、先の菅直人・前首相は無責任さを追求され、無責任な政治責任は残り続け、『その時に「東電はトップ2(会長、社長)が東京にいなかった。」という事実』は消えていってしまったわけですね。

しかし、どうでもいいようなことで延々と文章を伸ばされ、眠くなったところで「最も安全なのは日本の原発だ」とは見事です。背景に散らばされた(蛇足の)意味のない文章のおかげで。その後の「日本のような地震の多い国で開発された原発なら、安全と考えるのが当然だろう。」という一般的には噴飯ものの文章も違和感なく受け取られるかもしれません。まったく困ったものです。『「受動的な無責任」改めよ』との記事でありますが、その前に『「積極的な無責任」改めよ』とつっこんでおきましょう。

ところで、『その時に「東電はトップ2(会長、社長)』はどごで、誰と、何をしてたのでしょうか。本当のことを知りたいところではあります。

iPad新型で、タブレットパソコンに注がれる視線が熱くなるのか

アップルの宣伝上手といおうか、話題づくりはいつもながらすごいものがある。こういうパブリシティのうまさというのは、ハリウッドをもつアメリカの伝統かとも思う。本当に派手で、スマートです。iphone4sなどという中途半端な新製品ですら、父親ともいうべき、スティーブ・ジョブズ氏の死さえも利用して売りまくっています。一説では、4sを「for steve」と呼ぶらしいです。粗利もすごいらしくて、何でも販売数十日前に現金を回収することになるらしいです。

日本のマスコミもアップルには甘いらしく、いいように書いています。ということで、まずは日経の今日の記事をご紹介。

2012年(平成24年)3月9日(金曜)日本経済新聞

タブレット端末1億台時代へ -企業・学校・家庭に浸透-

[シリコンバレー=岡田信行]

米アップルが16日に日米など10力国・地域で第3世代となるタブレット(多機能携帯端来)「iPad」の新機種を発売する。高精細ディスプレーと動画処理能力の高い半導体を搭載し、高速瞬帯電話「LTE」の通信網にも対応する。タブレットば2012年に世界出荷が1億台を超えるとみられ、インターネット端末としてパソコン、高機能携帯電話(スマートフォン-スマホ-)に次ぐ地位を確立しつつある。

 パソコン・スマホを猛追

米調査会社ガートナーの昨年の予測では11年に約7000万台だった世界のタブレット出荷は14年に2億2000万台に増え、5億3000万台と予想されるパソコンの半分に迫る。
米国では今年タブレットの出荷台数が3530万台を超え、個入向けノートパソコン(2億50万台)を上回る見通しだ。

タブレット市場では「アップルの「iPad」が約6割の世界シェアを握り、これをグーグルの基本ソフト(OS)」「アンドロイド」を搭載した「ギャラクシータブ」 (韓国サムスン電子)や米アマゾン・ドット・コム「キンドル」シリーズが追っている。米マイクロソフトも年内にも投入するOS「ウィンドウズ8」でタブレットでの巻き返しを狙う。」

パソコンの高性能とスマホの携帯性を併せ持つタブレットは米国などでビジネスや学校に浸透しつつある。
例えば旅客機のコックビット(操縦室)。バイロットが持ち運ぷ紙のマニュアルはトランクー個分、重量は17㌔に上る。この紙のマニュアルを廃止しハタブレットへの置き換えが進んでいる。すでにアメリカン航空やユナイテッド航空がiPadを導入して紙のマニュアルを切り替えた。

学校や病院でもタブレットの活用が目立ってきた。病院では「患者さんに検査結果など個人的な映像を見せる時に役立つ」という。韓国ではザムスンが学校にタブレットを売り込みーデジタル教科書が普及しつつある。
「タブレットはわずか2年で普通の人々の生活に無くてはならない存在になった」。アップルのティム・クック最高経営責任者(CEO)」はこう胸を張った。

 タブレットはパソコソ以上に個人の仕事や生活を支える”パーソナルコンピューター”の役割を担い始めている。画面の高精細化や通信環境の大幅な改善で、タブレットの普及や用途拡大はさらに加速しそうだ。
日本では16日にソフトバンクモバイルが新型を発売。KDDIも4月以降に発売する見通し。8日には販売店に消費者の問い合わせが相次いだ

私が疑問に思うのは、アップル製品は、性能もさることながら値段も高いということです。iphoneにしろiPadにしろ、本体そのものが高いのに加え、通信代を加えた維持費というか、ランニングコストがあまりにも高い。特に日本は別格で、官僚の行政指導やらが加わりとてつもない値段がまかり通っています。

とりいそぎ、この構造をなんとかするのは、まずはアップルの対抗馬、グーグルのアンドロイドの活躍ですね。がんばってほしいところです。

ということで、満を持しての「アンドロイドパソコン講座」始めます。以下の要領で始めますので、是非ご参加ください。会場の都合で20名までしか会場には入れないので、どうしても参加したいという方はお早めにお申し込みください。

タプレットパソコン実践講座
健康管理もおまかせあなたの日常をパソコンでブートアップ。メール、スケジュールはもちろん、音楽、映画もタブレットに詰めましょう。
初心者歓迎、簡単に指先で使えるアンドロイドタブレット

パソコンは使うものです。手にしたその日から実践しましょう。簡単にできることからはじめます。

まずは、お使いのe-mailアドレス、カレンダー/スケジュールから評判のtwitter、facebookまでサラッと日常にします。それぞれのアカウントをお持ちの方は、ログイン情報などを持参ください。また、アンドロイドパソコンをお持ちでない方は、こちらで用意しますので、予約かたがたその旨ご連絡ください。

さあ、時は四月、この講座を境にあなたの新しい日常が始まります。

参加要領

セミナーに使用する機材すべてご用意しております。下記webもしくは電話番号でのご予約が必要です。http://www.saybu.com/
携帯電話:090-3127-4936 (伊丹)

日 時  2012年4月7日(土)午後1時15分~2時45分
受講料 無料
講 師  倉中達彦(くらなかたつひこ)
会 場  青葉区中央市民センター 第3会議室(七十七銀行本店近く)
主 催  セイブ・ドット・コム(有限会社セイブ)
事業名  宮城県地域医療復興支援事業

いつものようですが、前振りが長くてすいません。照れ屋はこんなもんですけどね。

山寨革命とはなにか? その3 基地「深圳(シンセン)」華強北

中国モノマネ工場――世界ブランドを揺さぶる「山寨革命」の衝撃の出だしに、山寨の基地「深圳(シンセン)」についての地理状況について記されているのだが、その部分を要約すると下記のようになる。

科学技術パークから華僑北までに至る約15キロの間は、東に向かうほど研究開発企業の比率が下がり、その代わりに販売業を営む企業の比率が上がっていく華強北は深圳(シンセン)で最も重要な電子製品の集散地なのだ。

深圳では、電子部品が非常に手に入れやすい。華強北から数百メートル離れた華強路という地下鉄の駅のそばには、易通、朧源といったきわめて大きな携帯電話の部品市場があり、その中はすばらしい部品であふれている。種類が豊富で、それぞれのカウンターがすべて「専門店」で、電池やタッチペンの専門店もあり、また携帯電話のチップやキーボードだけを売っている店もある。誇張されたこんな言菓がある.「華強路でビルを一回りすれば携帯電話ができあがり、おまけに全部のブランドの携帯電話を揃えることもできる」。

加えて、科学技術バークと華強北の間の車公廟(地下鉄の駅の名前)の付近には数千の携帯電話のデザイン会社があり、また宝安区の多くの工場が集まっている。深圳にほ、携帯電話を作るすべての工程がほぼ揃った状態にあるのだ。世界でも珍しい廉価でかつ迅速な「携帯電話設計・製造・販売のチェーン」ほ、すでに国際的に大きな吸引力を持ち始めている。

登場する地名の主なものをドットしてみたマップを下記に置く。

 
販売の拠点となる華強北路付近を、ストリートビューでみると(フル仕様にはなっておらず、写真が置いてある)、かなりの大きなビルが建ち並んでいる(大きな地図で見るで観ることができる)。華強北高科徳電子交易センター一階にスターバックスコーヒーがあるとのことだったが、地図では確認できなかった。代わりにといっては何だが、近くにある二つのスターバックスをドットしておいた。
 
日本人による、華強北のレポートが掲載されていたサイトがあったので、ご紹介。熱気が伝わってきました。必見です。
 
深圳は、2006年にいったことがある。mixiのブログに書いている部分を下記に紹介してみよう。
香港・・・VOL.4 中国の深圳経済特区を訪ねる   2006年09月17日23:01
香港のすぐ北に位置する深圳(SHINZEN)は、ビザなして香港から移動することが出来る中国だ。香港とは全く異なる熱気と、雑多なムードに包まれている。そして、物価の安さはかなりのもの。連日、まとめ買いする香港人も多く、国境を越えた人でにぎわいをみせている。 
国境をでると、視界には巨大で近代的な高層ビルが建ち並び、距離感がなかなかつかみにくくなんとも異様な風景ではある。とくに、駅前のショッピングセンターのでかさには度肝を抜かれた。掲載写真ではよくわからないが、このショッピングセンターには小さな店がびっしりと入っていて、その店の取扱品目が似たようなものであることにはびっくりする。整理とかコーディネートとは無関係にただただ店が並んでいて、扱っているものは衣服、時計、アクセサリー、スポーツ用品、電気製品などなのだが・・・。広いフロアで、似たような店が並んでいるわけだから、道には迷う。なんとも不思議な巨大な迷路になっているわけだ。競争も激しいのか、勧誘がとにかくしつこい。売り子も若い人がほとんどで、教育がなっていないというか、プリミティブであるというべきか、うーん。たとえば、手とか腕を掴むのは当たり前、ふりほどいても掴む、さらにふりほどいても掴む、またふりほどいても掴む。走って逃げても掴む。こんなこともありました。若い女の子が不器用な発音でジーブイデーと連呼している。ついてこいというのでついていくと、フロアをぐるぐると回りつつ奥の方へと進む、行き止まり近くのテナントに連れて行かれて、店内に入るなりシャッターが閉まる。シャッターが閉まった瞬間に天井の口を開けて、一人の男性が入り込む、そして、ファイルブックを天井の上から持ってきて、好きなのを選べという。つまり海賊DVDショップなわけだ。私の回りには若い男女が4,5人取り囲んでいる。丁重にお断りしてシャッターを開けてもらいましたが、まかり間違えば、犯罪にもなりかねない勢いがありました。ちなみに、同じショッピングセンターの正規DVDショップで値段をみてみると9-40元というところで売られています。日本円にして150円から600円。じゃ海賊版はいくらなんじゃいと思ってしまいました。2枚目はショッピングセンター内の食堂のようす。三枚目はそこで食した定食、18元、280円てところか。広いフロアなのに通路が狭い、というよりない。客動線が考えられていないのですね。香港とは非常に近い地域なのですが、言葉が違いますし、英語もほとんど通じません。筆談はかなり通じます。数時間の滞在ではありましたが、刺激的で面白かったです。街へ抜けるときに、たまたま一緒に歩いた一群のなかで知り合った、ロシアンインディアンの18歳の娘さんとの話は面白かった。はじけるような若さと大きな声で、ロシアからの道中の話などを聞いていると、地元のおばさんなどがびっくりしたような顔で、話を聞いています。意味はわかりようもないのですが、ファッションも奇抜なんでしょう。あっけにとられた顔で、しかもその仕草などを隠そうともしないのですね、ストレートに娘さんをみているわけです、何人も。

「みんながみているぜ」というと、「こいつらいなかもんだから、いつもこんなだよ」とか「美人でセンスがいいからびっくりしてんのさ」なんてかんじでひたすら大きな声ではなすわけです。その他、親切で二枚目な宝飾店の若主人、数百メートルも腕を抱えてついてきたマッサージの勧誘女性。故障品を売ってくれたやり手の中古携帯電話店の女主人など、数時間の滞在で経験したことはかなり密度の濃いものでした。

 
ロシアンインディアンの娘さんの事を思い出しましたが、楽しい経験でした。華強北路のことは知らなかったので、このときは訪問しませんでした。

山寨革命とは何か? その2

簡単に要約すると、「山寨革命」とはインターネットによる個人レベルでの市場創世といえるかもしれない。先に紹介した「米国発 さらば規格品社会 ここを攻めろ(3) 「スマートな個人」に商機」の生産版だ。緻密、子細に個人レベルまで降りてきた水平分業生産システムともいえよう。本では以下のように記されている。

純粋な携帯電話組み立て業者の事業内容は、基本的には技術とは関係がなく、家電販売、服飾品販売、農民、鉄の転売などの職業からの参入も可能なのである。

山寨携帯のこのような運営方式だと、チップから始まって携帯電話を市場に出し販売するまでに、たったの一ヵ月しかかからない。これまでの半年から一年に対し有利となるのほ明白だ。販売ルート、金銭、市場が求めているモデルへの敏感さ、そして運気が彼らの勝敗を決める。代理店や代理業者は最終的な工程となる。華強北を例にとれば、一・ニメートルの売り場の借り賃が月に二〇〇〇元余りなので、資本が少なくても一つの売り場を借りて携帯電話の仕事が始められる。すべての工程の間のつながりはあまり複雑ではないが、大変効果的かつ実用的である。これは市場の着実な進歩の結果であり、この自然に進化したメカニズムはすべての工程のコストを極端に圧縮し、すべての工程が市場メカニズムを通して最も適切な資源を配置する。お金がある人、市場に敏感な人、技術のある人、何もリソースはないが小金を稼いで家族を養っている入、すべてに適切な場所がある。     p40-41

「山寨革命」は携帯電話から始まった。携帯電話をめぐる特殊性が、その足腰を鋼のように強くし、弁証法的に止揚された場を提供したと言って良い。日本の携帯電話が特殊性の罠にはまりガラパゴス化したのと好対照である。

携帯電話の組み立てが難しい理由は、以上のように携帯電話市場の汎用的な部品を、零綱企業に組み立てさせないからである。多くの人が、携帯電話が容易に組み立られないのは技術的な原因によると思っているが、実際ほそうではない。携帯電話がパソコンのようにバラバラの部品を買うことができない理由は、第一に、携帯電話の体積が非常に小さいため、それぞれの部晶を売るには保存や運輸上の利便性が確保できず、完成品を売るのに比べて利点がないこと。第二に、携帯電話は研究開発、生産などが一体化された垂直統合モデルであり、携帯電話業界に参入した企業の多くが自分たちの研究開発体制を持っていることである。TI(テキサス・インスツメンツ)、クアルコム、インフィニオンなどの企業が提供するチップは、数社の顧客のためだけのであり、同時に、技術障壁(あるいは観念的な束縛かもしれないが)も比較的高かった。それらの企業が提供していたチップがメディアテックと最も違う点は.携帯電話メーカーが慣例に縛られて、以前と同じように多くの工程を自分でこなそうとしていたことだ.メディアテックからすると、クアルコムなどが提供しているチップはすべて「半完成品」である。一方でクアルコムなどからみると、メディアテックが作っているのは「超完成品」であり、「無駄に高度な作品」なのである。

業界の変化はときに観念上の小さな違いから作られる.クアルコムなどの企業がチップを大工場に作らせる場合、どの程度のものを作るかは考える必要がない。しかし、このように見ない人もおり、もしその人がほかの方法を実行するのであれば、すぐに成功者になれるだろう。

具体的にいうと、一台の携帯電話の製作工程にはまずチップがあり、チップの上にオープンインターフェースとプロトコルスタックを置かなければならない。これらは旧来のチップメーカー内での事情で、携帯電話メーカーはソフトウエアのユーザーインタフェース〔UI)を開発しなければならないなど、作業量はかなり多い。また、チップの生産から携帯電話を完成して出荷するまでのサイクルは大体半年から一年で、技術リスクがあるため、零細企業は手の出しようがない。メディアテックのこの種のビジネスモデルに対する最大の変革は、ユーザーインタフユース内に内包される一連のソフトウエアを提供し、ローカルに技術サービスの拠点を作ったことである。デザインハウスはメデイアテックの計画を手に入れてから個性を際立たせる改革を行った。たとえぱ腕時計型の携帯電話をデザインする場合、基板を腕時計の中に配置できるようにしなければならず、腕時計のような空間の中にいかにしてユーザーインタフェースを置くかというような改革を行う。デザインハウスと市場の間に携帯電話の組み立て事業者が存在し、彼らの間では機器のデザインについての橋渡しをしなければならない。純粋な携帯電話組み立て業者の事業内容は、基本的には技術とは関係がなく、家電販売、服飾品販売、農民、鉄の転売などの職業からの参入も可能なのである。 p39-40

携帯電話の排他性はチップの寡占化によるものだが、ここにメディアテックという新興メーカーが山寨と結びつき山寨革命を押し進めることとなる。

メディアテックが創り出したターンキー方式(チップセットにマルチメディアをはじめさまざまな機能が最初から盛り込まれ、それだけで多様な携帯電話に対応可能にすること)は山寨革命にとって大きなカギとなった。蔡 明介氏はメディアテックのリーダーであり、後に尊敬と揶揄を込めて「山寨革命の父」と呼ばれる・・・。P41

山寨革命はメディアテックと共に、デジカメ、薄型液晶テレビ、ノートPCと進む。ノートPCはタブレット化して、ステーブジョプズのiphone/IPADの果実を追いかけているようでもある。本書では、2009年の時点でもあり、ページ数も少なく控えめな記述になっているが、先に述べたように大手家電メーカーが薄型テレビと共に崩落している様を観ると、革命は本書の唱えるような本物の様相を示し始めているのかもしれない。遠からず、電気自動車も山寨革命の標的になることだろう。

翻って、わが日本を観ると、まだまだ太平の時代を貪っているように思える。時代は変わっているのだが、その構造的な部分が見えていないのだろう。日本経済新聞、2/6/2012付けのコラム-「経営の視点」、30年変わらぬ家電業界-を観てみよう。

「間違いもしたが、ソニーだけではない。日本の家電産業には問題がある」。

経営交代を発表したソニーのハワード・ストリンガー会長兼社長は、7年の在任期聞をこう振り返り、「日本の社会全体としての対応が必要だ」と語った。言葉尻では2200億円もの今年度赤字見通しの責任逃れにも聞こえる。しかし翌日にはパナソニックが7800億円の赤字見通しを発表。シャープも2900億円の赤字となるのを考えれば、確かにソニーだけの問題ではなさそうだ。「最大の要因は自前主義。大規模な工場投資にある」。パナソニックの大坪文雄社長は決算発表で自らの判断ミスをこう認めた。ライバルに対抗し、大型投資に打って出たことが裏目に出たというわけだ。ストリンガー氏は日本の問題に具体的には触れなかったが、答えは大坪氏の反省の弁にあろう。つまり自前主義の各社が横並びで集中的に投資し、結果的に商品の寿命を短くしてしまうという悪いクセだ。

源流は日本が世界の家電市揚を席巻した1980年代にさかのぼる。日本の強みは部品から製品まで一貫して作れる垂直統合モデルにあった。アナログ時代は製造段階での擦り合わせ技術が重要だったからだ。最たるものがテレビで、部品も自社生産すれば部品と製品の両方で稼げた。ブラウン管を持たなかったシャープが後に液晶に力を注いだのはそんな背景からだ。テレビは家の中央に鎮座するため、正面に自社のロゴを飾るのが重要なブランド戦略でもあった。そこで大成功を収めたのがソニーである。映像がきれいなトリニトロン方式のブラウン管で人気を呼び、自前のテレビ工場を海外にいくつも造った。

しかし、デジタル時代の到来で状況が一変する。アップルが工揚を時たなくていいのは、擦り合ねせの要らないデジタル家電は部品さえあれば誰でも作れるからだ。そこに各社が横並びで集中投資して生産すれば、値崩れが起きるのは当然。半導体もしかりだ。デジタル化でもう一つ変わったのが音楽や映像の視聴スタイルだ。

先週、上場申讃した米交流サイト(SNS)の「フェイスブック」や米動画共有サイト「ユーチューブ」」の登場は、放送番組しか見られないテレビを「古ぐさいもの」にしてしまったのである。日本の自前主義と横並びは実は30年前と変わっていない。当時は激しい競争で海外企業を廃業に追い込み、事業的には世界を制覇した。ところが「リビジョニスト」と呼ばれる米国の対日強硬論者が反発、「コンテイニング・ジャパン(日本封じ込め)」の声が上がったのはそのすく後だ。

ストリンガー氏はソニーの負の資産ともいえる海外のテレビ工場を大幅に減らすなど、構造改革に努めてきた。ようやくそれを終えた矢先に起きたのが、リーマン・ショックや東日本大震災、洪水などだった。映像出身のストリンガー氏は本当はアップルのようなハードとソフトの融合モデルを目指していた。従来型のモノ作りを韓国や中国に奪われたからだ。正念場の日本企業に求められるのはアップルを超える新しい事業モデルの創造である。(編集委員 関口和一)

漠然とは問題に辿り着けそうなのだが、もう一つ切り込みができていない。核心を突けない、どうにもわかっていない。そんな記事だと思うのだが、いかがだろうか。

いずれにせよ、新しいシステムは若い人が作って、馴染ませて、押し進めるということが必要だ。日本の若者はなかなか優れていると思う。ちょっと前に「空気を読め」というような言葉がはやったが、空気を読むことができるのは日本人だけだと思う。自信をもって進んで欲しい。若者よ、世界のために頑張れ。

若者に比べて、大人は今ひとつ。日本がダメになっているのは大人の責任だと思う。

考えてみれば「地デジ」て何だったんだろう。寡占化した企業と、官僚と、マスコミがつくりあげた幻想の最たるものが「地デジ」だったのではないだろうか。エコポイントで国民に薄型テレビを大量に売りつけたりはしたが、そのテレビの値下がりは与えたエコポイントの何十倍になるのではないか。というか、「地デジ」で何が変わったの?、何を変えようとしたの。「双方向」ってなに?携帯電話もそうだ、世界一高い通話料金で国民から金を貪っている。原発なんかも同じだ、世界一高い電気料金が宇宙一(え!?)になろうとしている。地デジもガラパゴス携帯も世界には奇妙に見える製品に違いない。反省のない失敗を積み重ねながら、若者を搾取しているのは、大人だよ、何とかしようぜ。

濃い蒸気船を三杯以上飲んでも、太平の惰眠からは醒めないかも知れないなあ。そういった社会の硬直状態こそ、革命の糸口には必要なのだろう。若者よ、硬直しただらしない社会こそチャンスだ。

変えちゃえ!!

山寨革命とは何か?

なにかが違うな・・・。多くの日本人は昨今の日本企業の不振に戸惑っているのではないだろうか。数年前・・・、というか、ほんの少し前に、地デジなどを追い風に順風満帆に見えた液晶テレビが・・・、価格が崩落、今現在は32型で24800円。松下も、ソニーもシャープですら、不振にあえいでいる。

円高であるとか、ユーロの問題とか、タイの洪水、東日本大震災・・・だけでは説明しきれないなにかがあるかもしれない。その問いに一番近いところを触ってくれているなと、中国モノマネ工場――世界ブランドを揺さぶる「山寨革命」の衝撃を読んで、そう思った。

さて、「山寨革命」とは何か、ということも含め、この本を的確に説明しているのが著者の前書きだ。これは是非、全文読んでもらいたい。以下がそうである。

本書の初稿ができあがったとき、周りの友人に見せてみた。すると、ある友人が「最初のところはルポルタージュのようだね」といったので、私は「そのとおり」と答えた.この本はまるで山寨(Shan Zhai 日本語読みはサンサイ。元々は山中の砦という意味。その後、農民による反統制運助を指す言葉として使われた後、北京オリンピックの前後に意味が拡大され、コピー、偽物、ゲリラ、非官製、草の根などを示す言葉として使われ始めた)の携帯電話のように、盛り込めるものはすべて盛り込んであり、できるだけ短い中に簡潔に可能な限り多くの内容を詰め込んだものだ。本書はまるで「三者合一」の商品のようでもあり、多くの人が一つのテーブルで食事をしているのにそれぞれが好きなものを食べ、他の人の食べているものを食べてもいいという状態だともいえる。

第一部は「山寨風雲」で、まさにルポルタージュである。山寨の携帯電話の生産量はみるみるうちにそびえたつ山のように増え、年間の売上高が一〇〇〇億元を超え、数十万のユーザーを持つに至った。そのユーザーは全世界にまたがり、数億人を超えている。比類なき情熱を燃料として燃え上がった山寨の火は中国全土を覆い尽くしている。その結果、「山寨」という言葉もまた二〇〇八年に最も流行った言葉の一つになった.あとになってみれば、決して無視できない歴史の一コマだったといわれるに違いない。

第一部では事実に即して議論を挟みながらこの時期の歴史を述べるが、これは「物語」が好きな人には美味しい料理となるだろう。

第二部は「山寨革命」である。ヘンリー・フォードを筆頭に確立された生産方式は、すでに世界を一〇〇年もの間支配してきた。この方式の神髄は無限に細密化された分業と、膨大な規模、複雑な階層システムと官僚組織を以て企業を働かせることである。標準化と生産ラインはすべての製品の変動費用の増加分を極限まで低く抑えた。わかりやすくいうと、より多く生産してもコストは決まっており、そのことが企業が大規模化する主な目的であるということだ。また、交通と通信の発展はさらに拡張への障壁を取り去り、大型化及び大企業による管理をメリットあるものとした。二〇〇四年に生産額が一〇〇〇億ドルを超える企業は世界中に13社しかなかったが、二〇〇八年には四五社に達している。これに対応して社会のそのほかの組織も大型化、複雑化の様相を呈している。「大きいことはいいことだ」という言葉はすでに人類共通の定理となったかのようであり、心理的にも大型化いう傾向に賛同してきた。

しかし、「山寨現象」は我々に再びこの定理を見つめなおさせ、フォード時代に確立されたルールを知らず知らずのうちに瓦解させた。旧来の企業内部の労働の分業はすでに社会の分業となっており、生産が複雑な製品も大企業の専売特許ではなくなっている。フォード以来の「高い固定費用、低い変動費用」という状況は実質的に変化をはじめ、規模の大型化による利益はコストの整理と官僚機構に丸呑みされてしまっている.大企業をよく見てみると、大型の組織はすでに空洞化し、研究開発、生産から販売に至るまですべての部分が実質的な意義を失っている。携帯電話であれ、コンピュータであれ、もちろん白動車であれ医薬であれ、大企業内部のコストは外部の市場の勢いと闘う方法もなく、すべてはひっそりと変わってしまった。

これらの変化は「革命」というにふさわしい。もしもあなたが「大きいことはいいことだ」という定理を忘れ、まったく先入観のない異星人の目で歴史を観察すれば、すぐにポスト・フォード時代が来ていることがわかるだろう。過去のルールや定理は最後のお祭り騒ぎにすぎない。産業革命は武力革命のように強烈ではないが、それゆえに往々にして人々は物事の真の姿を知らないままに、山の中に取り残されたような状態になる。

インターネット上には山寨の情報があふれている。そしてそれらの大多数はすべて、コピー、クリエイティブ、物まね、パワフル、かわいい、恥ずかしい、庶民の、逸晶などの言葉を使っているだろう。一言でいって、重層的・多角的な分析はなされておらず、山寨の隆盛の内在的原因や意義はネット上では述ぺられていない。

もしも第一部を史料とするならば、この第二部の「山寨革命」は史論であり、私は思索好きの読者に料理を出したことになるだろう。私見では、このタイプの読者にはそれぞれ白分の視点と見方があるゆえに大変「サービス」しにくい。ただ、この部分はDIYのようなもので読者は自分の見解と図式をもっており、私はただ見ていればいい。私が保証できるのは、本書は簡単なコピーの切り貼りでもなければ、ネット上で見つけてきたものを組み合わせればできるというものでもなく、じっくり煮込んでできるだけ多角的に読者に珍しい材料を提供し、ユニークな味に仕上げたものであるということだ。

経済システムの変化は社会の多方面に影響を及ぼし、社会的組織や政府の職能、企業内部の組織の原則に必ず相応の変化をもたらす。産業革命以降打ち立てられてきた膨大な官僚システムと営々と築きあげられた金宇塔型の社会ほ時代の挑戦を受け、小さく巧みで、活力のある、効果の高い山寨社会が必ず旧社会にとって代わるだろう。それが、第三部の「山塞社会」である。

人類社会に関する美しい考えは昔からあり、老子の小国寡民(国土が小さく国民が少ないこと)やプラトンの理想国家、儒家の社会秩序、第三の波のプロシューマー、フラット化する社会などがそれである。残念ながら現実は正反対に向かって進み、いけばいくほど理想とは遠くなるばかりである。収入が増えるほど二極分化が進み、生産力の発展の成果はピラミッドの頂点にいる少数の人に独占されてまばゆいばかりに輝いており、私利私欲にとらわれた官僚体制は社会の瘤(こぶ)となっている.不幸なことに社会すべてがこのような価値観を受け入れ、アンクル・トムと彼の主人のように、統治したりされたりする関係に慣れきっている。社会と、人々の不平等はますます当然のように受け入れられ、賞賛されてさえいる。

しかし、このような時代はすぐに消え去るだろうというのが私の結論である。山塞製品の生産方式と比べればこの変革はゆっくりとしたものではあるが、必ず実現する。これは革命のラッパではなく、ユートピアでの話でもないが、社会が進んでいる趨勢なのである。

私は、実利を重んじる中国人だが、本を読むということは、間題の答を得るためだけでなく、精神的な慰籍と人としての理想を求めることだと信じている。このように考えれば、第三部の「山寨社会」は読者のための美酒になるだろう。 阿甘、2009年二月七日

著者は1967年生まれ、日本人の同じ年代の人では書けない理屈が通っている。日本では、ほぼ死滅したと思われる「マル経」、いわゆるマルクス経済学だ。弁証法的に止揚した先に未来というか希望を持っていくのは、段階の世代こそわかりやすいかもしれないな。上記まえがきの第三部「山寨社会」で、著者は控えめではあるが見事に革命のラッパを鳴らそうとし、ユートビアを語ろうとしている。著者と同年代の日本人にそれができるだろうか。

実に、経済学に必要なのは数量化やシミュレーション以上に 「哲学」なのである。座標軸たりうる哲学がない以上、数量化やシミュレーションは、ただ混迷を招くだけである。今の日本は、「マル経」だけでなく、実に「哲学」が欠けているのであると思う。

この本の後ろに、生島氏が「解説」を書いているが、この「解説」の視点の定まらないふにゃふにゃぶりにはなんともやりきれない思いがした。この「解説」こそ、実に今の日本を如実に表している、と敢えて解説しておこう。