岸辺の旅 / 湯本香樹実

岸辺の旅 読みました。

死んだ夫と旅を続ける物語です。一種の銀河鉄道の夜ですかね。

非常にしっとりとした感じがしました。傍らの人間が生きていないわけですから、過去にフォーカスする小説です。どこまでいっても、未来はなく、ただひたすら過去・・・。

セピア色の思い出とよく言いますが、昔はよくわからなかった。この年になって、薄れていく記憶に気づくにしたがい、セピア色の思い出、ノスタルジー。戻れない過去、失ったものの大きさ。そういったものの大事さに気づくようになりました。本当にどうしようもないのですが、決定的なのは過去には戻れないということです。

だから、僕的には、この手法は禁じ手ではあります。戻らない過去を思うより、これからどうするかの方が、自分の意志を世界に投げかけることができます。人間は一度に一つのことしかできません。過去を見るか未来を見るか、迷ったら未来を見ていきましょう。

とはいえ、美しい小説ではありました。著者の湯本香樹実氏の画像を検索したら、イメージしていたヒロインにぴったりでした。

吉本隆明 x 中沢新一 /<アジア的なもの>と民主党政権

中央公論2010/4月号掲載の対談ですが、昨日図書館に予約してあったものを借りてきました。インターネット徘徊中に対談の話を見つけ、書店で探したのですがなく、図書館に予約すること数週間後にようやく読むことができました。中央公論は廃刊せずに生きていたのですね、しかし、書店ではなかなかみつからないなあ・・。

対談はおもしろかったですね。河合隼雄さんと中沢新一さんの対談は、河合さんがやさしく包むように接してくれましたから、中沢さんの甘さというものはなかなか露呈していませんでしたが、この対談はイーブンですから、なかなか噛み合わないというか、咬み合わないというか、ずれたままで終わっています。

まずは<アジア的なもの>がわかりずらいですね。これは単に<西洋的なもの>ではないということでよろしいと思います。

マルクス・レーニン主義といいますが、「レーニン」は後から付けたもので実際にはマルクス主義。

社会主義といえば、最初はロシア革命で、レーニンが成し遂げるのですが、そこの解釈がいろいろあります。当たり前ですが。

社会主義といえば、中国は毛沢東ですね。レーニンも毛沢東もマルクス主義を実現しようとしたのではなくて、ロシアも中国も革命前は政治的にはとにかくひどい状況だった。社会も悲惨でほとんどの民衆は奴隷みたいな生活を余儀なくされていた。そういった民衆を救うために時の体制、権力と戦うために、レーニン、毛沢東が拠り所として選んだのがマルクス主義というものだったのです。

毛沢東のことばで、「白い猫も黒い猫もねずみをとれば良い猫だ」とかいうような言葉がありますが(念のため読み直したら、対談中に吉本隆明は鄧小平の言葉として引用してますが、毛沢東が実践論、矛盾論でこの言葉を使っていたように記憶しています、まちがったらごめんなさい)、極論すれば、権力を奪取するために役立つものはマルクス主義だろうが、何だろうが良いわけです。

ところが、マルクス主義というのは非常に精緻な理論なわけで(だから、レーニンや毛沢東が選択したわけですが)、非常に期待させるわけです。しかしながら、ロシアも中国もユートピアにはならずに先の権力に近い、専制ならず独裁国家(共産党独裁)になってしまう。もしくはなったままになりそこからユートピアへと進化しない。

そこを中沢氏はなんだと思うのだが、理屈だけで権力は変化してはいかないわけで。権力を取り巻く環境、指導者の人間性などがいろいろに重なり合ってくる。

さて、民主党の話になると、今回の政権が交代したというのはかなり大きな事実で、吉本氏は以下のように述べています。

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吉本 いろいろな前提がありますが、民主党がこれからどこまで行くかといえば、だいたいロシア革命の後、レーニンが突き進んだ地点の直前まで行く可能性があると見ています。

中沢 その前提はものすごく難しいですね。

吉本 難しいです。それは国民全体の雰囲気が民主党支持になったら、そこまで行くということですね。

昔も今も僕は、レーニン主義までいったらだめだよといっているんです。レーニンの死後、スターリンはレーニンを神格化し、独裁体制を作った。レーニン主義の限界は、哲学者の三浦つとむさんが『レーニンから疑え』と、スターリン言語学批判によって指摘していますから、それを読めばわかりますよ。

中沢 三浦さんの『レーニンから疑え』は単純なレーニン主義批判じゃないですね。

吉本 ええ。僕は戦後、三浦さんから『資本論』を解説してもらったんですよ。共産党のいわゆる主体性唯物論者の中で、三浦さんが一番わかっている。「わかっている」という言い方は傲慢ですけど、僕らが考えているマルクスを中心とする本格的な政治構造や政治思想を本当にわかっているのは、この人だなあと思った。

三浦さんは「レーニンはあまりいい弁証法じゃないよ。エンゲルスの『自然弁証法』と同じで、人間の思想とか観念がどう働くかという事が埒外になっているから、うまくいくわけがないよ」と言っていた。いまからすると簡単なことかもしれないけれど、当時、こんな風に言い切ったのは三浦さんだけだった。

中沢 三浦さんの思想と、いろんな前提や条件が整うとレーニン主義に近づいていく可能性のある民主党との関係は・・・・。

吉本 背中合わせに近いと思いますね。ただ、民主党の人たちがそこまで考えているかはわからない(笑い)。でも、『レーニンから疑え』は、いま民主党の人たちが読むと一番いい本です。

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時代は大きな変化を予兆しており、民主党が政権をとったというのは、その始まりでもあり、これから、いろいろな動きがでてくる。それを、例えば「民主主義とはかくあるべし」とかいうような一般論で読み解くことはできない。レーニンの始まりをよく見ましょうという所ですが、それに関して、中沢氏がマルクス主義を語るのに対し、吉本氏は権力闘争を語っているわけですね。

同じ言葉を使っている対談ですが、中身はかなりすれ違っています。吉本氏が中沢氏などに期待するといっていますが、中沢氏ではだめでしょう(世代の問題で、中沢氏個人の問題ではありません)。もっと若い人、例えば、現在職に就けずに虐げられている20代、30代の人たちが理想を掲げて(世にすれずに)がんばらなくてはならないでしょう。

みんなが幸せになるホ・オポノポノ

みんなが幸せになるホ・オポノポノ読みました。

仏教の唯識思想をシンプルにいうとこうなるんでしょうね。間違ってはいないと思います。

この本いわく、「わたしたちの潜在意識に1秒間に100万個も立ち上がってくる記憶をクリーニングしてゼロの地点に立つことができれば、聖なる知能がわたしたちに降りてくる。自由で、豊かな人生を約束する「ホ・オポノポノ」のすべてがここに。」

ただねぇ、これは好みの問題でしょうが、やはり精緻な唯識のほうがおもしろそうですよね。

バカチョンカメラと高級一眼レフカメラ、どちらも写真は撮れるのですが、撮れればいいというものでもないでしょう。露出が足らないとか、ピントが甘いとかいってみたいよね。

猿の詩集(上・下) / 丸山健二 読みました

猿の詩集〈上〉読みました。

戦争で死んだ兵士が、霊となって故郷に帰り、原爆の爆発のショックからか居合わせた年老いた猿の体に、詩人の魂、鳶の視覚と合体して戦後の故郷を見守るという筋書きです。

文章は、詩人の魂と合体したわけですので、散文詩のような、リズミカルな文体で書かれており、読後しばらくは耳に残ります。読み終えるのに4-5日かかりましたが、個人的ですが、その間、戦争経験のある親父が、非常に近くにいるような感覚がありました(親父は30年くらい前に他界しています)。

夢などにでてきたのですが、とくに因果関係には気づきませんでしたが、おそらくこの本の影響かと思われます。読書前にも、親父のことはきになっていたので、逆にそのことがこの本に巡り会わせてくれたのかもしれません。

最近読書したのは、佐野眞一の「だから、君に、贈る。」手元に未読の「スタッズ・ターケル自伝」があり、普通の人々の生活に関心がある書籍が偶然に並ぶこととなりました。なにか意味があるのでしょう。

この本は、戦後を生きた人々の生活を、猿の体、詩人の魂、鳶の視覚と死者の観点からあますところなく伝える本に仕上がっています。

仏教が好き /河合隼雄 x 中沢新一

仏教が好き!読みました。かなりおもしろい。とんでもなくおもしろい。

河合隼雄さんが、中沢新一さんに教えを乞う形で対談が進んでいきます。河合さんの聞き上手とあいかわらず、というか、ますます冴える中沢新一さんの頭脳、博識に圧倒されます。まるごと食べちゃいたいぐらいの本です。

しかし、中沢さん。こんなにすごいのになんでオウムを擁護しちゃったの?

雑誌に掲載された麻原と中沢さんの対談を、私はたまたま読んでいました。河合さんとの対談に比べれば中沢さんらしくない薄っぺらい対談だったように思いますが、よく憶えてはいません。ただ、雑誌の掲載写真の麻原と中沢さんが微笑みが忘れられません。頭脳明晰も博識もつまるところ空しいものだった・・・、そういうことなのでしょうね。

ちょっと抽象的になりましたけど、具体的にいうと。たまたま、いまこの本のページをめくったところ、瞑想についてのところが開きました。その部分を以下に提示します。

河合--そのときにエックハルトとか西洋の神秘思想家たちがやはり瞑想していたということは大事なポイントです。

中沢--大きいと思いますね。

河合--「神に祈っている」との「瞑想」とはちょっと違って、瞑想の知恵の方へいくとエックハルトみたいになるのではないかな、と思ったりしますけども。

中沢--そうですね。井筒先生が「メタ宗教」という考えについて書かれたときに、イスラムでもスーフィー、神秘主義の方に入っていくと、ほとんどこれは仏教と同じになってくる、キリスト教だってユダヤ教だってカバらから神秘主義へ入っていくとだいたい同じになるとおっしゃっていることは、そのことに関わっています。媒介しているのは必ず神秘主義的な体験といわれているもので、これは瞑想です。

河合--確かにそう思います。

中沢--で、「瞑想とは何か」、一言でいうと、大脳新皮質の活動を停止させたときに見えてくるものがあると、そのことに尽きると思います。そのときに何か変化が起こってくる。これを井筒先生は「あらゆる宗教が突き抜けていく先がある」と表現されましたけれども、それを脳の中でどこに探していくかというと、大脳が新しい皮質の活動を停止させたときに、古い皮質が活動しし始めていきますよね。そのへんでしょうか

河合--その古い皮質が活動するときに覚醒度を持っていないといけない。覚醒の度合いが高くないといかんわけですよ。普通、新皮質を停止すると、全部寝てしまうんですよ。われわれが瞑想すると眠くなる(笑)。それをずうっと覚醒の度合いのレベルをちゃんと保持したままで新皮質の活動を停止する。この練習をしているのが瞑想やないでしょうかね。

中沢--その瞑想の練習には呼吸法が一番重要な働きをして、呼吸法がどうも間脳とか脳幹のあたりを活性化させます。古い皮質が煌々と目覚めていくる状態を作りだす、一つの一番確実な道は呼吸法になってくる。だいたいどの神秘主義的な瞑想法でもそれは言っています

河合--それと僕はやったことないんですけど、早くて深く深呼吸を持続させる過呼吸法ってどうなんでしょうね。たとえばトランスパーソナル心理学のスタニスラフ・グロフというおもしろい人がいるでしょ。あの人たちは過呼吸させるんですよ。やっているうちに変成意識が生じてくる。そういうのはどこか関係ありますかね。

中沢--あの人たちの探求には、ドラッグ体験がきっかけになっていますから、そっちからいくとグロフのような探求がでてくると思います。

・・・というような対談ですが、内容はきわめて正確ですね。で、問題は中沢氏は瞑想を実践しているのかということです。

逆にいうと、瞑想を実践している人間がオウムを擁護するようなことができるのかということです。これは理屈ではなく、結果です。

中沢氏の対談から言葉を使って、もう少し説明してみましょう。

大脳皮質、欲得や打算を考える場所ですが、これを働かせなくすると古い脳が活性化する。この古い脳は、直感的にすぐれていて、理屈に関係なく、危険が迫ると避ける。剣道や柔道の格闘技でもそうで、最終的には直感的な動きを働かせられるかどうかが生死を決める。

格闘技の条件反射的な体の動きだけとどまらず、決定的に危険な状態に陥りそうなときに、古い脳はありとあらゆる潜在意識をも利用し、時空をも超えて、危機から脱出を図ろうとする。

違う言い方で説明すると、もしくは意識的に説明すると、考えられない偶然が次々に重なり、どうしてもその危機に近づくことすらできなくなる。そうして、結果的に身の安全が維持される。「君子危うきに近寄らず」という言葉がありますが、これはまさしくそうです。意図する、せざるに関係なく、君子は危うきには近寄らないものなのです。

つまり、中沢氏とオウム麻原との対談は、中沢氏が瞑想を実践していれば、あり得なかったのではないかと私は思うのです。

ちょっと話がずれましたが、中沢氏の頭脳明晰さと博識に触れるたびに私の脳裏にオウムが表れてしまうのです。 中沢氏のオウム擁護はとても惜しいのです。そしてそれは、消えることのない事実なのです。