キューブラー・ロス「人生は廻る輪のように」

人生は廻る輪のように は長いこと「つん読」していたのだが、このたびいよいよ読ませてもらいました。予想していた以上におもしろかったなぁ。キューブラー・ロスはたくさんの著書があるのだが、まだ何も読んでいない人は、この一冊をお勧めします。自伝的であり、なおかつ面白い。

著作ともに広くしられており、いまさら、特になにも取り立てて言うことはないのだが、文中にて死後の段階について説明している箇所が非常にまとまっており、普遍性も高いと思われるので、その部分を紹介してみよう。

面接のデータを分析して、わたしは死亡宣告後の経験をいくつかの特徴的な段階にまとめた。

 

第一期 まず最初に、肉体からぬけだして空中に浮かびあがる。手術室における生命徴候の停止、自動車事故、自殺など、死因のいかんにかかわらず、全員が明瞭な意識をもち、自分が体外離脱をしている事実にはっきりと気づいている。さなぎから飛び立つ蝶のように、肉体からふわっとぬけだすのだ。そして、自分がエーテル状の霊妙なからだをまとっていることに気づく。なにが 起こったのかは明噺に理解している。その場にいる人たちの会話が聞こえる。蘇生を試みる医師チームの人数を数えることも、つぶれた車から自分の肉体を救出しようとしている入たちの姿をみることもできる。ある男性は自分を轢き殺して逃げた車のプレートナンバーを覚えていた。自分の死の瞬間にベッドサイドで親族がいったことばを覚えている人はたくさんいる。

第一期で経験するもうひとつの特徴は「完全性」である。たとえば、全盲の人もみえるようになっている。全身が麻痺していた人も軽々と動けるようになり、よろこびを感じる.病室の上空で踊りはじめ、それがあまりにたのしかったので、生還してからひどい抑うつ状態になった女性もいる。実際、わたしが面接した人たちが感じていた唯一の不満は、死んだままの状態にとどまれなかったということだった。

第二期 肉体を置き去りにして、別の次元に入る段階である。体験者は、霊とかエネルギーとかしかいいようのない世界、つまり死後の世界にいたと報告している。ひとりで孤独に死んでいくことはないのだと知って、安心する段階でもある。どんな場所で、どんな死にかたをしようと、思考の速度でどこにでも移動することができる。自分が死んで、家族がどんなに悲しむだろうかと思ったとたんに、一瞬にして家族に会うことができたと報告する人は数多くいる。たとえ地球の反対側で死んでも、その事情は変わらない。救急車のなかで死亡した人が友人のことを思いだしたとたんに、仕事場にいるその友人のぞぱにきていたと報告する人もいる。

この段階は、愛した人の死、とりわけ、とつぜんの悲劇的な死を嘆き悲しんでいる人にとっては大きななぐさめになる時期でもあるということがわかった。がんなどでしだいに衰弱して死をむかえる場合は、患者も家族も死という結末にそなえるだけの時閻がある。しかし、飛行機の衝突事敗はそうはいかない。飛行機事放で死んだ本人も、最初は残された家族に劣らず混乱している。ところが、この段階に入ると、死んだ人もなにが起こったのかを解明するだけの時間がもてるようになる。たとえば、TWA八OO便の事故で亡くなった人たちは、海岸でおこなわれた葬儀に家族といっしょに参加していただろうと、わたしは想像している。

面接をした全員が、この段階で守護天使、ガイドー子どもたちの表現では遊び友だちーなどに出あったことを覚えている。報告を総合すると、天使もガイドも遊び友だちも同一の存在であり、つつむような愛でなぐさめてくれ、先立った両親、祖父母、親戚、友人などの姿をみせてくれる。その場面は生還者たちに、よろこぱしい再会、体験の共有。種もる話の交換、抱擁などとして記憶されている。

第三期 守護天使にみちびかれて、つぎの第三期に入っていく。そのはじまりはトンネルや門の通過で表現されるのがふつうだが、人によってそのイメージはさまざまである。橋、山の小道、きれいな川など。基本的にはその人にとっていちばん気持ちのいいイメージがあらわれる。サイキックなエネルギーによって、その人自身がつくりだすイメージである。共通するのは、最後にまぶしい光を目撃することだ。

ガイドのみちびきで近づいていくと、その強烈な光となって放射されているものが、じつは、あたたかさ、エネルギー、精神、愛であることがしだいにわかってくる。そして、ついに了解する。これが愛なのだ。無条件の愛なのだ。その愛のカは途方もなく強く、圧倒的だったと、生還者たちは報告している。興奮がおさまり、やすらぎと静けさがおとずれる。そして、ついに故郷に帰っていくのだという期待が高まってくる。生還者たちの報告によれば、その光こそが宇宙のエネルギーの、究極の本源である。それを神と呼んだ人もいる。キリストまたはブッダと呼んだ人もいる。だが、全員が一致したのは、それが圧倒的な愛につつまれているというごとである。

あらゆる愛のなかでもっとも純粋な愛、無条件の愛である。何千、何万という入からこの同じ旅の報告を聞くことになったわたしは、だれひとりとして肉体に帰りたいと望まなかったことの理由がよく理解できた。

しかし、肉体にもどった人たちは、異界での体験がその後の入生にも深速な影響をあたえていると報告している。それは宗教体験とよく似ていた。そこで大いなる知恵を得た人たちもいた。

予言者のような警告のメヅセージをたずさえて帰還した人たちもいた。まったく新しい洞察を得た人たちもいた。それほど劇的な体験をしていない人も、全員が直硯的に同じ真理をかいまみていた。すなわち、その光から、いのちの意味を説明するものはただひとつ、愛であるということを学んだのである。

第四期 生還者が「至上の本源」を面前にしたと報告する段階である。これを神と呼ぷ人たちもいる。過去、現在、未来にわたる、すべての知識がそこにあったとしかいえないと報告した人たちも多い。批判することも裁くこともない、愛の本源である。この段階に到逮した人は、それまでまとっていたエーテル状の霊妙なからだを必要としなくなり、霊的エネルギーそのものに変化する。その人が生まれる前にそうであったような形態としてのエネルギーである。人はそこで全体性、存在の完全性を経験する。

走馬灯のように「ライフ・リヴュー」(生涯の回顧)をおこなうのはこの段階である。自分の人生のすべてを、そこでふり返ることになる。その人が生前におこなったすべての意思決定、思考、行動の理由が逐一あきらかにされる。自分のとった行動が、まったく知らない人もふくめて、他者にどんな影響をあたえたのかが、手にとるようにわかってくる。ほかにどんな人生を送ることができたのかも示される。あらゆる人のいのちがつながりあい、すべての人の思考や行勤が地球上の全生物にさざ波のように影響をおよぼしているさまを、目の前にみせられる。

天国か地獄のような場所だ。とわたしは思った。たぷん、その両方なのだろう。

神が人間にあたえた最高の贈り物は自由意志による自由選択である。しかし、それには責任がともなう。その責任とは、正しい選択、周到な、だれに恥じることもない、最高の選択、世界のためになる選択、人類を向上させるような選択をするということだ。生還者の報告によれば、「どんな奉仕をしてきたか?」と問われるのはこの段階である。これほど厳しい問はない。生前に最高の選択をしたかどうかという問いに直面することが嬰求されるのだ。それに直面し、最後にわかるのは、入生から教訓を学んでいようといまいと最終的には無条件の愛を身につけなければならないということである。

こうしたデータからわたしがひきだした結論は、いまでも変わっていない。それは、富んだ人も貧しい人も、アメリカ人もロシア人も、みんな同じ欲求をもち、同じものをもとめ、同じ心配をしているということだ。事実、わたしはこれまでに、最大の欲求が愛ではないという人に出あったことがない。248-252頁

翻訳者(上野圭一)のあとがきがよかったので、その部分も付け加えておこう。

現代文明は、じつはその根底において「偶然」を究極の根拠とする、あやふやな文明である。まず宇宙の発生自体が「偶然」の産物であるとされている。第一原因が設定できないために、「偶然の量子的ゆらぎ」に端を発する「ビッグバン」から「偶然」にはじまったことにならざるをえないのだ。生命の起源にしても、無機物質が化学進化によって「偶然」に複雑化して有機物質となり、生化学進化によって有機物質から「偶然」に生まれたのが代謝と増殖をおこなう生命だとされている。その生命の進化にしても、自然選択という必然だけでは説明できず、「突然変異」という「偶然」との結合を強調せざるをえないという事情がある。

物質も生命も「偶然」の産物であるとする思想からでてくるものは、当然のことながら、一種のニヒリズムである。みずからの出自をたずね、本源を探っていこうとしても。最後にぶつかるものが「偶然」でしかなければ、そこに意味や価値をみいだすことがむずかしくなるからだ。キューブラー・ロス博士が生涯をささげた医学の世界においても、そのニヒリズムは徹底している。

からだは物質である分子の集合体であり、死んだら無になるだけであり、脳が不可逆的に損傷すれば生きた臓器をとりだしても罪にはならない。

ところが、「偶然」はじつは、思想的にも明確な概念ではない。『二〇世紀思想事典』[丸山圭三郎他著、平凡社)によると、偶然は「予測、説明、理解をこえていること(とくに注目すべき事象や一致・符合)の生起を形容するために用いられる。行為者が意図しなかった事象に出あうことを形容するのに用いられるごともある」。予測、説明、理解ができるようになれば、同じ事象も「偶然」ではなく「必然」になる可能性がつねにあるといってもよさそうだ。

そう考えると、肝心なことをすべて「偶然」のせいにしようとする現代文明は、じつは現象界の背後に存在する(はずの)つながりの糸をみる目をもたない、未熟で無明の文明であることがわかってくる。「いのちの唯一の目的は成長することにある」というキューブラー・ロス博士が一貫して提唱してきたのは、その無明から脱して成長しようということであった。それも、文明自体の未熟を糾弾するのではなく、個人の目ざめと成長をつうじて文明の成長をうながそうという提案である。個人が目ざめ、成長をとげる過程をさまたげているもの、それが死にたいする恐れである。臨床的にその死をみつめつづけた結果、博士がついに手中におさめたのは「死は存在しない」という、足元をすくわれるような結論だった。肉体の死はもちろん存在する。しかし、蝶がさなぎから羽化するように、役目を終えた肉体からなにかがぬけだし、さらに長い長いいのちの旅をつづける。存在するのは物質としての肉体の死だけであり、いのちの終焉としての死は存在しない。そう気づいたとき、人は大いなる安心の境地にいたり、つぎの段階へと成長をとげる。蝶の羽化のように…。

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