瞑想体験 #6 光の前で躊躇するということは

光の中に入ることに躊躇するということは・・・。

などと考えつつ家の中を歩いていたら、本棚にぶつかって、落ちてきた本が一冊。

流体感覚-吉福伸逸、対談集でした。ぱらばらと読み始めたら、冒頭の松岡正剛氏との対談「アルタード・ステイツと自己編集」で、アルタード・ステイツ(変成意識、同名タイトルの映画も創られた)を説明しているのだが、この「アルタード・ステイツ」を「瞑想の光の中に入る」と読み替えることもできるかななどと考えてしまった。

光の中に入る=自分を明け渡す瞬間

本書10頁より始まる箇所を以下に引用しますので、興味のある方はご検討下さい。

アルタード・ステイツと自己編集
変成意識と治癒力

吉福◎・・・今日は「アルタード・ステイツと自己編集」というテーマで松岡さんと話をするわけですが、ぼくがアルタード.ステイツという概念を出したときに、自己編集という概念を対置して出されたのはセイゴオさんです。

松岡◎・・・ぼくはアルタード・ステイツというのも好きなんですけどね。

吉福◎・・・ぼくたちはどうもそういう異常性が好きみたいですね(笑)。アルタード’ステイツというのは、日本語では「変性意識」というふうに訳されている概念なんですね。1960年代に出てきた言葉です。

松岡◎・・・最初は誰が言い出したんでしたっけ。チャールズ・タートだったかな。

吉福◎・・・タートが定義だけしたのが最初だと恩います。それまでは、西欧の心理学にしろ宗教にしろ神学のようなものしろ、アルタード・ステイツという概念にあてはまるような概念はあまりなかったという気がするんです。

松岡◎・・・ないかもしれないですね。正確には、やはり神がいる時代には変成意識にあたる言葉があったのかもしれないけれども、神なき時代になって以降はなくなったんでしょうね。

吉福◎・・・そうね。セイゴオさんがおっしゃるように、神という概念とのからみでは十分にそれに該当する概念がありえたと思うんです。探せばどこかにあるかもしれないけど、広くは使われていないと思いますよ。

で、この変性意識という言葉がいったい何を意味しているかというと、基本的には非常に単純なことなんです.いまわれわれは目を醒まして起きていて、白分の存在に気づき、自分をとり囲む外界の存在にも気づいている。ある種の境界線をもって世界と触れ合っている。こういう意識状態のことを、一応「ノーマル・ウェイキング・ステイツ」と言う。「正常な目覚めた状態」というふうに呼びます。これを目覚めた状態と呼んで、それ以外の状態はすべて変性意識だ、というのが基本的な変性意識の定義です。ということは、眠っている状態、夢見の状態、あるいは半睡半眠の状態、そのほかにもアルコールに酔っている状態、サイケデリックスを摂取した状態、極度に睡眠を剥脱した状態、さらには感覚の過剰刺激を受けている状態、感覚が剥脱されている状態のようなものも、すべて変性意識状態というふうに定義上はいわれていると思うんです。

松岡◎・・・そんなに広かった?

吉福◎・・・タートの基本的な定義では、まずそうやってテクニカルに定義しまして、その上で、さらに「状態特定性」という言葉をもち出してきて細かく分けていくんです。ぼくが今日、あえて取り上げたいと思っている変性意識状態というのは、そこまで広い概念ではなくて、一般に神秘体験であるとか、宗教体験であるとか、あるいはトランス(憑依)状態であるとかと呼ばれるような、ある種合理的な白己統制が外れてしまって、意識そのものがそれ字体のセルフ・オーガナイゼーション(白己組織化)をおこしていく状態についてなんです。

松岡◎・・・その途中の、差し掛かりというんですかね。

吉福◎・・・差し掛かりでもいいですが、そのあたりをぼくは重視しているんです。変性意識にもさまざまなものがあって、中には退行現象(リフレッション)と呼ばれる、幼児回帰していく状態もありますし、さらにはより成長して行くような状態もあります。しかし、変成意識状態はどんな状態であれきわめて治癒的ですから、ぼくはそれを区別する必要はないと思うんです。事実、各種のセラピーの現場などでは、変成意状態は非常に高い治癒力を持っていて、退行現象であれ幼児化であれ、あるいはどんなネガティブなものでも有機体には益になるようにはたらくことがあるんです。

松岡◎・・・ガタリにあったときに、彼はそういうネガティブというか、少し危ないアルタード・ステイツに関心を持っていると言っていましたね。「狂気」というものに積極的な意味を認める入たちは・アルタード・ステイツと狂気とは非常に近い関係にあるというふうに見るんだけれど、まあそのあたりは難しいところですね。

吉福◎・・・識別して、境界線を引いていくことは非常に難しいですね。で、さっきいったようにあらゆる変成意識状態は内容がどんなものであれきわめて治癒的な、ポテンシャリティを持っているという事実は見逃せないと思うんです。ただ、これまでの変成意識というもの対するアブローチの最大の間違いは、変性意識状態のおこる内容にこだわってしまう点にあるんですね。

松岡◎・・・そのヴィジョンとかにね。

吉福◎.,.そうです。ヴィジョンであるとか、その意識状態においておこるその入の特異な振る舞いとか、あるいは社会との適応力の激減状態とかね。そういったことにこだわってしまって、多くの人がその内容に驚異を感じる。例えば、一種の憑依状態なんかがおこって、目の前でトラに憑依した人が吠えて暴れ始めますと、やはり危険を感じるわけですよ。そういうかたちで、どうしてもその内容に目が引き寄せられていく。そのために、これは危ないって発想しやすいんですけど、変性意識状態の大切なポイントは、内容ではなくてその状態になることにある。そのことが当人にとって非常に必要なことであって、どんな内容であれその内容をすべて当人がきちんと体験しきることができれば、さっき言ったように強力な治癒のカになり得るんです。

そのあたりが、これまでの伝統的な心理学や宗教の、変性意識に対するアプローチの欠落点ですね。60年代以降になって初めて、重要なのは内容ではなくてそのプロセスなんだと考えて、しつかりとその変性意識状態を歩みきることの意味合いというようなものが知られるようになったわけです。

自分を明け渡す瞬間

松岡◎・・・アルタード・ステイツ』という映画が出てきて、ジョン・C・リリーが例のアイソレーション・タンクの中に入った体験という話が出てくる。あれも一種の憑依現象がおこる映画だったけれど、あれでずいぶん言葉は一般化しましたね。

吉福◎・・・いまセイゴオさんがおっしゃったように、あの映画はジョン・C・リリーを一つのモデルにしてつくられたものです。リリーという人は、フローテーション・タンクとか、サマディ・タンクとか、アイソレーション・タンクと呼ばれる、感覚を徹底的に遮断して、浮力の強いマグネシウム液に浮かんで無重力状態になる、隔離タンクを発明した人ですね。その隔離タンクの中にサイケデリックスの一種であるLSDを飲んで入るためにつくられたんです。あれはその中でおこった退行現象の一つですね。それを逆にたどつて映画にしたのが、あの『アルタード・ステイツ』という映画です。あれもアルタード・ステイツの典型的な現象の1つでしょうね。でも、あの映画でこの言葉は有名になったんだけれど、異様なものだというイメージも拡がってしまった。

松岡◎・・・ぼくはアルタード.ステイツというのは、さっき「差し掛かる」と言ったけれども、ポゼッションになったり、完全なトランス状態ももちろん含まれるんでしょうが、どうもその直前の状態がアルタード.ステイツだというふうにみていたんだけれども、実際にはそこまですべて含むんだね。

吉福◎:・全部含みますね。その変性意識状態に完全に入ってしまうと、白分を手離す、つまり明け渡す瞬間がやってくる。おこってくるプロセスに自分を完全に明け渡す瞬間というのは、非常にドラマチックな瞬間なんですね。で、多くの人が本格的な治癒をおこすことができない理由は、そこに差し掛かったときにたじろいでしまうからなんです。理性によるコントロールを外すことに対する抵抗感から、たじろいで、後退りする。後退りしますと、治癒や成長につながることがおこりにくくなってしまうんですよ。

松岡◎・.・例えば、とくにいまの人たちはそういうところに入るのを恐がるというか、たじろぎますね。そのためにどうしているかというと、映画とか小説とかゲームとか、つまり遊びですね、そういうものの助けを借りる。本来アルタード,ステイツというものは自分の意識と身体の中でおこさなけれぱいけないことなんだけれども、ある意味ではコミュニケーションとか、それから娯楽とか、そういった中で擬似的にアルタード.ステイツを体験するという文化が、いま非常に蔓延しているわけですね。別にそれが悪いことだとぱ思わないけれども。

しかし実際に、映画を見ると泣けるとか、ゲームをやると夢中になって白分が乗り出してやってしまうとかという体験は、時間がきっちりと限られているわけです。スイッチが入ってさあ始まりました、スイッチを切れば終わりですという安全装置がはたらいている。いわば擬似アルタード.ステイツという文化的保護装置化されていると思うのね。シンちゃんが言っているのは、それでは本当の治癒にはならないということですね。実際に一人でそういうところに立ち向かわなければ意味がない。

吉福◎・・・全くそうだと思うんです。セイゴオさんが言ったように、視覚とかを使った文化メディアというものは、疑似アルタード・ステイツをつくるものですね。

松岡◎・・・これから、ますます流行ってくるね。

吉福◎・・・流行ってきますね。ぼく自身も、そういう文化を否定しているわけではないし、ある意味で非常にいい面もあるとも思うんですね。なぜかというと、それまでアルタード・ステイツに入って実感していた世界を、ビジュアルに再現して見せることができるようになる。さらに、それを視覚だけにとどめず、聴覚、嗅覚、触覚など、五感全体にわたって、アルタード・ステイツで多くの入が体験してきた共通の要素を取り出してきて、意識的に対象化してみることができると思うからです。それは使い方次第では非常におもしろいものですけど、セイゴオさんがおっしゃったように、白分を安全な場所に置いたところでやれるという、ただの真似事だけに終わってしまう可能性もあるわけです。

瞑想体験 #5 光の中に入りましょう

いよいよ#5。

#4では、瞑想中に見えてくる光について、その光をどんどんと大きくしましょうということでしたが、いかがだったでしょうか。瞑想中に、目の前いっぱいに広がる光に躊躇なさっている方はいるでしょうかね?私は非常に躊躇した覚えがあります。こわかったですね。

“クンダリニ”現象についての予備知識もありましたので、それもこわかったことの原因かもしれません。自分が自分でなくなるような予感もありました。

しかし、ある日。意を決して、光の中に入っていきました。

説明することはできないと思いますが、できるだけ説明したいと思います。

光が自分の前にあるときは、対象物と自分という関係ですね。それから、光の中にはいると、対象物はなくなります。自分が光のなかに入ってしまうわけで。360度、周りがすべて光。もしくは、すべてが自分です。そして、恍惚感。というより、歓喜もしくはエクスタシー。

法悦という言葉がありますが、それがこれなんだなと思いました。だとすれば、予想以上にエロスに近い悦びでありました。

僧は女性と交わってはいけないとされていましたが、それは無理難題なわけではないと納得できる気がします。セックスが男女の気を巡らせて、バランスを整えるという側面があるとすれば、法悦で代えることもありかなという気もするのです。

マスターベーションなどと違うのは、消耗感や依存性が全くないということです。瞑想をしたからといって瞑想に中毒するということもなければ、瞑想をしすぎたから、疲れたなどということもありません。薬物などとは全く違うところでもあります。もちろんですが、勃起とか射精などとは無縁の現象ですので、誤解なきよう。

重要なのは、自他を超えたところに意識をもっていくことができるということだと思います。とらわれや、欲などによるバイアスを排除できるところに、短時間とはいえ行ってこれるということ。これは大事なことだと思います。

ちなみにビートルズが1968年インドの導師マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーとインドの瞑想や思想に興味をもちはじめたのは、メンバー全員が薬物依存症から脱却するためだったというのを聞いたことがあります。本当だとしたら卓越したアイディアだと思いますが・・・。

ということで、説明はここまで。光が入っていけるまで大きくならない人は、大きくなるように。吐く息をていねいに。

瞑想体験 #4 瞑想中にあらわれてくる光について

般若心経はもう暗唱できましたでしょうか?

呼吸の仕方、座り方、瞑想の仕方にはいろいろありますが、あまり方法にはとらわれないで実践してみましょう。

吐く息を大事にして、般若心経をとなえることで心身を落ち着かせた状態を続けていると、視界の中に光が見えてきます。

座禅中は半眼(まぶたの半開き、完全に眼を閉じているのでなく、また眼を開いているのでもない状態)が良いとされていますが、私は特にこだわってはいません。閉じても閉じなくてもいいと思います。もちろん、半眼でもいいでしょう。

見えてきた光に注意を向けていると、その光はどんどん大きくなっていきます。漫画家の桑田二郎氏はこの光のことを「チャクラ」といっています。

この稿を書くにあたって、再度「般若心経への道」をチェックしたのですが、「チャクラ」の記述は思っていた以上に少ないのに驚いています。というのは、桑田二郎氏の「チャクラ」の記述で、私はこの光を開花させることができたからです。おそらく、「チャクラ」の記述が詳細に語られている他の著作を読んでいたのかもしれません。

「般若心経への道」で著者は呪を原音で発音することの大事さを語っていたのですが、第三巻で、その呪の意味についての解説をはじめます。167ページ、般若心経の呪、最後の部分「ボーディスヴァーハァー」の「スヴァーハァー」の元々の意味はインド神話の「火神アグニ」の異称であったという説明部分につづいての172ページから引用してみましょう・・・。

“チャクラ”は瞑想の行をつむとともにあらわれてくる。

チャクラとは、瞑想の時、閉じたまぶたのウラ、ひたいのあたりにあらわれてくる光のワだ。

それがはっきりとする時、たくさんの花べんを持つ、光のハスの花のような姿となる。

そのチャクラは、肉体の器官とは、また別の霊的次元の身体の機能で脊椎基底部から頭上部にむかって、七つあり 霊的次元の”いのち”の活力を肉体生命の次元へとつなぐそれぞれの働きをしている。

“いのち”の根元的な活力である”プラーナ“もこのチャクラの働きを通して”いのち”の内部へととり入れられるのだよ。

さらに瞑想がすすむと、「クンダリニー」という神秘的な現象があらわれてくる!

「クンダリニー」とは、大昔から、”とぐろを巻いた蛇”によって、象徴されているが、それを「火の蛇」とか「火のような力」とか「世の母」とか、いろいろに呼ばれている。

その感じというのは、瞑想中、突然、息も止まる不思議な圧力が全身にみなぎり、その強力な圧力が、不思議な快感をともなって、腰骨(こしぼね)の底辺から、背筋をラセン状に渦巻き上がり、首筋を通り抜け、頭がいの頂点に達し、そこで金色の光となって飛び散っていく!!その感じは、まるで金色にかがやく龍神が大地から湧き上り、自分の体内を通り抜け”空”なる次元へと渦巻き上がってゆくが如くだ。

以上ですが、途中からクンダリニーについても語られています。関係なくはないのでそのまま掲載しましたが、瞑想の行がすすむとあらわれる光、もしくは「チャクラ」について、とりあえずは意識していただければ良いと思います。

私の経験でいえば、ちょいと早歩きのウォーキングをしたり、6階ぐらいの階段を早歩きで駆け上ったときなどもこの類の光はあらわれることがあります。酸素、心肺への負荷、呼吸器官、脳内の変化、光を感知するのではないかとされている脳下垂体などの相互作用がこの光の原因なのではないかと思っています。関連して、マラソン時などに経験するといわれる”ランナーズハイ“もこの光があらわれるのではないかななどとも思っていますが、これは経験がないことと、もしくは経験しているかもしれないが意識していなかったことなのでなんともいえません。

ということで、今回は瞑想中にあらわれてくる光、もしくは「チャクラ」について述べてみました。この光があらわれてきたら意識して、大きくするようにしてください。息の使い方、姿勢などもこの光のおおきさに影響するかもしれません。いろいろトライして経験をつめば、次のステップへの足がかりとなってくれるでしょう。

瞑想体験 #3 体が響く音程でお経を唱えつつ、吐く息を細く長くしましょう。

ぴったりのmp3音声ファイルが見つかりましたでしょうか。

お経の出だしの部分で、音程が上下する箇所がありますが(はんにゃしんぎょう~とのばすところです)、ここで自分にぴったりの音を見つけているのです。

体は楽器のようなもので、体が響く音程があります。その音程を探して、体全体を響かせると、瞑想に入っていきやすくなります。

それから呼吸についてですが、最初のうちはあまり深く考えずに「吐く」ことを大事に思っていただければ結構です。長く吐き続けることです。吸うのは気にしないでください。長くながーく吐き続けて、もうこれ以上はダメだと思ったときからさらに吐いてください。吸うのは吐くことができなくなれば、何もしなくても吸います。時間も短く、時間がなくても吸ってしまいますから、なくてもかまいません。細く長く吐き続けることです。

つまり、息ををなるべく吸わないようにしてお経を唱え続ければ長く吐き続けることになります。

それから姿勢ですが、座禅を組むのがいいのですが、それもこだわらなくてかまいません。お経を唱えているあいだは座っていた方がやりやすいのですが、心身がいい具合になったら、息を長く吐き続けてお経を唱えずに静かに座り続けます。それで、疲れるようでしたら、横になってもかまいません。途中で寝ても、それはそれで結構です。

体が響くように、いい音程でお経を唱え、吐く息を長くし続ける呼吸に慣れつつ、呼吸を整え、静かに時を過ごすことに慣れていきましょう。

呼吸も、姿勢も理屈を言いだしたらキリがありません。まずは静かに時を過ごす習慣をつけましょう。般若心経の暗唱ができたら、次のステップです。

瞑想体験 #2 般若心経を暗唱しましょう。

桑田二郎さんのマンガエッセイ般若心経は何度も読み返した覚えがあります。そのうちに、お経を唱えるようになりました。カセットテープを購入して聴きながら覚えました。

般若心経とは、簡潔にいえば、瞑想呪(じゅ)の勧めのお経です。瞑想することにより、世界が色即是空であることを悟り、呪を唱えることで苦しみから解放されるのです。呪とはおまじない。お経の最後の部分がそうです。おまじないはそれ自体がありがたいものですから、訳さないで、サンスクリット(?オリジナルの言語)のまま唱えます。有名な「ぎゃてぃぎゃていはらぎゃていはらそうぎゃていぼじそわか」の部分です。

ですから、韻とかリズムとかも大事な要素なので、カセットテープで聞いて覚えたのです。いまなら、インターネットで簡単に聞くことができます。「般若心経 mpg」で音声ファイルが検索できますので、好みの音を聴いてみるとよろしいかと思います。

一応、リンクをここに貼っておきますので、参照下さい。

おまじないというと、馬鹿にされることが多いと思うのですが、多くの人がはるか昔から唱えられてきたということにはやはり価値があると思われます。

シェルドレイクの仮説形態形成場百匹目の猿などのキーワードを調べてもらえば、理解しやすいかと思います。興味のある方は是非リンクを辿ってみてください。

ある意味、瞑想とは意識を変えること、トランス状態になることです。韻を含んだり、リズムを取ることで、人は容易にトランス状態になります。トランスミュージックとか、ミニマルミュージックテクノなどの効能はよく知られたところでもあります。興味のある方は是非リンクを辿ってみてください。

また、お経を詠むことは、声帯を振るわせることになります。これは、脳に振動を与えることにもなり、さらにトランス状態になりやすくなります。般若心経の最後のおまじないの部分は、やけに濁音が続くと思いませんか?濁音で振動を大きく与えている意図も有るのではないかと思っています。

瞑想とおまじないの般若心経。まずは、暗唱できるようにしましょう。短いお経ですので、それほど難しくはありません。ついでに(といってはなんですが)、お経の意味を知るのもいいかもしれません。般若心経の解説本は沢山あります。どれもそれなりの意味があります。もちろん私は桑田二郎氏のマンガをお薦めしますが、それほどこだわってはいません。またインターネットで検索して解説を読んでいってもいいでしょう。

ということで、今回はこれまで、