アドビ イラストレーター(Adobe ILLUSTRATOR)で金剛頂経

いつかは使おうと思い、そのままパソコンに眠っていたアドビイラストレーターですが、いよいよ今回使ってしまいました。よかったよかったです。

きっかけは、前回ご紹介した、「ラモス久美子-お父さんのヨガ入門講座」。早速使おうと思い、イラストレーターを起動するも、全然わかりません。こういうこともあろうかと、ブックオフで購入していた中古教則本もながめてみても、・・・わかりません。昔はこうではなかった、やはり歳か・・・、と思いつつ、しかし使えない。でも、チラシはつくらなくちゃ。

ということで、使い慣れたマイクロソフトのPHOTODRAWでまずは作成。これはあっというまでした。で、作業をながめてみるとほとんどテクスト 、文字列操作です。それではと、教則本、これはX-MEDIA社のILLUSTRATOR CS MENU MASTER(タイトルは何で英語なんだと今、気がつきました)。関連項目は数ページです。さらさらと読んでなるほどと納得。それから、PHOTODRAWの内容をILLUSTRATORにコピー&ペースト。もちろん、不具合などありますので、その都度修正しつつ、関連項目を読書、もしくはググッてようやくチラシを作成。

実際、移植作業をしてみると、癖はあるもほとんど同じような感触でした。ですから、PHOTODRAWを脳内で置換するようにしてILLUSTRATORを操作できるという感覚が残りました。今回はこれで充分です。

ヨガチラシヨガチラシ裏面をクリックしていただければ、チラシがPDFファイルで見ることができますので、お試しください。

今回、よくわかったことは、これからの学習とか勉強は一から始めるということよりも、経験知を利用して行うようにしたら良いということです。今回はPHOTODRAWの経験を利用したわけですが、この経験がない場合は、もうすこし、深く潜在意識をただよえば、集合無意識部分に到達できるかもしれません。そこからILLUSTRATORの経験知を利用するということもあながち不可能な事ではないかもしれません。

ただいま、和訳 金剛頂経を読んでいるところです。これは二回目、一回目は何がなんだかわかりませんでしたが、いまはややわかりつつある。これはある種の「憑依」を意識的におこなうものなのです。たとえば、金剛菩薩をイメージし、そのイメージを自身に憑依させる。そうすれば、自分は金剛菩薩とおなじような力を発揮することができる。ま、ざっくりと説明するとそういうことです。ある種の危険性もありますので、取扱注意だな。安全なところでは、今回のように、illustratorをphotodraw経由で自身に憑依させるところぐらいでしょうか。

エンディングノート 映画、アイディアは買うも65点のでき。残念だ。

映画エンディングノート見ました。タイトルがダメですね。ダイイングノート、死者の帳面とかいいんじゃないのかな。スターティングノートでも可。エンディングノートはよくない方の部類だと思う。一体、何が終わるのか。

最後の息を引き取るシーンだが、全然元気です。まだまだ生けたなぁと思う。本当の臨終なんかあんなモンじゃない(本当の臨終でしたが)、余力を残しつつ去っていったという感じだな・・・、というか、勢いで、仕方なく死んでいったという感じがします。シーンでは5日後、スクリーンに夕焼けが映し出されて、ああ行ったんだと思いました。

長男が親父とにていて完璧主義者というか、業務遂行に勤しんだというか、臨終の確認を親父にしているのだが、それって、「もう死ぬんだよ」という宣告になっているのに気づかないのかなぁ、親父も「ああ、俺は死ぬんだと」と思ってしまっていますよ、画面上では。医者の先生も始め、家族、カメラマンや監督やらが既に「親父は死んでいる/-死につつある」モード全開では、五日目に親父はへたってしまうよなぁ。追い込まれるように、迷惑をかけないように気遣いながらさっさと死んでいったというかんじがします。五日もたっちゃなあ、という空気になってしまっていましたが、実際にはあれから1ヶ月ぐらい生きても全然普通です。

「親父は死んでいる/-死につつある」モードの下で、親父は配偶者(奥さん)に「愛してる」何て言うんだが、「愛してる」なんて言っちゃダメ。そもそも「愛してる」なんていう言葉は純粋の日本語じゃない、翻訳言葉ですから、心の入るものじゃない。似非戦後民主主義で、日本の男子は奥さんに「愛してる」といわないのはダメなんてことが喧伝されていたから、最後に言ってみたかったんだろうが、そんな日本語はニセモンです。愛してるなんて日本語はないんですよ。そんな使ったこともない「愛してる」を言ってしまったら、死んじゃうしかないでしょう、生き延びたら恥ずかしいと思うよ、しかもフィルム回っているし・・・。

家族を始めとして、周りがエンディングモードに突入しているから、どうにも逃れることもできずに去っていってしまいました。環境の力というのは強いから、なかなか打ち勝てないよね。芝居のモードは善し悪しなんです。お笑いの芝居で、なんとしても死ねないというストーリィをなぞれれば、それなりにいけちゃうんですがねぇ。そんな話なかったんですかねぇ。

担当の医者も経験不足でしたよね。途中で臓器が三倍ぐらいに肥大しているという説明の箇所がありましたが、ガン細胞が増殖してそうなったらしいのだが、それに対する医者のコメントは「不思議なのはそれなのに本人は元気なんですよねぇ」と宣っているだけです。そういうところは、もっとアクセントをつけて「奇跡ですよ」ぐらいは言ってあげて欲しいなぁ。「これは治るかも!?」ぐらい言えば、もう一年ぐらい長生きしたかもしれない。一年ぐらい長生きすれば、革新的な新薬が登場するかもしれないし、先の事は本当にわからないものですからね。3月10日に3月11日の津波なんか誰も信じないでしょうが、事実は小説よりも遙かに奇なりです。起こらないことが当たり前に起きるのが現実なんです。しかし、担当の医者は若くて、そういった奇跡らしいものに遭遇することもなかったから(実際はどんな人でも奇跡に類した事象には遭遇しているはずなのですが、ほとんどの人は分からない)、全然サプライズのない日常に場を置き続けたんですね。残念です。

親父さんの問わず語りで、ソニーのテープレコーダーが開発されたとき、テープの素材になる材料をつくっていたのが、親父さんの会社だけだった。てっきり注文が来るものとおもっていたら、土壇場で外国のメーカーに発注がいってしまったという思い出を語っていましたが、それがこの映画、エンディングノートの「キモ」なのかもしれない。

座して待ったとおりに物事は治まるものではないのだが、親父さんは、最後まで待ち続けてしまったのかもしれない。創り出したスケジュールは一人歩きを始めて、物事を収めてしまったのかもしれない。そんな、机上の予定やスケジュールをまじめにたてて、なおかつ、まっとうにこなすという事は、戦後民主主義の幻影の一つで、高度経済成長やバブル期までで吹っ飛んでしまっているのだが、そういう幻影に縛られ続けたのかも知れないなぁ。

そもそも、親父さんは「死ぬ」ということにどういうイメージを持っていったのか、わからなかったなあ。まだなかったのかもしれない。途中、「あの世はどんなところですか?」という問いが、親父さんに向けられるのですが、それの答えは「秘密」というものでした。毅然とした答え方ではなかったので、まだはっきりとしたものはなかったのだと思います。キューブラー・ロスは「最終的に自分が死に行くことを受け入れる段階」として死の受容のプロセス(否認→怒り→取引→抑うつ→受容)を表しているが、そのようなものはこの映画では見られなかった。実際には、スケジュール化で紛らわされていたのではないかと心配してしまうのだが、どうだろうか。

映画館入場の際に清月記製作の「エンディングノート」渡されました。そうか、高度経済成長やバブル期の戦士たちで、冠婚葬祭業に最後のバブルが始まろうとしているのかと気づきました。商業主義はなんでもビジネスにしてしまいますね。キリスト教の葬式にしたからって、お金がかからないわけではないようです。

地上最強の商人

地上最強の商人読みました。図書館で立ち読みしてたら面白そうなので借りたのです。アラビア商人の成功話で、途中まで面白く読んでいたのですが(筋もそれなりによかった)途中で、あれあれと思い始め、半ば過ぎには、いわゆる「成功のハウツー」本だと分かったときには、色あせてしまいました。

ごていねいに、途中からは日記みたいな作りになっており、毎日日記をつけると”必ず成功する”ような体裁になっていました。白けたかな。いわゆる、マーフィーとかナポレオン某の成功メソッド本だったんですね。

アマゾンにリンクを貼ろうと思って本の紹介を読んでびっくり、1万円以上の定価でした。ありがたいようなそうでないような不思議な気持ちになりました。でも、やはり高すぎですね。

著者「オグ・マンディーノ(OG MANDINO)氏は、成功本で有名で、世界20カ国で翻訳され総販売数は2500万部を超えると紹介されています。購入した人の内どのぐらいの人が成功したのでしょうか、興味深いものがあります。

このような成功本は、実は読めば読むほど成功が難しくなると解いた本もあります。超意識 あなたの願いを叶える力 (坂本 政道著)です。成功本を何冊か読んだ人にはお薦めです。求不得苦から救われるかもしれない。

近頃、本屋さんでスピリチュアルの棚を見ると、「引き寄せ」本がかなり見られます。願望を引き寄せて幸せになる方法とかの本ですが、このような願望成就系も、あまり読み過ぎると求不得苦に陥ってしまいがちです。

だいたい、成功てなんでしょう。失敗ってなんでしょう。成功することが幸せなのか、失敗して幸せとかはありえないのか、そこら辺もよく考えてもらいたいところですね。失敗するために生まれてきたという人がいるかもしれない。そうだとすると、その人にとって成功するのはノーサンキューということになります。

先ほど、近所の郵便局にいったら、臓器移植ドナー登録の申請書がおいてましたが、臓器を移植して長生きして幸せなのか不幸せなのか、まずその辺を考えることも必要かと思います。死んで生きるということもあるし、生きて死ぬということもあるのではないでしょうか。それを一律というか、絶対的に生=幸せと固定するととんでもないことになるような気がします。富=幸せと固定するのもそうではないでしょうか。

河合隼雄と中沢新一の対談で(タイトルは忘れた)、ユダヤ人がチベットに修行にいくのだが、チベット僧は彼ら(ユダヤ人)を評して、確かに頭は切れるのだが、わかっちゃいないんだよな・・・というくだりがあって印象的だったのですが、多分それはそうなんでしょう。ユダヤといえば、金融界では別格で、世界金融の覇者ではあるのですが、最近の金融情勢を鑑みると、わかっちゃいないんじゃないかと思い始めざるを得ません。

先ほど紹介した超意識 あなたの願いを叶える力には、東北帝国大学で哲学講師を勤めたドイツ刷学者オイゲン・ヘリゲル(1884-1955)の著書、「日本の弓術 (岩波文庫)」について語られています。西洋と東洋の差がある意味、わかりやすく描かれています。日本がわからないオイゲンが最後の最後に分からせられたという内容で、薄っぺらい本なのですが、とても面白く、はまってしまったことがあります。お薦めです。

坊主は新しいのが好きなんじゃない

坊主は、実は私のあこがれの職業です。いつか出家したいと思っています。坊主は常に最先端の新しいもの好きでいて欲しい。そう思っています。

最近流行のスマートフォンも実は興味津々。いつかオーナーになろうと思っています。ちょっとした不安もあります。スマートフォンとトヨタのハイブリッド車は、あまりにもありすぎ。街で石ころをぶつけるとどっちかには必ずあたると思います。そういった現象は、やはり異常で、レミングスではないですが、どっかの沼に大量廃棄になってしまうのではないでしょうか。アマゾンブックストアでは、ベストセラーの本やCDは中古で1円になっています。スマートフォンやハイブリッド車も一円になってしまうのではないでしょうか、近い将来。ちょっと楽しみではあるのですが・・・。

そんな私が日経新聞の記事にがっくりしました。スマートフォン嫌いの坊主のインタビュー記事です。以下にご紹介。

情報端末から距離を 人と「つながる」は錯覚 月読寺住職 小池龍之介氏
インタビュー領空侵犯 2010/12/20付
――スマートフォン人気に異論をお持ちだとか。
「デジタルツールを通じて人と人がつながるといわれますが、それは錯覚です。ネット空間の情報の海の中で誰もが共通して強い関心を抱くものがあります。それは『自分の所在』です。自分が人からどう扱われているか、大事にしたいと思われているか……。すごく気になるのです。皆から認められたいというのは、誰もが抱く気持ちですが、自分あてのメッセージが生存に役立つ情報だと錯覚されています」
――ツイッターやメールですぐに返事が来ないと、寂しくなりますね。
「ネットで何か発信すると10秒後に答えが返ってきたりします。すると、あ、相手をしてもらえた。つながっているんだな、と感じます。その瞬間は気持ちがいい。ここに大きなワナがあります。うれしいと感じる脳内の作用に“慣れ”が生じるからです」
「返事を早くもらえないと不安になり、不信感や怒りに襲われます。しかも次の反応が来ても前ほどは気持ちよくない。何か足りない感じがして、もっと速く、もっと多く、という循環に入り込みます」
――ネット疲れ、ネット中毒という言葉もあります。
「情報端末から得られるのは、主に記号情報です。会話する相手の顔や声はなく、文字やアイコンだけです。人間の脳は、記号からイメージをバーチャルに再構成する性質を持っています。言語は抽象度が高い伝達手段なので、受けとる側は情報を変形、加工しなければならない。いくらでも連想ゲームを発展させることもできます。その作業を行うとき、私たちの心はとても疲れるのです」
――ネットへの依存が高まると、どうなりますか。
「バーチャルな情報処理量が増え、心の負荷が高まり、心が現実からどんどん離れてしまいます。それでも、ちっぽけな快感を得ていないと安心できなくなり、絶えず情報端末にアクセスするようになる。一瞬の快楽をもたらす脳内物質のドーパミンは、生物の生存に役立っていますが、野放しにすると暴走します」
――とはいえ情報ツールは買い物などに便利です。
「ネット空間で本当に売られているものは何だと思いますか? 実は『自分』が商品になっているのです。誰かに見てもらえる。誰かとつながることが商品になっている。つながりが欲しいということは、裏を返せば、みんな寂しいということです。寂しさが商売のネタになっているといえるでしょう。情報ツールと距離を置かないと、人は現実の身体感覚を忘れ、言語だけであれこれ考える“脳内生活”になってしまいます」
<聞き手から>
思い当たるふしがある方は多いのではないか。メールやネットの掲示板は気にし始めると気になって仕方がない。小池氏の著書や座禅道場の人気の裏側には、自分の心の在りかを見失ったネット空間の迷子が大勢いるに違いない。高機能の情報端末に人間が振り回されるのでは困る。寂しがっている場合ではない。(編集委員 太田泰彦)
こいけ・りゅうのすけ 1978年生まれ。山口県出身。東大教養学部卒。東京・世田谷の月読寺の住職。瞑想(めいそう)の修行を続ける一方、一般向けに座禅の指導をしている。著書『考えない練習』などが反響を呼んだ

小池龍之介氏は当ブログで取り上げたこともあります。期待していたのですが、残念です。インタビューではもっともらしいことをいっていますが、全然おもしろくないです。

ネット空間に限らず本当に売られているものは自分を含めて空しいものばかりではないですか。バーチャルといえば、いわゆるリアルそのものもバーチャルなわけで、ネット空間がバーチャルだとかリアルではないなどとはいえないわけです。色即是空、空即是色とはそういうことでしょう。

「情報ツールと距離を置かないと、人は現実の身体感覚を忘れ、言語だけであれこれ考える“脳内生活”になってしまいます」というのもおもしろくない。むしろ、情報ツールと距離をおかないで、現実の身体感覚にしてしまえば、言語を超えた身体知をも拡大することができるのではないかなどと想像力を羽ばたかせて欲しいな。

実際に、聴覚とか視覚とかがなくなった人でも電子機器を脳が感知できる生物信号に変換して直接脳につなげている時代です。立花隆がNHKの番組で紹介していたことがありますが、最先端科学はすごいです。当初は電子機器の精度が粗く、とても実用には耐えられないといわれていたのですが、実際に脳に接続してみると、脳が変化(進化)して十分に実用になっていった。そのうちに電子機器も進化して精緻になり、脳の進化との相乗効果が飛躍的なものになってしまったということです。

生まれつき耳の聞こえない人、目の見えない人でも、若い年代であれば、電子機器でも脳に馴染んでしまうと言うことです。

シリコンのコンピューターも、バイオコンピューターに変わっていくでしょうし、人間と電子機器の融合もさらにすすんでいくと思われます。そういった時代に、「情報ツールと距離を置かないと、人は現実の身体感覚を忘れ、言語だけであれこれ考える“脳内生活”になってしまいます」なんてことはまったくおもしろくない意見です。

それから「 実は『自分』が商品になっているのです。」なんて、使う場所がちがっています。資本主義が生起した時点で、すべて、ありとあらゆるもの友情も、恋も、時間も、森羅万象を貨幣価値に換算してしまうというのが、資本主義に内包された矛盾だったわけです。人間疎外とは、その矛盾をある意味言い換えたものなのです。卑近な例では、三高、つまり高身長、高学歴、高収入なんかがまさに貨幣換算です。身長も、学歴も収入も貨幣換算してしまうから、一律に意味を持つことができるわけです。身長が高い方が幸せ、学歴も高い方が幸せ、京都大学よりも東京大学の方が幸せ。年収1000万円より、年収一億円の方が幸せ。

実際、「幸せ」なんて、誰にもわからないことでしょう。それがいとも簡単に貨幣換算してしまうい、比較して判断できてしまう。簡単といえば簡単だが、それはあくまでもバーチャルで、リアルではないわけです。実際に、身長が高くても幸せであるはずがない、学歴も収入も、どこまでいっても満足できずに、むしろ不幸に不幸になってしまう。

そういったことを、ねじ曲げるようにネットとか電子端末のせいにするのは、間違いです。特に、坊主がマスコミで喧伝したら罪ですね。多くの人々を迷妄の世界に誘導してしまうことになる。

「一瞬の快楽をもたらす脳内物質のドーパミンは、生物の生存に役立っていますが、野放しにすると暴走します」などというのももっともらしい迷妄の所作です。パチンコで何万円もすった方が情報端末より、麻薬効果があるでしょうし、キャパクラで馬鹿騒ぎするほうがドーパミンは出るでしょう。そもそも、現代の資本主義社会で、いらないものも消費させるためには、ドーパミンは必要不可欠なもので、世に氾濫する3s(スピード、セックス、スリル)こそ、資本主義のアフターバーナーですよ。オートショーとか、レースには、水木姿の美人やレースクイーンがなぜいるのか、そういったことでしょう。それを、言うに事欠いて「情報端末にドーパミン」はないでしょう。

ここまで読んでくれた方には、もう一度引用したインタビュー記事を読んでください。いかに、意味のない記事であるかが実際に認識できると思います。

結論ですが、坊主もスマートフォンも悪いわけではありません。はさみとなんとかは使いようです。

いつかは、スマートフォンを持って出家してみたいなあ。

広島、長崎、原爆、そして終戦

8月は、日本人にとって、平和を考える月である。広島原爆の日が8月7日、長崎原爆忌の日が9日、そして終戦記念日が15日。

戦争や核爆弾のない世界を、夢ではなく現実にすることができるのかは、大きなテーマだが、今日は、過去に、現実に行われた平和活動(失われた文明―一万二千年前の世界 (講談社現代新書 274) 165-168ページ)を紹介しよう。

アショカ王の秘密結社-九未知会

インドを統一したチャンドラグプタの孫であったアショカは、白分の偉大
な祖父の名をけがさないような人間になりたいと考えた。統治者にとっては、戦争こそ、白分の名前を永遠に残す最も確実な手段だった。彼は軍隊を率いて、隣りのカリンガ王国に向った。カリンガの住民たちは、必死になって抵抗した。ある戦闘では、アショカの兵士たちは敵兵を七千人以上も殺した。戦闘が終わったばかりの戦場にアショカはやってぎた。彼は死体が一杯横たわっている光景をながめて、強いショックを受けた。
それ以来アショカは、残された生涯のすべてを科学の振興、仏教の普及、建設活動に捧げた。戦争の悲惨さが彼に強い印象を残し、人間の頭脳と知識が人間の殺し合いに向けられることの絶対にないよう全力をつくす決心をしたと伝えられている。そのためにアショカは、これまでに存在した秘密結社の中でも最大といわれる結社、九未知会をつくった。
この結社の目的は、人殺しの手段についての知識が人々の手に入るのを防止することにあった。この結社は、今日でも存在し続けているという意見がある。たとえば、カルカッタ駐在のフランス第二帝国領事で、インドについての名著をたくさん書いているジャコリオである。インドが植民地だった時代に駐在していた意義ら崇神していたイギリス人=高官もまたこのような意見を述ぺている。

この秘密結社が二千年を経た今日でも、なお存続していると断言するためには、まだ十分な資料をわたしたちはもっていない。とはいえ、このような目的をもった結社がかつてつくられたということそれ自体が、非常に大きな意義をもっているのである。

アショカは、知識が破壊のために使われないようにするため、高度の知識は、秘密にしておこうとした。しかし、このように行動したのは、アショカが唯一の人間ではなかった。先見の明あるすぐれた統治者や政治家はこのように行動している。今日の言葉を使うなら、「大衆殺戮の兵器」と称すべきものは、過去において、使用が禁止されていたのである。

しりぞけられた「人殺し兵器」

一七七五年、フランスの発明家、デュー・ペロンが国王に謁見を申し出た。彼の言葉によれば、フランス国家の将来はこの会見にかかっていた。デュー・ペロンは、自分が発明したものを国王に直接打明けようと思った。ルイ十六世は、デュー・ペロンとの引見に同意した。デュー・ペロンの助手たちは、入念に包装した大きな箱を宮廷の庭園にもちこんだ。それから退場していった。デュー・ペロンは、どんなに強い敵でもいとも容易にたおせるような武器を、発明したのだった。この武器が採り入れられたら、フランスは国王の好きなように、領土の拡張ができるであろうと述べた。彼が示した武器は、今日の機関銃の元祖ともいうべきものであった。それは一度に二十四発も弾丸を発射することができた。

だが、デュー・ペロンは、国王から称讃の言葉を受けることができなかった。国王はぺロンの言葉を冷たくさえぎって、引き退がるように命令した。ルイ十六世と彼の大臣たちは、デュー・ペロンの発明を「入殺しの野蛮な兵器」としてしりぞけたのであった。デュー・ペロンは、ひどい悪者、人類の敵と宣告された。フランス国王はデュー・ベロンが発明した武器が、どこか他の国王の手に入るのを心配して、これを防止する手段をとっている。

これ以前の時代は、弓と矢が最も恐ろしい殺人兵器と考えられていた。ローマ法王はこれの使用を制限しようとして、特別勅書を出している。それはばね仕掛けの大弓の照準を、より正確に定めるための三脚台その他の台を使用禁止にしたのである。「このようなやり方は弓の射手の品性をひくめ、たたかいを非人間的なをのにする」と勅書のなかではいわれていた。この禁止命令は、その後二世紀間守られた。アフリカのペチュアナランド(ボツァナ)の国王の一人、シャムバ・ボロンゴンゴが戦闘に投槍を使うのを楚止しているのも、右と同じような入道的配慮からである。