プラハのシュタイナー学校 増田幸弘 

プラハのシュタイナー学校を読みました。非常におもしろかったですね。

あっという間に読破、これは本に力があるということです。著者に筆の力があるのはもちろん、中身もおもしろい。

シュタイナー学校というのには興味がありましたが、なんとも評価はできませんでした。シュタイナーそのものが難しい。シュタイナー学校関連の書籍も何冊か手に取り読もうとしたときもありましたが、なんともおもしろくない。まじめな本にはおもしろくない本が多いのはなぜでしょう。先日感想を書いた治りませんように べてるの家のいま 斉藤道雄のように、なんとも評価が難しい。

シュタイナー学校に興味のある人は是非読んだ方がいいと思います。

家族が崩壊しかかったのが、チェコのシュタイナー学校に子供をふたり預けた理由だというのを読んで、家庭崩壊の原因が知りたかったのですが、なんと学校の先生を信じられなくなったんですね。著者は、教育というものに問題意識があったため、その原因がわかったのですが、そうでない普通の親はそれには気づかないまま、自分の子供たちを信じられなくなっていたのではないでしょうか。

現在の先生は、ほとんど世襲化しております。出身学校閥と世襲化で、教育の現場はゆがみまくっているのではないでしょうか。

私が学生の時、教養学部で教育学部の方と同じ講義をうける機会が多々ありましたが、そのころ、昭和40年代ですが、圧倒的に女性の数が多かったです。男性学生は、講義を受けるときには少数で、しかも後ろの席で、影が薄かったな。私も教育学部に入ったら去勢されたようになったかもしれないと思っていました。教育学部の男子学生をみてて、「こいつらまともに教えることできるのかな?」などと心配していました、実は。

だいぶ本筋からは離れた話になってしまいましたね、今回は。ご勘弁下さい。

治りませんように べてるの家のいま 斉藤道雄

治りませんように――べてるの家のいま読みました。感想はなかなか書けないですね。難しい。

北海道つながりで、たとえば北の国から。全般に重い。テーマも語りも眉間にしわを寄せたようなつくりです。正座してみるドラマとでもいいましょうか。茶化したりすると、睨み付けられたりしてね。だから私は見ていないです。家族が見てるのを、横目で見る程度です。途中で耐えられなくて、まともに見たことはありません。好き嫌いとかはないです。世の中には色々な人がいて、それぞれが自分の好きな人生を歩んでいる。好きで不幸な人生を選んで歩むひともいるのです。

この本の冒頭に幸せにならない道を選んだ人の話が置いてあります。

かつて、ハンガリー東部のユダヤ人村に暮らしていた六人の裕福な家族は、少年ひとりを残し全員が煙突の煙と消えていった。一九四五年、解放されたとき十五歳になっていた少年は、自分だけが消えた家族の証であり、自分だけが家族の過酷な運命を記憶すべく、この世に残された存在だったことを知る。
立ちのぼる煙の記憶のもとで、少年はひとりつぶやくのだった。
「お父さん、お母さん、みんな、心配しないでください」
煙になった家族に、そして生き残った自分に、少年は語りかけている。
「ぼくは幸福になったりしませんから。けっしてしあわせになることはありませんから」
ホロコーストを生きのびた少年は、自分だけは幸福になる、とはいわなかった。しあわせにならないといったのである。そうすることで、失われたものの記憶を自らの生につなぎとめたのだった。
しあわせにならない。
あなた方を忘れないために。あなた方の死を生きるために。そしてあなた方に対して開かれているために。
この思いが、やがて時を超え、ふたつの大陸を超えてゆく。
そして、もうひとりの若者のこごろにこだまする。
アウシュヴィッツもホロコーストも戦争も知らないもうひとりの若者は、「しあわせにならない」生き方を自らの生き方とし、過疎の町に根をおろすのであった。そこで時代を超え、状況を超えてあらわれる人間の苦悩をみつめながら、苦悩の先に、もうひとつの世界を見いだそうとしたのである。
この冒頭は好きになれません。好きになる人も沢山いるとは理解できますが。小説だったら、冒頭を読んで本棚に戻すところですが、幸いなことにこれはドキュメンタリですから、読み終えることができました。感情移入できない部分がかなりあったので、なんともいえませんが、気がついたことを書いてみましょう。

幻聴に”さん”をつけてよぶ習わしは、幻聴をていねいに扱い、できることなら仲よくしたいという思惑のもとに、べてるの家のメンバーが編みだした対処法だ。それがじつに効果的な場合があることから、浦河ではだれもが幻聴を幻聴さんとよぶようになった。幻聴をこんなふうによぶのは日本はおろか、世界でも例がない。

統合失調症の患者の六、七割にあらわれるという幻聴は、とても一筋縄ではいかないやっかいな相手だ。頭のなかに、現実にはありえない人の声や音が聞こえ、しかも多くは「死ね」とか「バカ」といった否定的なことばで人を傷つけ混乱させる。朝から晩まで一年三百六十五日こんなことをいわれていたら、ほんとうに頭がおかしくなってしまう。なかには幻聴の命令に従い、実際に二階の窓から飛び降りて骨折したり、他人のものを盗んだり壊したりすることもあるから、軽くみるわけにもいかない。

精神医学の世界ではこれまで、幻聴はまともに語るべき対象とはされてこなかった。とにかく忌むべきもの、なくすべきものであり、それを消すために患者には強い薬が大量に処方されるのが一般的だった。ところがそうすると患者はしばしば考えることも、ついには動くことすらもできなくなってしまう。そんな無理はやめて、幻聴がどうせなくならないのなら、いっそ仲よく暮らすことはできないかと考えたのがべてる流だった。

そして九〇年代、「死ねバカ」系の幻聴に、「幻聴さん、きょうはどうかおとなしくしてください」とていねいに対応したところ、「そうか、それじゃあ」と、おとなしくなる幻聴の例が次々に報告されたのである。これが、「幻聴さんも成長する」という、浦河の偉大な発見として広く世に伝えられることになった。もちろん、それで幻聴がなくなるわけではなく、せいぜいがおとなしくなる程度で、しかもそれがどのメンバーにも起こるわけではないのだが、それでもこれは当事者にとって瞠目すべき対処法だった。以来、べてるの家では幻聴に”さん”をつけ、死ねバカ系の原始的な幻聴にはていねいに対応し、洗練された幻聴に成長するよう育てていこうというメンバーのくふうが重ねられている。

もうひとつ、浦河弁で有名なのが”お客”さんだ。

お客さんというのは、頭のなかに浮かぶネガティブな思考全股のことである。たとえばミーティングに出ようとしたとき、「仲間はみんな、白分のことをきらっているのではないか」というネガティブな思いが頭に浮かび、尻ごみするようだったら、それは”お客さんがきた”、あるいは”お客さんが入った”という。きらわれているだけではなく、自分はダメな人間だ、他人が自分の悪口をいっているのではないかという疑念、なんでもない仲間のひとことが自分を非難しているのではないかという思いこみもまた”お客さん”である。幻聴と似ているが、幻聴が音やことばであるのに対し、お客さんは想念であるところがちがう。そしてまたこれがじつに便利な用語で、浦河の日常生活ではあいさつのように多用されている。

お客さんがなぜ便利なことばかというと、メンバーはそれで白分のいまの心理状態をリアルタイムで周囲に伝えることができるからだ。「いまお客さんだらけになってます」、「その話されると、お客さんくるんだよね」といいながら、白分のこころのなかを開示し、ほとんど裸の白分を伝えていく。それはべてるの家ではきわめて重要な作業で、そうすることで日常生活のなかで、またミーティングに出たとき、メンバーは人間関係の苦労や危うさを、これまでよりはるかに綿密に伝えることができるようになる。
幻聴にさんをつけて、幻聴さん。これは昔から言われている、憑依とか狐付き、神懸かりなどということにつながるのではないだろうかと思いますね。「幻聴をこんなふうによぶのは日本はおろか、世界でも例がない。」とのことですが、むしろ、昔はそんな風にいうのは当たり前だったのではないでしょうか。次の「お客さん」もそうです。水木しげるは、妖怪をそういった風に捉えているようです。絵にしていますが、実は目に見えるものではなく、感じ取る雰囲気のようなものだと言っています。表現方法の違いで、実は昔からそのように擬人化した言い方は、病理とか病気を捉えるには便利だったのではないでしょうか。
統合失調症とか、分裂症とか、病名がやたらとわかりにくくなっているからなのかもしれませんが、神懸かりとか、狐付き、神憑りとかではだめなのでしょうか。

精神病が消えていく―続・精神病は病気ではないでは、精神病は死者の霊が子供に働きかける現象だといっています。

こうした現象の発生は、早くて中学生、最も多いのが高校生・大学生といった年齢の頃で、どういうわけか幼児なのにこうした症状を示すということはまずほとんどありません。不思議なもので、両親がまだ若くて給料も稼ぎも少なく生活に困窮しているような時には、子供さんに何ごとも起きませんが、ところが両親が一人前以上に成功して経済的にも恵まれて来ますと、まるでそのタイミングを待っていたかのように、大事な息子や娘に異変が起きます。ミドル・ティーン前後というのがちょうどそんな時期なのでしょう。(p15)

ご子息や娘さんの精神病をきっかけとして、私の寺で目の開かれるような体験をなさり、ようやくご先祖のお一人お一人を心からしのぶという、そういう暮らしを開始することになった幾組ものご家族が、毎日毎日、私の寺において次々に「供養」をしていらっしゃいます。

私の寺で「供養」と簡単な名をつけておりますこの行事は、私の話を聞いたり「霊視」という不思議な体験をしたりした後に行き着く最も大切なものです。この「供養」をするために「霊視」もするのですし、また、いろいろお話を申し上げたりするのもみんなこの供養に早く到違していただきたいからやっていることなのです。つまリ,供養こそが私の寺の主眼でもあり目的でもあるわけで、ご縁のできたすべての方々にどうしてもしていただきたいし、していただかなくてはなりません。

と申しますのは、私のこの「供養」によって、浮かばれていない死者が自分の死を納得して確実に成佛して下さるからです。死者は子孫の肉体から意識を離し、白らの帰るべき所、すなわち浄土へと帰って行きます。

そして、二度と戻って来ません。

一方、憑依を解かれた肉体は、もとのその肉体の持ち主の魂だけで再び満たされ、精神病は確実に治癒に向かいます。

もっとも、治るといっても奇術のように一瞬にケロリと元通りになったりはしません。それほど死者の意識がしていることは生易しいものではないのです。

精神病の難しさの第一は、憑依している死者が決して単数ではないということにあります。大変な数です。つまり、一人や二人などというシンプルな憑依とは憑依が違います。従って、供養も一人や二人の死者の供養で簡単に済むことは絶対にありません。

このことについては後の章で詳しくお話できると思いますが、どんなに大変なことであっても、供養しないかぎり解決はありません。が、供養して行くしかこの世の人間にできることはありません。供養を重ねて行けば必ず結果をいただけるのです。(p20-21)

憑依とか神憑りという言葉を使えるようになれば、当然「供養」という方法もでてくるでしょう。要は表現方法だと思いますね。統合失調症ではなかなか「供養」には行けません。病名を腑に落ちる名前にすれば、腑に落ちる解決法が見つかるかもしれないと思います。

神経言語プログラミング―頭脳(あたま)をつかえば自分も変わるには次のような箇所があります。

心の中の声

これまで心理学の分野では、人間の行動を理解すぺくさまざまなモデルが考えられてきました。イドとかエゴ、あるいは、人格を形成する「親」、「子供」、「大人」といったものがそうですが、どうもうまくいかないようです。

人格を「親」、「子供」、「大人」に分けて解析しようとする試みは交流分析とよばれています。それによると各部分は互いに独立しており、互いに没交渉だということです。たとえば、私の中の「親」の部分はあなたの「親」としか話ができないわげです。どうもしっくりこないような気がします。少し見方を変えてみることにしましょう。

心の中に「厳しい親」の声が聞こえてあなたをしかりつけ、無理に何かをさせようとしているという経験をおもちの方はいませんか。こう聞かれると、だれでもそのような気になってくるのではありませんか。これに対する対策のひとつは、声の批判をすべて受け入れてしまうことです。最後には声の方が音を上げてしまいます。もうひとつの対策は、声の場所を変えてしまうことです。たとえば、声が足の裏から聞こえてくるようにすれば、印象はずい分変わってきます。

しかし、その内容はあなたの気にいらなくても、声が正しいことを言っている場合もあることを心に留めておかなくてはいけません。声を聞いて不愉快になるだけではなく、その内容に耳を傾けた方がよいかもしれません。このような批判的な声に悩まされている方がおられたら、その対策をお教えしましょう。

男「私はいつもそのような声に悩まされています。今もこうして発言していることに文句をつけています。」

私「それは結構。では、まずあなたに何をさせたいかを声にたずねてみてください。」

男「私に成功してもらいたいと言っています。よげいなことはするなと文句を言っています。」

私「その意見には、賛成ですね。あなたも成功したいと望んでいるのでしょう。」

男「もちろんです。」

私「では、あなたにとって役に立つような情報を声がもっているかどうか聞いてみてくてください。」

男「当然だと言っています。」

私「役に立つ憤報をもっているのであれば、より闇きやすく、より理解しやすいように、語りかける調子を変えてみるつもりはないかたずねてください。」

男「意図をはかりかねているようですが、やってみようと言っています。」

私「大変結構です。さて、あなたの方では、声に耳を傾けやすくするにはどうしたらよいかを考えてください。やさしい口調の方がよいですか。あなたの過去の行勤に対する文句よりは、これからやることについての細かいアドバイスの方がよくはありませんか。そのようなことを考えて、声に頼んでみてください。」

男「これは驚きました。声はもはや小言親爺ではありません。友好的な援軍です。耳を傾けるのが楽しいほどです。」

やさしい口調で

当然のことです。どなり散らし、文句をつける声にだれが耳をかしましょうか。子供をおもちの方は、お子さんに言うことを聞かせたい時にこのテクニックを使うとよいでしょう。

やさしく語りかけれは、子供は聞いてくれるものです。言っている内容にうなずくかどうかは別として、少なくとも耳は傾けるごとでしょう。この方法は、またいろいろな場面での話し合いにも非常に有効です。先ほどの例で言えば、声はその及ぼす影響について配慮が足りませんでした。目標は、本入を成功させることであったにもかかわらず、実際には彼を不愉快にしていただけだったのです。

神経言語プラグラミングはプラグマテックな精神医療とでもいえるでしょうか。なかなか楽しそうな語り口です。

さて、本のタイトル「治りませんように」は深い意味が含まれていて、それを誤解のないように伝えるには、この本一冊が必要だったのではないかと思います。この本の最終章は「しあわせにならない」。冒頭に紹介したハンガリー東部のユダヤ人の話と関係づけられています。それも深い意味があると思います。

「治りませんように」「しあわせにならない」人をみるのはしかし、苦痛だな。ドラマだったら、途中で席を立ってしまいますね間違いなく。ドラマははっぴいでなくちゃ。脚本家はリアリティのあるエンディングで幸せをつくらなければならないと思っています。深刻なのはノーサンキューです。

岡本敏子 奇跡 途中で挫折

瀬戸内寂聴・横尾忠則(画)「奇縁まんだら」(日本経済新聞社、毎週日曜に連載中)を楽しみに読んでいますが、数週間前に岡本太郎の奥さん岡本敏子の小説「奇跡」について、エロ小説だったのでびっくりしたとの感想が述べられていました。

早速、読みはじめたのですが、途中で挫折。理由は、単純に言えば、おもしろくなかったからでしょう。全然ページがすすまない。では、なぜおもしろくなかったのか・・・。

ふと本棚にあった書籍に目がとまり、ぱらばらとページをめくったら腑に落ちる箇所をみつけました。おそらく、理由はそれでしょう。官能小説の奥義 (集英社新書)の最終章の第五章「官能小説の書き方十箇条」の第一条(p196)。

第一条官能小説は性欲をかきたてるだけのものではない

誤解されているようだが、官能小説は性欲をかきたて、読者にオナニーさせるためだけにあるのではない。そういう要素も当然あるが、もっと深い、入間が持っている淫心を鼓舞するのが目的である。

性欲はオナニーで消えてしまうが、淫心は人間が根源的に抱えているものであり、オナニーでは消えない。性欲の奥に流れているものである。
単なる勃起が目的ならば、アダルトピデオを見ればよい。官能小説は、文章によって読者の感性を刺激するものであり、イマジネーソヨンを喚起させる力がなければならない。人はそれぞれ感性が違うから、同じ小説を読んでも、読者によって喚起されるイマジネーションは異なる。そごが官能小説の画白いところである。

性体験が豊富なら誰でも書ける、と思われがちだが、そんな生易しいものではない。

私のところへ、いろんな原稿が送られてくるが、初心者の書いたものは、自慢話や自己満足が多い。読者のことをまったく考えていないのだ。
性描写もふくめ、全編自慢話や自己満足だらけなので、途中で「勝手にしてちょうだい」という風になってしまうんだな。
岡本太郎ファンだったらおもしろいところもあるのでしょうが、もともとあまり関心のなかった人で、この小説を読んだら、ますます関心がなくなってしまいましたね。
といことで、先ほどの官能小説の奥義 (集英社新書)の最終章の第五章「官能小説の書き方十箇条」10箇条を並べると以下の通り、
  1. 官能小説は性欲をかきたてるだけのものではない
  2. 好きな作家を見つけよ
  3. まず短編を書いてみる
  4. 官能シーンを早く出せ
  5. 自分がしたくてもできないことを書く
  6. 三人以上の人物を登場させよ
  7. 恥ずかしいと思うな
  8. オノマトペをうまく使う
  9. 性の優しさ、哀しさ、切なさをしっておく
  10. 書いている途中でオナニーするな

なかなか、おもしろそうな条項が並ぶが、本書の最後を飾る、第十条から結びの言葉まで紹介してみよう。

第十条書いている途中でオナニーするな

白分で書いていることに興奮して勃起してしまうことがある.プロの作家でもあるそうだ。自分が勃起しないような小説で、読者を勃起させることはできないのだ。

しかし、そごでオナニーしてはいけない。パワーが落ちて、書き進める気がなくなってしまう。引きずられないよう、抑える精神力が必要で珍る。自爆してしまっては淫心をふくらませることができないのだ。

女性が書く場合も同じである。自分が濡れるような作品を書かなければ、読者を満足させることはでぎないが、執筆中のオナニーは厳禁。これは非常に大切なことである。

以上の十か条を実行できれぱ、あなたは官能小説作家になれる。スポーツ選手が、練習を繰り返すことで強くなっていくように、文章も練習の積み重ねで上手になっていく。誰もがイチローや松井秀喜になれるわけではないが、猛練習によって、甲子園に出場するくらいは可能である。諦めないで、持続ずる力を持とう。

最後はなぜか勇気づけられたな。

ついつい、つっこみ入れてみました

ネットを巡回していたら、おもしろいサイトに出会いました。

http://naglly.com/archives/2010/02/dd1.php

これは、イニシャルDのパロディについての話なのですが、やたらとおもしろい。コメントもおもしろがって読んでいたら、ちょっと混乱しまして、つっこみ入れてしまいました。

このサイト、見つけたのはこの記事-ストリートビュー撮影車がストリートビュー撮影車に出会う瞬間から-です。

http://naglly.com/archives/2010/08/post-580.php

他の記事もみなおもしろいですね。

ありがとうございます。これからも楽しみにしていますよ。

エマヌエル・スヴェーデンボリEmanuel Swedenborg

エマヌエル・スヴェーデンボリ(Emanuel Swedenborg)スウェーデンボルグスヱデンボルグとも訳されています。

スウェーデンボルグは、霊界を語る上で欠かせない人なのですが、アマゾンで購入できる書籍を調べると、紹介記事や抄訳がほとんどでオリジナルの著作は意外なほど少ないですね。

『夢日記』以降のスウェーデンボルグの著作と主な手紙を見てみると、著書のほとんどがなかなか難解であることがわかります。タイトルから、読みやすいそうで触手がうごきそうなのが、「夢日記」と「霊界日記」というところでしょうか。インターネットで公開されているのを見つけましたので以下にご紹介します。もちろん無料です。

http://aoi-press.com/Library/Diary/Diary-fr.html

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994067

「霊界日記」は訳者がなんと鈴木大拙氏ということです。