カックン超特急1959年/日本/新東宝/モノクロ/65分/ 監督:近江俊郎 出演:由利徹、南利明、池内淳子、大空真弓、高島忠夫

前の、「GPSロガー・・・」の投稿で、トレースした終着点、メディアテークで鑑賞したのがこれです。500円。なんで、こんな古いのが・・・と思ったのですが、この日は敬老の日でした。それで年寄受けを狙ってのお題となったのでしょう。内容は、実に古くて、とてもとても現代には通用しない代物だと思っていたのですが・・・・鑑賞中にそれがそうでもないことに気づきました。あまりに面白くないので、周りの観客の様子をみていたのですが、結構受けているのです。つまらないギャグで笑っている人がたくさんいるというのも、それはそれで新鮮な、というよりはショックなできごとでしたね。

ギャグとかに対する感性は、時代によって人に埋め込まれるものでもあるという視点も必要なのだと再認識させられました。三つ子の魂百までということで、子供のころを含めて若い時代に育んだ感性は、そのまま死ぬまで続くということでしょう。

映画はつまらなかったけれども、そういったことを体感できたのは、貴重な経験でした。

ジョルダーニ家の人々を観ました。6時間39分の映画鑑賞でした。

ちょっと前になりますが、2012/9/10に鑑賞しました。11時からはじまって終了が午後6時ですから、まる一日ということになります。感覚でいうと、昔々、映画館がまだたくさんあった頃、三本立てなんてことがよくありましたが、あれですね。料金が3000円は高いか安いかは議論がわかれるところでしょうが、映画館からみれば、採算割れの可能性大ではないでしょうか。観客は、自分を含めて11人。男女比はほほ同数。観客同士が声をかけあうということはありませんでしたが、見終わった後には、同じ船のクルー仲間という気が、若干芽生えたような気がします。

で、内容のほうはというと、さほどでもないというのが正直なところです。そうですね、質の良い連続テレビドラマを一挙に映画館で鑑賞したというところでしょうか。ストーリィは、長丁場を持ち切るだけの力強さがありました。何本かの話が交差するのですが、いずれも、おそらく、現代のイタリアで問題になっているものなのでしょう。不倫、不法移民、同性愛、病、国際紛争が、家族をテーマに料理されているわけです。出来としては、「オレンジデイズ」にはかなわないが、昨日終了した「リッチマン、プアウーマン」よりははるかにましというところです。

個人的には、登場人物の心理学者の長女ノラが、旦那に「わたしはあなたをもう愛していないわ」。というところがよかったですね。相手の旦那が、驚いて、嘆き、一種の決めゼリフ/場面になるのですが、それをみていた私がびっくりしました。「そんなの当たり前じゃん!」という言葉をおもわず飲み込んでしまいました。こと男女間の話は、やや感覚が微妙にずれているような気がします。

とはいえ、暗いテーマもあったのですが、イタリアならではの軽妙なタッチが救ってもくれていて、よい話に出来上がっています。脚本家はとても良いと思います。

ウタヒメ 彼女たちのスモーク・オン・ザ・ウォーター みました。ひどいね。

キャストがよいので鑑賞したのですが、観客が私を含めてたった4人。メンズディとはいえ、すべて男性。観客は正しいから観る前に諦めたけど、それ以上に酷かったです。感想を書く気にもならないので、yahoo!ムービーのレヴューを見たらありましたね、同じ感想の方が。日本の観客は全く正しいと思います。

監督、脚本が悪いのでしょう。原作(五十嵐貴久)は読んでませんが、漫画化や舞台化もされているので、そこそこの水準は行っているんじゃないかと思いますが、定かではありません。

四人のヒロインたちの中では、黒木瞳の心情がリアリティがあったかな。とはいえ、ほかの三人に比べての話で、とりたてて良いわけではありません。監督が1949年生まれの女性脚本が1958年生まれの女性だから、そうなんでしょう。撮影場所も、カラオケ、コンビニショップ、高校の体育館、ファミリーレストランと社宅、住宅街、文房具店ぐらいですから、金も時間もかけてません。

監督と脚本家、星田良子神山由美子を画像検索してみると、役者もつきあいで出演しているようですね。キャリアもそこそこあるようですが、それでこれでは、それまでということなのでしょう。 映画は2010年9月に撮影されたとのことですが、あまりの出来の悪さに公開をためらっていたということでしょうか。

音楽映画なのに、リズム感のなさというか、ライブ感-観客を盛り上げられないというのは致命的です。テレビ局で、一流会社のスポンサー相手のドラマを作ることはできても、一般大衆の心の動きに配慮するのはできないんでしょうね。まあ、そういった意味では、全く今のテレビ局の有様が映し出された映画だったと総括しておきましょう。

J・エドガーを鑑賞した。芝山幹郎の解説に膝を打った。

良かった。

実は、同じ日に「アーティスツ」も鑑賞。こちらも良かった。しばらく時間が経つと、J・エドガーが心に残っているのがわかった。日常の空いた時間に、J・エドガーの陰がちらつく。何でだろうと思いつつ、数日経ってからネットサーフィンしていると出会いましたねいい解説に。思わず膝を打ったのがこれだ!!

陰翳豊かな演出作法 芝山幹郎

「J・エドガー」のイーストウッドは確信犯だ。話は盛り上げない。人間関係も詳述しない。灰色の体質を持った主人公が、灰色の服を着て、時代の灰色の部分を爪先立ちで歩いていく。しかも、期間が長い。J・エドガーは、FBIの頂点に48年間も君臨した。
「フーバー」と題さずに「J・エドガー」と題したのは、私人の側面を強調しようとしたからだ。背後には、時代時代の大きな事件も裁ち入れられる。アメリカ共産党の結成、リンドバーグ愛児誘拐事件、JFK暗殺事件。
複数の点がつながって、線を作る。線は交差して面となり、映画に奥行きをもたらす。衣装と美術も素晴らしい。イーストウッドは、陰翳豊かな演出作法を手の内に収めている。

「イーストウッドは確信犯だ」がすべてです。

テーマも興業も非常に難しい映画だったが、「話は盛り上げない。人間関係も詳述しない。灰色の体質を持った主人公が、灰色の服を着て、時代の灰色の部分を爪先立ちで歩」くように映画を作りあげた。同性愛も、女装趣味もスキャンダルをネタにした恐喝も描いていないわけではないが、真実にはほど遠い描写に留めている。しかも、映画の終わりには、クライド・トルソンにエドガーが自分の作った嘘さえ事実だと思いこんでいると語らしめ、映画そのものの信憑性を否定している。灰色さえも透明にして観客を煙に巻いてしまっているのだ。

まあ、このぐらい用意周到でないと、アメリカで生きていく(比喩ではありません、文字通りの意味です)ことは難しいと言うことでしょう。

それでもなお、いやそれ故にというべきか。透明になったスカスカの映画は、エドガーのコア、真核を描くことに成功しています。ディカプリオは良かったですね。

 

ALWAYS 三丁目の夕陽 ’64

とても、面白かったです。これが三作目ですが、息の長いシリーズになるかもしれませんね。がんばってもらいたいところです。映画寅さんシリーズ、テレビドラマでは水戸黄門。歌舞伎や落語もそうですが、同じようなストーリィでも面白い、感動するというのは、人の心に訴える何かがあるからです。凡庸なストーリィでも、その「何か」があれば、人の心を惹きつけるものになります。落語や歌舞伎はなんど観ても泣ける場所では泣けるものです。そのポイントは、経験とかが必要になるのですが、極めるのはやはり難しいのです。ユング心理学では、「元型」を刺激するなどと表現します。たとえば、ヒトラーなどはドイツ国民の元型を刺激したわけです。

映画を観ていて、思い出したのが、テレビドラマ「ベン・ケーシー」。オープニングの「♂、♀、*、†、∞」(「男、女、誕生、死亡、そして無限」と吹き替え)という、語りながらチョークで書く板書です。

映画では、男女のカップルが三組登場します。子供が生まれます。茶川のお父さんが死にます。その中でさまざまな情景が映しだされるわけです。私の琴線にふれた箇所は二カ所。堀北真希と森山未来の最初の病院での出会いのシーン。うでに怪我した堀北に森山が、「キズは残るが、勲章のようなキズだ」と評価する場面が一つ。もう一つは、茶川が息子のようにかわいがっていた古行淳之介を家から追い出すシーンです。

男女の出会いは一瞬で決まるような気がします。「キズは残るが、勲章のようなキズだ」という言葉をきっかけに堀北は森山に恋をするわけですが、それすらもある種の理屈です。堀北が恋をしたのは、そのうでに手当をした森山の掌の感触かもしれないし、そのときの眼差しかもしれません。出会ったときの瞳だったかもしれません。いずれにせよ、表現できないもの、しかしながら「何か」が堀北の心をゆさぶったわけです。森山も堀北の「何か」に心を揺さぶられたわけです。二人の行く手に迷いが生じた中で、堀北は、その「何か」を信じ、すべてを賭けたのですが。そこに私は涙しましたね。

茶川が古行淳之介を家から追い出すシーンは、その前に茶川と父の関係が描き出されました。父の真実を知った茶川は、古行を確信をもって追い出すわけです。確信がなければ人は人を追い出すことはできません。相手によかれと思いつつ鬼になるには、確信が必要です。追い出された相手が一生、じぶんを恨むことを承知の上で追い出すわけですから。茶川の父も、茶川も恨まれることを選んだわけです。

普通の人生でも、充分このような事は多々あると思います。私も、長いこと生きているので、今でもきっと何人かに恨まれていることでしょう。追い出される相手は、負けずに刃向かってきますが、よかれと思って鬼になるほうが強いわけです。それこそ、千尋の谷に落とす覚悟とか力強さで追い出すわけですから。それだけに強く恨まれることにもなるわけですね。しかし、それはそれ、そして、人生にはなんどかこのようなことがあるものなのです。

できのよい古行淳之介は、家をでていきますが、「茶川さんの心はわかっていますから」と意味深げに言葉を繰り返します。さらに、忘れた万年筆です。茶川がそれをもって古行淳之介を追いかけ、淳之介も忘れた万年筆をとりに家に向かいます。そしてお互いが言葉を介すこともなく、確信を持ってお互いを知るのです。ここで涙しました。我々は、現実を見るために映画を観るわけではありません。観るべき夢を映画のしかるべきところに用意したきゃく本家には感謝です。