原発を擁護する日本経済新聞の明日はどっちだ!

日本経済新聞は、ここのところ紙面の多くを活用しての原発擁護に邁進している。もうすでに民意は原発を離れているのに、見苦しい限りではある。今日の社説をちょっと見てみよう。

思慮の浅さが招いた「原発ゼロ」目標の迷走

2012/9/21付

あまりにおそまつな顛末(てんまつ)だ。国民生活の安定や国の安全保障を担うエネルギー政策を決めることの重大さを政府は本当にわきまえているのか、これでは疑わしくなる。

政府は「2030年代に原子力発電所の稼働をゼロにする」目標を盛り込んだエネルギー・環境戦略の閣議決定を見送り「不断の検証と見直しを行いながら遂行する」との方針だけを決めた。

閣議決定見送りは「(戦略の)内容を変えたものではない」と古川元久国家戦略相は言う。しかし土壇場になっての見送りによって、原発維持・脱原発の立場の違いを問わず、多くの国民が政府の政策形成能力に対する不信感を強めたに違いない。

こうなったのは、政府が掲げた「原発ゼロ」目標に対して原子力政策に長年協力してきた原発立地自治体が反発し、米国からも原子力に関する日米連携の扱いを問いただされたからだ。経済界も強く反対の声をあげた。

本気で政策を転換するつもりなら当然考慮すべきことを政府は最後の最後まで考えていなかった。理解を求めるべき関係者への目配りも欠いた。「原発ゼロ」はやはり次期衆院選をにらんだスローガンとして戦略に盛り込んだとしか思えない。政策決定に関わった政治家の資質と責任が厳しく問われるところだ。

19日に原子力規制委員会が発足した。原発に対する厳正な安全規制の確立や再稼働など、国民の安心と電力の安定供給のために政府がなすべきことは山積している。今回の経緯が原子力をめぐる一層の混乱を招き、重要な政策判断が先送りになったり、なおざりにされたりしないか心配だ。

私たちは「原発ゼロ」を掲げるのは賢明ではないと繰り返し主張してきた。原発の新設は困難で40年寿命を原則とすれば、原子力依存は小さくならざるを得ない。しかしエネルギー安全保障を考えるなら原子力という選択肢を安易に手放すべきではない。

縮小する原子力の穴を埋めるため自然エネルギーを目いっぱい導入する必要があるが、その実力は未知数だ。化石燃料を安く調達しクリーンに使わなければならない。原子力の維持は燃料調達において交渉力を強めるに違いない。

政策決定に携わる政治家や官僚はいま一度、襟を正して現実を直視してもらいたい。

金が目的の「原子力政策に長年協力してきた原発立地自治体」と、自らは手を汚さない「米国」からも原子力に関する日米連携の扱いを問いただされたということが、この社説のベースになっているのだが、呆れた限りだ。そして、日本経済新聞は根拠となる理由がいかにくだらなくとも、『私たちは「原発ゼロ」を掲げるのは賢明ではないと繰り返し主張してきた。原発の新設は困難で40年寿命を原則とすれば、原子力依存は小さくならざるを得ない。しかしエネルギー安全保障を考えるなら原子力という選択肢を安易に手放すべきではない。』と言い続けるだけなのだ。そのための手段としてゆがんだ報道を繰り返し行い、黒を白と言いくるめようとして、なんとか世論を創り上げようとしている。まことに恥ずべき会社である。

そもそも福島原発が示している、「原発の危険」はどこにいったのか。また、自らは原発を作らないという米国がなんで日本に「原発」を作れということができるのだろうか、そしてそのような基本的な矛盾を直視することもなく、それすらを社説のベースに置いている。危険な原発を安全のために作れという、矛盾の上塗りをひたすら繰り返す、プロパガンダマシーン化した日本経済新聞の明日はあるのだろうか?

 

 

官邸前反原発デモ 日本経済新聞デビューか。

本日、官邸前反原発デモが日本経済新聞に掲載されました。社会面ではなく、「日曜日に考える」というコーナーというのが、日本経済新聞ですね。内容を下記にご紹介。

日曜に考える

中外時評

官邸前デモが映すもの

「合唱」の高揚と危うさと

論説副委員長 大島三緒

「参加者のみなさーん。足元に水たまりがあります。気をつけてください」 「まだたくさんの人が続いています。スムーズな行動をお願いしまーす」

国会議事堂の前庭から首相官邸周辺にあふれる入波に、ずいぷん丁寧な呼びかけが響く。主催者側の誘導かと思ったら、ハンドマイクを握っているのは制服の警察官だった。

毎週金曜日の夜、官邸前を中心に永田町から霞が関一帯を埋める、原発再稼働反対デモの一場面である。市民団体がこの春から始めた行動が徐々に膨れ上がり、最近では警視庁調べでも、2万入規模に達している。

ただし、デモといっても行進もせず「再稼働ハンタイ」とひたすら唱えるだけだ。会社帰りに見物がてら来た入もいれば、ベビーカーを押す若い夫婦もいる。ツイッターやフェイスブッ、クで情報を知った人たちがどこからか集まり、午後8時を期してわらわらと散っていく。

こういう具合だから警察も従来のデモと違ってコワモテで臨むむわけにいかず、花火大会の警備のようになるわけだ。往年のデモなら荒れる隊列の学生などを片っ端からゴボウ抜きして検挙し、騒然となった。

3・11後の時代に突如あらわれた、どこか祝祭のようなこの現象はいったい何か。そして、どこへ向かうのか。

特徴的なのは、労働組合などの組織的動員による参加者が少ないことだ。むしろ、まったくの個入でやって来る若者も多いから、昔ながらのデモのスタイルはとりようもない。

もちろん運動の中心には、プロに近い活動家がいる。かつて闘士だった団塊の世代が、こういう機会を待ってましたとばかり駆けつけてもいるだろう。

とはいえ、それだけでは数万入規模にはとても広がらない。

行動に対する評価は別にしても、たくさんの普通の入々が自発的に参加しているという事実は直視しておくべきだ。

思えば、時代を画する出来事である。戦後日本の大衆運動は1970年代に学生運動が過激化するにつれて下火になった。社会の総中流化とも相まって、デモや集会は普通の人々とは無縁の存在になっていたのだ。

ちょうど40年前の「あさま山荘事件」が、その大きな節目になったのではないか-。今年2月のこのコラムではそんな見立てを述べたのだが、どうやら世の中の流れはすごし、変わろうとしているらしい。

背景に「アラブの春」や米国の反格差デモを後押ししたソーシャルメディアの力があるのは明らかだ。ツイッターやフェイ一スブックが大規模な街頭行動を支え、日本人は「あさま山荘」のトラウマを超えようとしているのかもしれない。

もっとも、これだけの市民が「官邸前」に向かうのはテーマが消費税でも年金でもなく原発問題だからこそ、だろう。

3・11から1年余を経ても、原子力災害というものがもたらした極限的に罪深い光景は一向に人々の視界から消えない。そもそも、ようやぐ出そろった国会や政府の事故調査委員会報告も事故の根本的な原因は解明されていないのだ。

一方で、電力不足の懸念から原発の再稼働は進んでいく。野田佳彦首相は大飯の再稼働にあたり「原発なしでは日本社会は立ち行かない」と語った。しかしあの堂々たる宣言ぷりに、かえって違和感を抱いた人も世間には多かったに違いない。

膨らむ街頭行動に対して、脱原発を唱えるばかりで無責任だという批判が出るのは当然である。しかしまた、へんに冷笑的になったり不平を胸にため込んこんだりするより、オープンに声をしたほうが社会のあり方としては健全だともいえる。

問題はこの先だ。運動がたんに人々の欲求不満をはらすカタルシスにとどまるのか、新しい社会像を示す提案などに展開するのか、あるいは政治の側がなにか対応を見いだせるのか。原発をめぐる二項対立が深まるばかりでは不幸である。

「もはや主役はいない。いるのは合唱隊(コーロ)のみである」。哲学者オルテガは「大衆の反逆」で、社会という舞台の背景にいた群衆が前面に進み出てくる様子をこう言いあらわした(神吉敬三訳)。それは可能性も危険性も秘めているというのがオルテガの分析だ。

3・11が生んだコーロの合唱はどんな歌を歌っているか。好悪を超えて、やはり耳を澄まさなければならない。

オルテガ「大衆の反逆」は、アマゾンでは次のように紹介している。

1930年刊行の大衆社会論の嚆矢。20世紀は、「何世紀にもわたる不断の発展の末に現われたものでありながら、一つの出発点、一つの夜明け、一つの発端、一つの揺籃期であるかのように見える時代」、過去の模範や規範から断絶した時代。こうして、「生の増大」と「時代の高さ」のなかから『大衆』が誕生する。諸権利を主張するばかりで、自らにたのむところ少なく、しかも凡庸たることの権利までも要求する大衆。オルテガはこの『大衆』に『真の貴族』を対置する。「生・理性」の哲学によってみちびかれた、予言と警世の書。

つまり、論説副委員長 大島三緒は、オルテガになぞらえ、目線が高いところからの文章、言い換えれば、デモを見下した文章を書いているわけである。中身は、まったくもって何もない、あえて言えば、目線の高さこそが、この文章のすべてである。稚拙な内容なので、何も言う気にもならないのだが、論説副委員長 大島三緒氏の目線の高さを示す言葉の端はしを列挙してみよう。

ただし、デモといっても行進もせず「再稼働ハンタイ」とひたすら唱えるだけだ。・・・午後8時を期してわらわらと散っていく。 /・・・花火大会の警備のよう・・・/・・・膨らむ街頭行動に対して、脱原発を唱えるばかりで無責任だという批判が出るのは当然・・・/3・11が生んだコーロの合唱はどんな歌を歌っているか。好悪を超えて、やはり耳を澄まさなければならない。

そもそも、官邸前反原発デモをまったくもって理解しようとしていない。まったくもって暗愚な『真の貴族』がいたもんだ。

因みに、日本経済新聞のこの記事のちょうど裏側には同じ「日曜に考える」と題して、「核燃料サイクルは必要か」という記事が丸々一ページ使われている。必要なのは「核燃料は必要か」という記事なのだが、そうではなく、核燃料は必要であることを前提として御用学者の対論仕立てとなっている。いつものことではありますが、開いた口がふさがりません。

日本経済新聞 鳩山元首相参加で首相官邸前反原発デモ デビュー?

7月20日の首相官邸前反原発デモは、鳩山元首相が参加するというサプライズがあった。日本経済新聞の翌日にどのような記事になるのかと精査したが、見つからない。で、デジタル版で検索してみると、見つけました。

鳩山元首相、原発再稼働反対デモに参加

2012/7/20 21:18

鳩山由紀夫元首相は20日夕、首相官邸前で原子力発電所の再稼働に反対する市民団体らのデモに参加した。首相経験者が市民デモに加わるのは異例。ハンドマイクを手に「首相経験者として皆さんの声を官邸に伝え、政治の流れを変えたい」と訴えた。

この後、官邸を訪れ、藤村修官房長官に野田佳彦首相がデモ参加者と面会するよう求めた。首相は視察先の福岡県柳川市内で記者団に「官房長官から話を聞いていないので、コメントできない。様々な声を聞いていきたい」と述べた。鳩山氏に対し、民主党の城島光力国会対策委員長は記者団に「首相を務めた方が参加するのはいかがなものか」と苦言を呈した。鳩山氏は自らに近い議員からも「行くべきではない」といさめられたが、押し切ったという。

 

ついでに、「首相官邸前 デモ」で検索してみると、

鳩山元首相、原発再稼働反対デモに参加

(2012/7/20 21:18)日本経済新聞 電子版321文字

鳩山由紀夫元首相は20日夕、首相官邸前で原子力発電所の再稼働に反対する市民団体らのデモに参加した。首相経験者が市民デモに加わるのは異例。ハ……続き

官邸前の「脱原発」行動に学ぶ ネット時代の集客法

(2012/7/19 7:00)日本経済新聞 電子版2855文字

6月中旬から起こった「脱原発」を訴える首相官邸前の抗議行動では、「ツイッター」「フェイスブック」などによる呼びかけが多くの参加者を集めたと……続き

やっつけ仕事の「国民的議論」は残念だ

(2012/7/15 3:30)日本経済新聞 朝刊933文字

これからのエネルギーと環境の基本政策を話し合う政府主催の「エネルギー・環境の選択肢に関する意見聴取会」の初会合が14日、さいたま市で開かれ……続き

電力改革は止められない(上)ネット駆使、独占・技術の「壁」破る

(2012/7/3 7:00)日本経済新聞 電子版4095文字

関西電力大飯原子力発電所(福井県おおい町)3、4号機の再稼働が6月16日に正式決定し、27日に集中開催された電力各社の株主総会では「脱原発……続き

[FT]原発再稼働と再生エネに傾く日本(社説)

(2012/6/22 14:00)日本経済新聞 電子版1371文字

(2012年6月22日付 英フィナンシャル・タイムズ紙)

先進国の中でも日本ほど、国内エネルギー需要を満たす上で難題を抱える国はない。化……続き

首相官邸前で300人が大飯再稼働反対デモ

(2012/6/16 12:01)日本経済新聞 電子版322文字

大飯原発の再稼働に反対する市民団体らによるデモが16日午前、首相官邸前で開かれた。集まった約300人の参加者が再稼働を決めた政府、地元自治……続き

検索結果 6 件中 1 – 6 件目

以上の6件が検索に引っかかってきた。内容は有料になるので読めなかったのだが、一番目と最後の記事がどうやら、反原発デモが対象の記事のようだ。一番目が、ブログの最初に引用している。ということなので、デジタルパンでは2012/6/16が日本経済新聞に首相官邸前反原発デモが登場したということになるのかな。首都版とか、夕刊とかにはどうなんだろう掲載しているのだろうか。ま、とりあえずいえることは、仙台で読む日本経済新聞では、まだ首相官邸前反原発でもは掲載されたことがないということだ。

鳩山元首相のデモ参加でも、官邸前反原発デモが記事にならない日本経済新聞(デジタル版除く)。いつ、どのように掲載されるのか、ますます楽しみになってきました。