日本の電気料金はなぜに高いのか

2011/9/24、日本経済新聞のデータ解説の写真をそのまま掲載してみよう。

原発ゼロなら1.7倍にもなるとのことであるが、問題は原発があっても高いということだ。

記事の内容は原発をゼロにすると高くなると言っているのだが、理屈のようで理屈になっていない。むしろ、原発があるから高くなった。今後も原発がある限り高く成り続ける。そう言い切ってみると、問題が見えてくるのではないか。

日本経済新聞の本日の一面、特集記事はいい切り口を見せている。

(エネルギーを問う)「言い値」追認、国にツケ 値上げ適否判断できず 第2部 電力ブラックボックス(1)

2011/9/24付日本経済新聞 朝刊

電力産業には利用者や規制当局の目が届かないブラックボックスがいくつもある。民と官の線引きが曖昧で、料金水準や需給、資金調達などの懸案も実情を見定めにくい。その閉鎖性が課題解決を妨げ、不信感を生む。

コスト構造批判

「原子力発電所の稼働率が低いままでは収益の悪化は避けられない」。東京電力社長の西沢俊夫(60)は20日、同社の経営内容を調査する経営・財務調査委員会(委員長・下河辺和彦=63)に出席し、電気料金引き上げの必要性をにじませた。

福島第1原発の事故以降、東電は液化天然ガス(LNG)などの火力発電を増強。今年度は燃料の調達費が7千億円も増える。政府の資金援助は賠償の支払いに限られ、燃料費には回せない。

だが、供給不安も収まらない中、米韓の2倍以上の料金がさらに上がれば、国内の製造業や家計への影響は大きい。社員の約1割削減などの合理化にも「限界がある」(東電幹部)というのは本当だろうか。

「値上げの回避は可能」。経済産業省が作成したとされる文書が霞が関で出回っている。電力各社が抱える原価変動調整積立金などの利益剰余金を充てれば、追加の燃料コストを賄えるという分析だ。

これにはただし書きがある。「当面」、そして「東電を除く」。東電は利益剰余金がすでにマイナス。比較的潤沢な中部電力も3年半で積立金が底をつく。一時しのぎの策だが、こんな文書が出回るのも「電力会社のコスト構造は甘い」との見方が強いためだ。

厚生労働省の賃金構造基本統計調査から推計した電力業界の平均年収は2010年度で750万円。全産業の平均を6割上回る。20年前は平均より35%高い程度だったが、国際競争の激化にさらされる他産業が人件費の圧縮を進めた結果、電力の給与水準は相対的に上がった。下河辺も「他業種に比べ人件費が高い」と批判する。

コスト削減が進みにくい原因は「総括原価方式」と呼ぶ料金の決定方式にある。電力供給にかかる費用を積み上げ、一定の利潤を上乗せして料金を決める。値上げの場合、経産相が認可する。

しかし、費用の適正水準を見極めるのは困難だ。「料金改定の勉強に専念してくれ」。経産省の幹部はさきごろ認可を担当する新任課長に命じた。しかし、値上げは約30年ぶり。勉強しようにも省内には「電力会社が申請する“言い値”が正当か判断するノウハウもない」(同省幹部)。

線引き難しく

政策研究大学院大学教授の金本良嗣(61)は「原価とは何か。その線引きが重要だ」とも指摘する。燃料費、人件費など対象となる項目は省令で決まっているが、6日の経営・財務調査委では「業界団体への支出なども従来通り料金に含めていいのか」との疑問が出た。

総括原価方式を採用しているのは、電力の安定供給を重視してきたためだ。1951年以来、地域独占の電力会社が発電から送配電まで一貫して担い、原価を反映した収入を保証されることで十分な供給体制を整備してきた。

その代わりにコストをガラス張りにして国がチェックする制度を整えた。資産規模に応じた利潤を料金に含めることも認め、需要を満たす設備投資をするようにも誘導した。だが、原発事故で供給への信頼は崩れ、原価を適正に判断する機能も失われてしまっていることが明らかになった。

欧米では発電や小売りの段階で参入を自由化しており、競争で料金が決まっていく。日本も大口利用者向けは自由化したが、競争はごく一部でしか働いていない。

独占による割高な料金と事故後の供給不安だけが残り、経済の活力をむしばんでいるのが実情だ。目の前の危機を改革へのバネに、日本の成長を支える仕組みにつくり替える時だ。

いいのは切り口止まりで、記事を読んでいくとなんだかわからなくなってしまうのが、昨今のマスコミの記事や解説である。(1)と書いてあるので、(2)もあるのだろうが、内容はもっとわからなくなってしまうだろう。

要するに、電力料金が高いのは、高い分だけどこかに行っているわけで、それはつまり「利権」分であるというわけだ。どこに行っているかというと、政界、官界、そしてマスコミだろう。原発を持っている自治体などには合法的に潤沢な資金が下りるようになっているし、広告宣伝費は天文学的ともいえる金がマスコミに支払われている(らしい)。

原発を取り巻くそういった関係は、電力コストによって賄われているわけで、つまり、原発があるから電力料金は高くなり、こんごも原発がある限り高くなり続けるのである。

簡単じゃないか…。

 

 

「安全な米」キャンペーンにはだまされないようにしよう。

今年の米には、放射能汚染されていないというようなキャンペーンには惑わされないようにしよう。なんといっても放射能暫定基準値がいい加減なものなのですから。

セシウム137 日本の暫定基準値は500ベクレル/kg

ヨウ素131   日本の暫定基準値は2,000ベクレル/kg

http://savechild.net/archives/1287.html

日刊ゲンダイの記事もすごいぞ

http://gendai.net/articles/view/syakai/132574

上記リンクはなくなるかもしれないから念のため内容を転記しておきましょう。

放射能放出なんと1.5京ベクレル 日本の魚本当に食べても安全なのか?

【政治・経済】

2011年9月9日 掲載

日本の基準値は“世界の非常識”

<今ごろ検査強化と言われても…>

とんでもない数字が公表された。

福島第1原発事故で、日本原子力研究開発機構は海洋への放射能放出総量が1.5京ベクレルを超えるとの試算をまとめた。東電が4~5月分として推定していた放射線量の3倍以上に上る。

心配なのが魚の汚染だ。福島県は4月にコウナゴが出荷停止して以来、漁業を自粛している。同県の海の汚染はいまも深刻で、7日に発表されたイシガレイの放射性セシウムは1キロあたり1030ベクレルと、暫定規制値(500ベクレル)の2倍以上だった。

宮城や岩手、茨城などの水産物からも基準値以下ながらセシウムが検出されている。数字は農水省のHPにアップされているが、福島以外はサンプル数が少ない。農水省は「検査機械が少ないうえに鮮魚は詳しく検査すると傷んでしまうので、細かく調べきれない」と説明する。

その一方で宮城県石巻漁港では6日、震災後初めて水揚げされたタコやカレイなどが並んだ。気仙沼沖などではカツオ漁の一部が再開している。魚は本当に安全なのか。

「放射能を防ぐ知恵」の著者でNPO法人「食品と暮らしの安全基金」代表の小若順一氏が言う。

「500ベクレル以下なら安全という言葉を信じてはいけません。3月にドイツ放射線防護協会は大人は8ベクレル、子供は4ベクレル以下にするべきだという基準値を提案しました。500ベクレルがいかに甘い数字かが分かります。いまだに海の中は放射能でグジャグジャなのです。九州で水揚げされた魚も安心できません。太平洋の真ん中で取られたものを宮崎などに運ぶことがあるからです」

小若氏は、政府は国民の生命のために、漁業従事者に所得補償と賠償金を払い、今後3年間は漁業を停止するべきだと主張する。

「とくに心配なのが妊婦さんです。魚を食べて体内被曝したら胎児はまだ安全ですが、孫、ひ孫と子々孫々まで傷ついた遺伝子が受け継がれ、障害やがんを発症してしまいます。妊婦さんは絶対に魚を食べてはいけないし、子供はできるだけ食べないようにしてください」(小若順一氏)

水産庁は今ごろになって福島沖周辺の検査強化をアピールしているが、海は広い。ストロンチウム汚染の可能性も否定できない。消費者は国の言うことをうのみにせず、リスクを覚悟したほうがいい。

 

さらば、吉本隆明。もう後戻りはない。

書店で佐高信の原発文化人50人斬りを立ち読みしていて、敬愛する吉本隆明の名が出ていた。吉本隆明が著書にて原発を擁護しているのはなんどか目にしているので、そんなものかぐらいは思っていたが、過去の言葉尻をとらえてそれほど糾弾しなくてもいいのではないかという気もした。

実際、周到に用意された原発神話に浸っていれば、原発が日本には必要不可欠であるといわれても、そうですかといいたくなります。太鼓持ちがスポンサーにおべっかをいってもそれは仕事ですといえるでしょう。職業に貴賤はないのですから、よいしょが仕事の太鼓持ちを糾弾しても、大人げないのではという気がします。

問題は、芸能人だろうが、文化人だろうが、3.11以降に人間としてどんな行動を取るかということが重要ではないか、そう私は思っています。

そして本日、2011/8/5付、日本経済新聞、8.15からの眼差し-震災5ヶ月、その3は私の敬愛する吉本隆明氏が登場。願ってもいない吉本隆明の3.11以降を披露してくれました。以下に記事を掲載します。

科学に後戻りはない/原発 完璧な安全装置を

詩入で批評家の吉本隆明氏(86)は戦時中、軍国主義少年だった。その体験を自らに問い、戦後、独自の思想体系を築いた。

戦後思想の巨入に、今回の震災体験を聞いた。

-3月11日は、どうしていたか。

「自宅のこの部屋で書き物をしていたと思う。

足腰が不自由で、自宅周辺のことしか分からないが、地震の後は、不気味なほど、静かだった」

-戦中と比べると。

「あのころの東京は、人々も町中の印象も、どこか明るくて単純だった。戦争で気分が高揚していたせいもあったろうが、空襲で町がやられた後でも、皆が慌ただしく動き回っていた。

今度の震災の後は、何か暗くて、このまま沈没して無くなってしまうんではないか、という気がした。元気もないし、もう、やりようがないよ、という人が黙々と歩いている感じです。東北の沿岸の被害や原子力発電所の事故の影響も合わせれば、打撃から回復するのは、容易ではない」

ー復興への道は。

「労働力、技術力をうまく組織化することが鍵を握る。規模の拡大だけを追求せず、小さな形で密に組織化された産業の復興をめざすべきだ。

疲れずに能率よく働くシステムをどうつくっていくか、が問われるだろう。

それには、技術力のある中小企業を大企業がしっかり取り込む必要がある。外注して使い捨てるのではなく、組織内で生かす知恵が問われている。この震災を、発想転換のまたとない機会ととらえれば、希望はある」

ー事故によって原発廃絶論がでているが。

「原発をやめる、という選択は考えられない。原子力の問題は、原理的には人間の皮膚や硬い物質を透過する放射線を産業利用するまでに科学が発達を遂げてしまった、という点にある。燃料としては桁違いにコストが安いが、そのかわり、使い方を間違えると大変な危険を伴う。しかし、発達してしまった科学を、後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じです。

だから危険な場所まで科学を発達させたことを人類の知恵が生み出した原罪と考えて、科学者と現場スタッフの知恵を集め、お金をかけて完襞な防御装置をつくる以外に方法はない。今回のように危険性を知らせない、とか安全面で不注意があるというのは論外です」

ー明るさは戻るか。

「全体状況が暗くても、それと自分を分けて考えることも必要だ。僕も自分なりに満足できるものを書くとか、飼い猫に好かれるといった小さな満足感で、押し寄せる絶望感をやり過ごしている。公の問題に押しつぶされず、それぞれが関わる身近なものを、一番大切に生きることだろう」

 

学生時代からなんどか吉本氏の著者を読んでいるのですが、どうにもわからない。全くわからないかというとそうでもなく、時折納得する箇所も多々ある。が、なんとも消化不良というか、著書を読んだぞという達成感は味わえずにおりました。最近、テレビで、糸井重里がかかわった講演などのドキュメンタリがあって拝見しても、ま、見るだけで楽しいというか、実際、何をかたっているのかは、腑に落ちないままでおりました。

まあ、アイドルだったんでしょうね。私の中では、小林旭と同じで、いつかは吉本隆明をわかるぞぉぐらいに思っておりました。マルクスもおなじ。どちらもアイドルです。

それで、日経の記事ですが。正直、吉本隆明さんに生きててもらって良かったと思いました。吉本隆明氏の3.11へのコメントを知ることができなければ、わからないままでしたから。吉本隆明氏を私がわからないのが正解で、吉本隆明氏はわかるようなことは言っていない人だったんですね。

実際。下記の部分ですが、理解できますか?

 

「原発をやめる、という選択は考えられない。原子力の問題は、原理的には人間の皮膚や硬い物質を透過する放射線を産業利用するまでに科学が発達を遂げてしまった、という点にある。燃料としては桁違いにコストが安いが、そのかわり、使い方を間違えると大変な危険を伴う。しかし、発達してしまった科学を、後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じです。・・・」

 

文章として、文法的には存在しうるが、これを理解しろといわれて理解できる人がいるかというと、あまりいないでしょうね。理屈になっていないからです。意味を持っていないからです。

戦争をやめる、という選択は考えられない。戦争の問題は、原理的には人間の皮膚や硬い物質を透過する武器を産業利用するまでに科学が発達を遂げてしまった、という点にある。殺害方法としては桁違いにコストが安いが、そのかわり、使い方を間違えると大変な危険を伴う。しかし、発達してしまった科学を、後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じです。・・・」

原発を戦争に、放射能を武器に燃料を殺害方法に代えた上の文章をあなたは理解することができるでしょうか。文法的には間違っていません。名詞を代えただけですから。しかし、理屈も意味もない文章です。

「科学に後戻りはない」、「それは、人類をやめろ、というのと同じです」、「人類の知恵が生み出した原罪」というフレーズは、決まる場所にあると決まりますね。これは、彼が詩人だということでしょうか。コピーライターでも通用するでしょう。糸井重里氏とは通じるものがあるかもしれませんね。

要するに私は、吉本隆明氏の気の利いたキャッチコピーと、文法的に正確だが、意味のない文章に振り回されていたわけです。今回の記事で、夢から覚めたというか、目から鱗がとれたというか、正直そんな気がします。

文章も、科学も。使う人間がどのような意図を持っているかによって変化していくものです。人を生かすために科学があり、文章があると思っている人は沢山いると思います。そのような方々が吉本隆明氏の言葉に迷うことなく前進していくのを願うばかりです。

人間をダメにしていく科学は、後退させるというより、よりよくする方に進歩させましょう。使わないという選択支ももちろんあります。原罪というしゃれたコピーを使わずに、いらないものは使わなければよいのです。当たり前の事を当たり前におこなってすすんでいきましょう。

さて、記事の最後の部分がなんとも、等身大の文章といおうか、アノニマス(anonymous)な老人の姿と言おうか、醒めた意識には不健康に感じましたが、いかがでしょうか。

「全体状況が暗くても、それと自分を分けて考えることも必要だ。僕も自分なりに満足できるものを書くとか、飼い猫に好かれるといった小さな満足感で、押し寄せる絶望感をやり過ごしている。公の問題に押しつぶされず、それぞれが関わる身近なものを、一番大切に生きることだろう」

とりあえず、わたしもキャッチコピーつくってみました。

さらば、吉本隆明。もう後戻りはない。

日本経済新聞のコラム「春秋」がこの新聞の限界を示している。

今朝の春秋を読んで、確信した。大手メディアはもはや福島原発並にメルトダウンしていると。

まずは、春秋をご紹介。

春秋

2011/8/3付

宮沢賢治がつくったイーハトーブという言葉には不思議な響きがある。ふるさと岩手を理想郷に見立てた賢治は、そこに思いきりハイカラな名をつけた。悠然たる山河。澄みわたる高い空。賢治が思いを託した風光はいまも変わらない。

▼なにしろ面積は全国の都府県でトップ。東京都が7つも入る。そんな広大な土地だというのに、県内の2市町で産した牛肉から暫定規制値を超す放射性セシウムが出てくると、岩手の牛すべてが出荷停止になった。2市町はともに県の南端。それでも「他地域で規制値を超えない保証はない」と厚生労働省は言う。

▼ことは食べ物の安全と安心だ。健康を考えれば慎重にならざるを得ないのだが、どこかで汚染が見つかれば全県でアウトとは農家にとってなんとむごい話か。名高い「前沢牛」のブランドもある岩手県が受ける打撃はとりわけ大きい。きのうは新たに栃木県の牛も出荷を止められた。波及を恐れぬ産地はなかろう。

▼原発事故の罪を、あらためて思う。事故が起きたころ、どれだけの人が牛肉汚染にまで考えを及ぼしただろう。そういう想像力を持ち合わせてこなかった日本でもあるのだ。童話「グスコーブドリの伝記」で賢治は、イーハトーブの国で災厄と戦う人間を描いた。知恵の力で、大きな困難を乗りこえる物語である。

文章としては悪くない。流れるように完結している。だれかの日記なら、それで問題はない。しかし、この春秋は日本経済新聞の毎日の表紙を飾っている連載コラムなのである。「どれだけの人が牛肉汚染にまで考えを及ぼしただろう。そういう想像力を持ち合わせてこなかった日本でもあるのだ。」とはよく言ったものだ。

震災直後にアメリカは福島原発より80km圏内を危険区域と設定して立ち入りを禁止。イギリスも自国民の東京以北の滞在を認めなかった。そういった「事実」にたいして、日本のメディアは、おかかえの太鼓持ち科学者を動員して、安全であると言い続けた。

牛肉は言うにおよばず、日本を覆う放射能汚染を考えなければいけない日本国民の想像力が、欠けているのならば、その想像力を奪ったのは間違いなく、日本経済新聞をはじめとする大手メディアの責任である。こういった責任をさりげなく、叙情的な文章で(恣意的に)流してしまおうとする春秋(の書き手)には、全くあきれてしまうより他にない。

同じ日、日本経済新聞の一面の裏側、最後のページに五木寛之のインタビュー記事が掲載されている。

8.15からの眼差し-震災5ヶ月/山河破れて国あり/公に不信、亀裂は深刻

原発事故で安全を強調する政府の発表に、不信を強めた人も多いというインタビュアーに対して、五木は「それについては驚かなかった」と述べている。敗戦の夏、中学一年生で平壌にいた五木は、政府の安全だという発表を信じて酷い目にあっている。淡々とした口調ではあるが、政府は信ずるものではないと断じているのだ。

日本経済新聞の春秋の書き手には、情緒的な文書を飾る暇があれば、いまからでも遅くないから、ジャーナリストとしてやるべき事をしっかりやっていただきたい。

やるべき事とはなにか、いうまでもないことだが(それでも言わなければいけないということには泣きたくなるほど残念であるが、あえて言わなければならない)真実を知らせることである。

--今、日本人はどういう立場に立たされているのか-というインタビュアーに応える五木の答えはシンプルではあるが事実だ。春秋とは逆で、言葉を弄する必要がない、事実に力があるからである。

私たちは、原発推進、反対を問わず、これから放射能と共存していきていかざるを得ない。たとえ、全部の原発を停止しても使用済み核燃料を他国に押し付けるわけにはいかない。放射能を帯びた夏の海で子供と泳ぎ、放射能が染みた草原に家族でキャンプをする。その人体への影響の度合いは、専門家によって、あまりにも意見の開きがある。正直、判断がつきません。

だから、政府の情報や数値や統計ではなく、自分の動物的感覚を信じるしかない。最近出した『きょう一日』(徳間書店)はという本に込めたのは、未来への希望を語れないとすれば、きょう一日、きょう一日と生きていくしかないという実感です。第一の敗戦の時はまだ明日が見えた。今は明日が見えない。 だから、今この瞬間を大切に生きる。

国は私たちを最後までは守ってくれない。

日本経済新聞朝刊最終面「文化」の記事より

 

金融の新境地を開く、市民ファンドに期待。

本日のNHKクローズアップ現代は市民ファンド。面白いですね。従来の「頭を動かし、お金を動かす」金融にたいして、「心を動かし、お金を動かす」のが市民ファンドということです。

リーマンショックをはじめとして昨今の金融には失望するところ大です。金融とは詐欺ということかと思っていた矢先の新しい金融に、ちょっと心が動きました。

アメリカの強欲資本主義に翻弄されない、新しい金融が育ってくれればいいなと、本当に思います。

インターネットを利用した、投資家と起業者の交流にも可能性を感じました。ゲストの藤沢 久美さん(シンクタンク ソフィアバンク副代表)の「これは金融の革命です」というコメントには全く同感ですね。

がんばれ! 新しい日本!!