とても、面白かったです。これが三作目ですが、息の長いシリーズになるかもしれませんね。がんばってもらいたいところです。映画寅さんシリーズ、テレビドラマでは水戸黄門。歌舞伎や落語もそうですが、同じようなストーリィでも面白い、感動するというのは、人の心に訴える何かがあるからです。凡庸なストーリィでも、その「何か」があれば、人の心を惹きつけるものになります。落語や歌舞伎はなんど観ても泣ける場所では泣けるものです。そのポイントは、経験とかが必要になるのですが、極めるのはやはり難しいのです。ユング心理学では、「元型」を刺激するなどと表現します。たとえば、ヒトラーなどはドイツ国民の元型を刺激したわけです。
映画を観ていて、思い出したのが、テレビドラマ「ベン・ケーシー」。オープニングの「♂、♀、*、†、∞」(「男、女、誕生、死亡、そして無限」と吹き替え)という、語りながらチョークで書く板書です。
映画では、男女のカップルが三組登場します。子供が生まれます。茶川のお父さんが死にます。その中でさまざまな情景が映しだされるわけです。私の琴線にふれた箇所は二カ所。堀北真希と森山未来の最初の病院での出会いのシーン。うでに怪我した堀北に森山が、「キズは残るが、勲章のようなキズだ」と評価する場面が一つ。もう一つは、茶川が息子のようにかわいがっていた古行淳之介を家から追い出すシーンです。
男女の出会いは一瞬で決まるような気がします。「キズは残るが、勲章のようなキズだ」という言葉をきっかけに堀北は森山に恋をするわけですが、それすらもある種の理屈です。堀北が恋をしたのは、そのうでに手当をした森山の掌の感触かもしれないし、そのときの眼差しかもしれません。出会ったときの瞳だったかもしれません。いずれにせよ、表現できないもの、しかしながら「何か」が堀北の心をゆさぶったわけです。森山も堀北の「何か」に心を揺さぶられたわけです。二人の行く手に迷いが生じた中で、堀北は、その「何か」を信じ、すべてを賭けたのですが。そこに私は涙しましたね。
茶川が古行淳之介を家から追い出すシーンは、その前に茶川と父の関係が描き出されました。父の真実を知った茶川は、古行を確信をもって追い出すわけです。確信がなければ人は人を追い出すことはできません。相手によかれと思いつつ鬼になるには、確信が必要です。追い出された相手が一生、じぶんを恨むことを承知の上で追い出すわけですから。茶川の父も、茶川も恨まれることを選んだわけです。
普通の人生でも、充分このような事は多々あると思います。私も、長いこと生きているので、今でもきっと何人かに恨まれていることでしょう。追い出される相手は、負けずに刃向かってきますが、よかれと思って鬼になるほうが強いわけです。それこそ、千尋の谷に落とす覚悟とか力強さで追い出すわけですから。それだけに強く恨まれることにもなるわけですね。しかし、それはそれ、そして、人生にはなんどかこのようなことがあるものなのです。
できのよい古行淳之介は、家をでていきますが、「茶川さんの心はわかっていますから」と意味深げに言葉を繰り返します。さらに、忘れた万年筆です。茶川がそれをもって古行淳之介を追いかけ、淳之介も忘れた万年筆をとりに家に向かいます。そしてお互いが言葉を介すこともなく、確信を持ってお互いを知るのです。ここで涙しました。我々は、現実を見るために映画を観るわけではありません。観るべき夢を映画のしかるべきところに用意したきゃく本家には感謝です。