生きがいのメッセージ その2

生きがいのメッセージ―愛する故人とのコミュニケーションがもたらす新たな人生観についてさらに少々。

この本が冗長なのは、英語と日本語の違いもあるのでしょう。英語は、表記したものがすべてというようなところがあり、なんでも説明せざるを得ない。日本語は、暗黙の了解を前提として、その、いわゆる暗黙知を引き出すきっかけとなるものです。俳句などは、短いですが、その示すものは、言葉では言い表せないほど深淵です。

そういった意味では、暗黙知の勝手がまだ分からない人、初心者などにとって、英語はやさしい言葉だと思います。そういうわけで、マニュアルとかノウハウものは英語が断然よいですね。

ということで、死後交信というか、コミュニケーション体験を経験するためには、瞑想なんかが役に立ちますよということで、巻末に語っている部分があり、非常にていねいに説明しているなという部分がありましたので、ご紹介します。興味のある方は読んでください。

–以下にp344-p349から引用---

効果が最も確実なのは、瞑想を学ぶことだ。手経で使いやすい指導書やカセット・テープが、どこの書店でも手に入るだろう。早く結果を出したければ、瞑想の講座に参加するのもいい。有能な講師による、短期の高価でない靜座が、どこの地域にもあるごとと思う。ただし、講師の資格や講座の評判を前もって確かめることが必要なのは、医者や弁護士などを捜すときと同じである。

加えて言うなら、瞑想は健康面の効果もじつに大きい。ことに身近な人を失ったような時期には、よく眠れるようにもなるし食欲も増すし、「うつ」と心の痛手をいくらか緩和するはずだ.また瞑想には、怒りや恨みや絶望などの激しい感情をやわらげる作用もあるし、廠しのプロセスも促進する。一日に一、二回、それぞれ二十分ぐらい行なうと効果的である。

瞑想を習慣づけるごとは、白己を養い育てる、すぐれた方法なのである。こうした深いリラクゼーション法が怏適になるにしたがい、注意力の集中するところが、外の物質世界から精神的次元へと、徐々に移り変わっていく。愛する人を失った人でもそうでない人でも、しだいに心がひらかれていき、直感が発達する。こうした変化から、覚鰥時や睡眠中にコミュニケーションを体験する能力も高まるだろうし、おそらくは早晩、その深くリラックスした平安な状態においてコミュニケーションを体験することになるだろう。

いずれにしても、コミュニケーション体験は意志の力で起きるものでも強制的に起こせるものでもないので、要は「自己を訓練してより感受性を高め、直感を養うことによって、それが起きやすい状態をつくる」ということに尽きるだろう。信仰心が強い人なら、深い祈りや黙想も、同じようなスピリチュアルな成長の機会になるはずだ.

目覚め(いるときに故人の気配を感知したら、その入が」。言語的に-コミュニケーションしようとしているかどうか探ってみよう。座って目を閉じて、体の力を抜き、二、三回ゆっくりと深呼吸する。テレパシーで「メッセージ」をくださいと頼み、心をひらいてそれを受け取ろう。その方法で完全に、双方向の会話ができることも、忘れないでいただきたい。

暝想を通じて、多くの人が、たいていはじめて気づくごとは、肉体から独立した白己ないしは存在があるということだ。深い瞑想をずるようになると、白分が肉体も、感覚も、感情も、思考も超えたものだということを発見することがある。自己とは永遠の精神的存在ないしは意識であって、必滅の人間というそれまでのちっぽけな白己像をはるかに超えるものだということが、徐々にわかってくるのである。この新しい気づきが起きると、内面は深いやすらぎと喜びに満たされ、多くの場合、人生が欠乏感と奪い合いにまみれたものから、連帯と豊かさに彩られたものへと変容していく。

人は地上に誕生したときから、男も女も子どもたちも、こう間いかけてきた。私は誰? なぜここにいるのだろう? これからどこへ行くのだろう? 古今東、西の数え切れないほどの宗教や哲学が、これらの深遠な閊いに答を探してきた。

ほとんどの宗教ぱ、通常「スピリット」(霊)とか「ソウル」(魂)とか呼ばれる、何かあいまい模糊(もこ)とした人間の一部が、死の時点で肉体を離れ、ほかの領域で存在しつづけるのだと教えてきた。私たちのコミュニケーション体験調査は、他の類似の現象に関する調査とともに、人は誰もがスピリチュアルな存在であって、一時的に肉体をまとっている、あるいは肉体に宿っているにすぎないということの証拠を提供している。私たちは誰もがスピリットもしくはソウルなのである。この地上にいるあいだ、現実世界という次元で機能するために肉体を所有しているだけで、「死」と呼ばれるものは、その地上の肉体から出ていくという行為にすぎない。ずなわち、「私とは魂をもつ肉体ではない。私とは肉体をもつ魂だ」ということになる。だから、人間は死なない。死ぬのは肉体だけなのだ。

肉体は、私たちの「地上服」だと言ってもいいだろう。その服を着ていないと、たとえばこの本を持つことも、電話に出るごともできない。物質世界とかかわり合うことができないのだ。壁などの固い物体も通り抜けてしまうだろうし、きっと入に姿を見てもらうごとも、声を聞いてもらうこともできないだろう。要するに、その服がないと、私たちも死んだ人と同じ身分になるのだ。

宇宙飛行士が宇宙船の外で仕事をするために宇宙服が絶対に必要なように、私たちの地上服も、この惑星の上の生活では必需品なのである。だから長い人生でその地上服を着古してしまったとき、残念なことにはたいていの入が、「私とは肉体だ。肉体がなければもはや私幕在しない」と思い込んでしまうのだ。

肉体は、自動車にもたとえられるだろう。両方とも「乗り物」だから.肉体は、入生を旅していくために使う乗り物なのである。新品のうちから弱点があって、すぐ故障してしまうものもあるだろうし、持ち主のあつかいが悪くて急速に傷んでいくものも、事故で壊れてしまうものもあるだろう。しかし大方は、通常の手入れとちょっとした修理だけで、なんとかもちこたえていく。当然ながら自動車も肉体も、やがては使い古されて捨てられることになる。けれどもそうなったからといって、その車の運転手、あるいは肉体の着用者も同様に存在しなくなると思う必要は、少しもないのである。

ところで.死後の生命が実在することをたとえ信じていたとしても、私たちはたいてい、そんなものがあるとは思っていないような話し方をする。ふだんの会話では、たとえば「先週、息子を埋葬しました」、「おばあちゃんは三日前に火葬されました」と言ったり、「父は心臓病で亡くなりました」、「私が死んだら主人と、一緒に埋めてください」といった言い方をするだろう。

死に関するこうした言葉づかいは、「人は維もが水遠の存在だ」ということをたとえ信じているとしても、「死ぬのは肉体だけで、埋葬や火葬に付されるのは肉体だけだ」という事実を否定するものだ。エリザベス・キューブラー・ロスの言葉を借りるなら、「死なんてものは、春になって重いオーヴァーコートがもう要らなくなったときに、それを脱ぎ檜てるようなもの……。肉体は不減の自己を閉じ込めている殻にすぎない」のだ.私たちも、永遠のものである精神的存在と、死んでしまった肉体とを区別して語る必要があるだろう.

言葉の選択は重要」だ。言葉は、その間題に対する私たちの考えと感情とを強化していくからだ。死後の生命があるという信念と一致するような話し方、言葉づかいを心がければ、その信念を肯定することになるし、他人にもその考えがより明惟に理解される。たとえば「息子の体は先週を埋葬しました」、「おばあちゃんの遺体は三日前に火葬されました」といったように、あるいは「父の体は心臓病で亡くなりました」、「私が移行をすませたら、残った体は主人の体の隣に埋めてね」といったように言えるだろう。

新しい表現を使うのは、最初のうちはぎこちなく感じられるものだが、こうした言葉遣いは死後の生命があるという信念を、より明確に反映しているのである。それに、幼い子供たちを混乱させることも、はるかに少なくなるだろう。周りの大人たちが「ママは天国にいるのよ」といいながら、その一方であたかも母親を永遠に墓の下に埋めてしまったかのように語ったり泣いたりしていたら、子供はわけがわからないだろう

通夜、葬式、埋葬式、追悼会などは、いずれも肉体が死んでしまった人たちの人生を讃えるために、ふさわしい儀式である。故人がこの世で成し遂げたことに敬意を表し、その人をめぐる思い出を分かち合うための、いい機会になる。その人が光を目指して故郷へと旅立っていったことを賑やかに祝える、絶好の時と場所になるだろう

私たちの調査や他の多くの情報源から考えて、私たちは「人生学校」とでも呼べそうな壮大な大学に入っているようなものらしい。それにきづいているかどうかにかかわらず、わたしたちはみな、その学校の生徒でもあれぱ先生でもあるのだ。そこで学ぶごとは途方もなく多様だが、スピリチュアルなことを学ぶコースは基本的には全員に共通で、「自分臼身も含めてすべての人を無条件に愛する」ということが全員に教えられるように剤画されている。

スピリチュアルな気づきが、ある一定の段階に到達すると、生徒は自動的に「他人の役に立ちたい」という内なる衝動を感じはじめる.富、権力、名声、地位といった誘惑的な物質主義的目標が徐々に力を失い、それに代わって愛、思いやり、赦し、忍耐、受容、寛大さ、やすらぎといった精神的価値観が、高い地位を占めるようになる.

よく言われることだが、精神的に進んだ入の中には、ふつうの職業に精神性を鐇揮している人ももちろんいるが、人に奉仕する職業につくことを選ぶ人が多い。たとえば臨死体験をもつ人の中には、専門の介護者やボランティアとして、終木期の患者や死別体驗者のために働いている入がたくさんいる。とはいえ、奉仕の仕事につくことは、あくまでも彼らの欲求-人びとが死の不安を乗り越え、人生をより深く事受ずる手助けをしたいという欲求ーの副産物である。重要なのは、愛と、人に役立ちたいという気持ちと態度であって、どんなタイブの仕事についているかではないだろう。

臨死体験をもつ人ば知識、ことに自己認識と智慧を追求し、応用することの大切さも強調する。彼らは人生のスピリチュアルな意味合いと、それを支える自然の法則についてもっと学ぶことを、直感的に欲求するのである。だから臨死体験やコミュニケーション体験をもつ人には、特定の宗教に関心をもつようになる人もいるが、哲学の勉強をはじめる人もきわめて多いのだ。

そうしたスピリチュアルな求道者に共通して言えることは、。「物賢主莪的な目標やそれぞれの社会の成功尺度はまるで塩水のようなものだ」という理解が、ますます深まることだろう。そんなものは、飲めば飲むほど喉が渇くだけ、いくら手に入れれても満たされることがない。「おもちゃをいちばんたくさんもって死ぬ者が勝ち」というよく知られたスローガンは、結局は空手形、精神的貧困に向かう道でしかないということになる。そうした認識のもとに、彼らは意識してスピリチュアルな道の理想を胸に抱き、澄んだ真水を飲むのである。それは体と心と.魂を潤し、入を真のやすらぎへと導いていく。

地上の人生が巨大な学校で、私たち」に無条件の愛と奉仕の心の精神的価値を教えるためにつくられたというのなら、死とは何なのだろう? おさな子のうちに死んでしまう人もいれば、長生きする人もいるのはなぜなのだろう? それぱもしかすると、教育を完了するのに、あるいは教師として人に奉仕するのに、ほんの少しの講座を取るだけでよい魂もあれば、たくさんの講座に出て、いくつもの科目を終了しなければならない魂もあるということなのかもしれない。

地上に何年間生きたかにかかわりなく、死は肉体をもつ生からの「卒業」だと考えられる。したがって、悲しみのときではなく、喜び祝う機会なのである。

—以上、引用したものです。—