最近は夜中に目が覚めます。暑くて寝れないんですね。今年の夏は異常です。
さて、ひとり語り―女優というものはを読みました。おもしろかったです。
私の学生時代は麻雀がブームでした。時代そのものが麻雀ブームだったのですが、そのせいで麻雀好きで知られていた吉行淳之介氏、遠藤周作氏、色川武大氏のファンでもあり、エッセイや著作にも親しんでおりました。その吉行淳之介の妹さんが吉行和子さんでした。文章の方も血筋なのか非常に読みやすく、うまいと思いました。この本にも多々吉行淳之介氏との話がでてくるのですが、拝読したところどうやら、和子さんはお兄さんがとてもすきだったみたいです。
日本を代表する女優さんなわけですから、本の中にも、日本を代表する著名な方がたくさん登場します。知られていない視点からの話はいずれもおもしろく、かつ価値のあるものだと思いました。
その中で、私が気に入ったのは田中角栄氏とおすぎとピーコの部分でした。さりげなく、彼らの代弁をしているところに感心しています。ということで、おすそ分けということではありませんが、以下にまず田中角栄氏部分から紹介させていただきます。
そうだ、初めて銀行に口座を作りに行ったのは二十歳を少し過ぎた頃だった。劇団からもらうわずかな収入のために預金通帳を作りましょう、と近くの銀行に出かけた。そのことを思い出したのは、この(二〇〇九年)二月十三日に辻和子さんが亡くなったからだ。辻和子さんは旧中角栄氏の愛人として、かなり知れ渡っていた方だった。神楽坂に住んでいた元芸者さんだ。
私の預金通帳の名前は、「辻和子」という。当時、母が再婚していたので、私と妹も辻だった。仕事はもとのままだが、戸籍上の本名は辻。通帳を作りながら、ふと気配を感じて顔を上げると、背広をきちんと着た男性四、五人が近づいてきている。そして、ほんの少しの間たたずんでいたが、声もなく去って行った。通帳を作る時って、こういう感じなのかしらと思い、気がついた。そうだ、辻和子という人が来たというので、それではご挨拶をしなくてはいけないと、偉い人たちが揃って来てみたのだが、どうもみすぼらしい風体の女だ。人違いだと、引き返したのだろう。
神楽坂とわが家とはそう遠くない。ということは、この銀行とも近い。あの辻和子が口座を開いてくれるのだと思ったのだろう。
ほほえましい話
そんなことがあってから三十年も経った頃、その辻和子さんと私は知り合いになった。親しくしていた友人のお母さんが女医さんで、私はよく遊びに行っていた。女医さんと辻和子さんが仲良しで、顔を合わせたことが何度かあった。初めて会った時、「この人も辻和子っていうのよ」と私は紹介された。女医さんとは芸者さん時代からの友達とのことだ。「私はね、神楽坂の芸者衆の主治医だったのよ。男の医者が行くと、なんだかんだと問題を起こすので、女の私が行くことになったの」と、ゴッドマザーのごとく頼もしい女医さんは言った。辻さんより年長で、角栄氏にもずいぶん頼りにされていたらしい。浅草で開業医をしていて、血だらけのヤクザが駆け込んでくることもたびたびあり、それでもびくともしない肝っ玉女医なのだから、何があっても驚
かないのだろう。
世間の非難を浴びている角栄氏は、「新潟へ帰る列車のつなぎ目を眺めていると、一瞬、飛び込みたい心境になるんだよ」と、女医さんの前では弱音を吐くこともあったと言う。
辻和子さんも気さくな面白い方だった。同じ方向なので、帰りも一緒に帰ったりした。亡くなったことを知った翌日、さぞや新聞にでかでかと出るだろうと思ったのに出ていない。「だって、どういう肩書きにしていいか困るから、やめることにした」と新聞社関係の偉い方に後から聞いたのだが、たしかに問題が生じる可能性が大きい。その後、週刊誌に小さな記事が出た。昭和の生き証人がひっそりと人生の幕を閉じていたとあるように、ひっそりとこの世を去っていかれた。(p184-186)
続いておすぎとピーコについて
おすぎとピーコと知り合って
この時期、一緒に芝居をした人たちとは、いまだに親しく付き合っている。三、四年だったけれど思い出がいっぱいあり、話が盛り上がる。楽しかったな、と言ってくれるので、ほっとしている。
その中に、おすぎとピーコもいる。彼らは芝居には直接関わらなかったけれど、大いに応援してくれた。二人は現在の活躍ぶりなど想像もつかない、ただの変わった入種、無名のオカマの双子だった。
おすぎのほうは、松竹の歌舞伎座テレビ室というテレビ制作会社の演技事務として働いていた。演技事務というのは、スケジュール調整などもする重要な部門だが、駆け出しはすべての雑事をこなさなければならない。進行さんと呼ばれ大変な忙しさだ。しかし、そう気のきく人はあまりいないのが普通だが、おすぎはともかくよく気がきくというので名を馳せていた。朝にコーヒーが配られるのは当たり前、咳をすればすぐのど飴が差し出される、という具合だ。
私はおすぎのいるほうではなく、歌舞伎座テレビ室の人たちが参加している「喜びも悲しみも幾歳月」というテレビドラマに出ていた。あの名作映画、木下恵介監督、佐田啓二、高峰秀子主演のテレビ版だ。監督も木下恵介門下の方が加わり、あちこちの灯台でロケをした。「おいら岬の灯台守は~」という主題歌もヒットしたので・覚えている方も多いと思う。あの主人公たちの物語なので、灯台は欠かせない。ロケバスは新宿駅の西口から出発する。その場所はロケに行くバスが来るところで、何台も並ぶ。時々間違えて別の作品のバスに乗り込んでいる入がいるので、そういうチエックも進行さんはしなくてはいけない。おすぎも駈けずりまわっていた。私の組のヘアメイクさんが、その種の人で、私は気が合って仲良くしていた。
今では考えられないことだが、そういう人たちは当時肩身が狭かった。昨今いき過ぎのように手を振ってテレビに出まくっている彼らの道を拓いたのは、かの、おすぎとピーコだというのは衆知のことだ。
二人がカミングアウトした時は、もうこれで消えるだろうと思われたのに、なんだ、この勢いは。しかも三+年以上も続いているとは驚きだ。それ以前は、テレビで入気のあった人でも噂が出ただけで画面からは消されていた。美輪明宏さん、ピーターさん以外は認められていなかった。私たちの組合は、と小さな声で主張するしかなかった入たちなのだ。ヘァメイクさんは私が大丈夫と知っておすぎを紹介した。私たちはすぐ仲良くなった。何故だかわからないが同類とでも思ったのだろうか。そして兄と称するピーコを連れてきて、四人で会ったりしだした。
ピーコは服飾関係の仕事をしていた。ずいぶんやぼったい洋服着てんのね、と言い、洋裁をしているお姉さんも紹介してもらい、それ以後、杉浦家(二人の本名)とは親戚付き合いをしている。
私が地下の劇場で芝居をしていた頃、無名の二人は、今と同じように勢いよく騒がしく私の面倒をみてくれていた。お母さんが作った.おいなりさん”をどっさり持ってきて皆に喜ばれたり、キウイという果物があることも教えてもらった。甘ずっばくて美味しかった。キウイを食べるたびに、楽屋にペタリと座って皮を剥いてくれていた二人の姿が目に浮かぶ。ピーコは衣裳の繕いものなども手伝ってくれた。後にピーコデザインの衣裳で舞台を何本かやった。いまや忙しくてそれどころではない。しかし、舞台だけは二人とも観に来てくれる。親しくなりすぎているので、ハラハラしてまともに観てはいられないらしい。身内の学芸会を見せられている心境になってしまうのだろう。そして私も何だか落ち着かなくて、彼らが来た日はたいてい科白をとちってしまう。
二人が突然ラジオ番組に出だした。久米宏さんがパーソナリティを務めていた番組で、そのなかに短いけれど二人のコーナーができた。相変わらずにぎやかだった。ひょっとして、いつも楽屋にきてたあの二人じゃない、と声に聞き覚えのある人たちが尋ねた。どんないきさつでラジオデビューしたのかは聞いていないが、ともかく二人は「オカマの双子」として、堂々と世間に知られるようになっていった。彼らの心の中では、“ゲイ”と胸を張って言いたいのだろうが、あんたたちがオカマって思ってんなら、こっちから言ってあげるわよ、なのだろう。
この番組は兄の淳之介も好んで聴いていたらしく、ある日電話がかかってきて、「おすぎとピーコの区別がついたぞ、ピーピー言うのがおすぎで、比較的おとなしいほうがピーコだ」と嬉しそうに白慢した(p133-p136)