日本経済新聞はどうなってしまうのだろうか?

今日の日本経済新聞の一面は「小沢元代表を強制起訴」。その左側に政治部長宮本明彦氏の「一時代が過ぎ去った」という社説のような、解説記事のような不思議な記事を置いている。読んでみるとますますわからなくなる。いったい何をいいたいのか、不明瞭な記事だ。

まずは、その記事を読んでもらいたい。

一時代が過ぎ去った 国民、権力闘争に嫌気
政治部長 宮本明彦
2011/2/1 2:09

時代が、小沢一郎元代表の前を過ぎ去った感がある。過去20年余り、元代表は浮沈を繰り返しながらも、政局の中心にいた。政治家が小粒になる中で、大きな決断ができそうな風圧をもっていたのも事実だ。念願の政権交代も実現した。ここでまた、権力ゲームに興じてみても、もはや国の衰退を加速させるだけの「コップの中の嵐」でしかない。

一般有権者からなる検察審査会の制度的な問題は、小沢元代表のみならず、一部の識者からも指摘されている。ただ、起訴事実を含め、元代表をめぐる政治資金の流れは極めて複雑で、誰の目にも異様に映る。

昨年10月、検察審の起訴議決を受けた後の元代表の行動も、尋常ではない。手兵を集めて連日のように会合を重ね、忠誠心を測る。「徹底的にクリーンな党に」を理由にダブル辞任を迫った鳩山由紀夫前首相とも、いつの間にか手を握り、現政権批判で歩調を合わせた。

民主党執行部がなすすべもなく、検察審の強制起訴を待ちわびていたのをいいことに、堀をめぐらし、塀を高くして、裁判の長期化を見越した要塞を築いていたかのようだ。時折、要塞の中から出撃しては、自らの言い分を一方的に発信したのも、焦燥感の表れだろう。

確かに菅直人政権が早晩、行き詰まるとみる向きは多い。その時、首相が総辞職を選ぶにせよ、勝算のない衆院解散に打って出ようとするにせよ、要塞さえ構えておけば反撃もできる。

政治家として生存本能が強いのは、政界では美徳かもしれない。が、これが本当に「国民の生活が第一。」の結果をもたらすのかどうかは甚だ疑問だ。

子ども手当や高速道路無料化に代表される民主党のマニフェスト(政権公約)を実現するには、どれだけ財源確保に無理があるか、すでに明白になっている。菅首相でさえ、にわか仕立てとはいえ「税と社会保障の一体改革」を唱え始めた。

2009年の衆院選で圧勝した後、元代表が目指したのは翌年の参院選で過半数を取り、衆参両院の多数を握る完全与党をつくることだった。元代表の周辺には「その時、小沢さんは自分一人で泥をかぶり、君子豹変(ひょうへん)して財政健全化を断行するつもりだった」と解説する人もいる。

話半分としても、いまのマニフェスト墨守の主張は、政略のための方便とみられても仕方ないだろう。これまで歯牙にもかけなかった与野党の政治家に正面から切り込まれたような現状は、元代表のプライドが許さないかもしれない。それも、これまで何人もの先輩政治家が、元代表に対して抱いてきた感情と同じである。

暗たんたる経済、財政状況の中で、昔ながらの内なる権力闘争はもういい加減にしてほしい、というのが世間の偽らざる心情だ。

小沢元代表が敬愛する西郷隆盛は、いうまでもなく明治維新の立役者の一人だが、西南戦争に敗れ、あたかも古い武士社会に殉じるように自刃した。最期の言葉は「もう、ここらでよか」だった。

記事には「権力闘争」という言葉が使われているが、これは民主党内部の「内ゲバ」というべきであろう。真の「権力闘争」は民主党が政権をとってから、ずーと続いていてまだ決着がついていない。

検察、マスコミ大手は保守勢力を守るために小沢民主党に過剰と思われるぐらいに抵抗してきた。小沢も傷んだが、検察、マスコミ大手も傷んでいる。そして「権力闘争」はまだ続いている。政権が交代するというのは、大変なことなのだ。

政治部長 宮本明彦氏が、その「権力闘争」を見据えて記事を書くことはできないのだろうか?重箱の角をつつくような「コップの中の嵐」の記事はもうたくさんなのだが・・・。「内ゲバ」をいくら書いても本質的なものには到達しない。

「一般有権者からなる検察審査会の制度的な問題」について日本経済新聞をはじめとして、マスコミは多くを語らない。したがって、ほとんどの国民はその問題をしらない。逆に、重箱の角をつつくような「小沢氏の事情」には精通している。このようにマスコミは国民を誘導してきたのだ。

例えば、宮本明彦氏は「起訴事実を含め、元代表をめぐる政治資金の流れは極めて複雑で、誰の目にも異様に映る。」と述べている。しかし、ここは正確にのべるならば「政治家をめぐる政治資金の流れはきわめて複雑になっている。」とすべきであろう。「起訴事実を含め、元代表をめぐる」とか「異様に映る」というような姑息な修辞を弄して根本的な制度的な欠陥を小沢氏個人の責に収束させてはいけないと思う。しかし、マスコミはこういうことをいつもやってしまっている。

「昨年10月、検察審の起訴議決を受けた後の元代表の行動も、尋常ではない」とのことだが、この記事こそが「尋常ではない」。座して死を待つ指導者がどこにいるのだろうか聞いてみたいところだ。

「民主党執行部がなすすべもなく、検察審の強制起訴を待ちわびていたのをいいことに」も噴飯もの。これは小沢氏の内ゲバ相手の民主党執行部をさげてしまっているのだ。小沢氏の逆で、なにもしないで、座して死をまってしまっていたわけですね、民主党執行部は。

「時折、要塞の中から出撃しては、自らの言い分を一方的に発信した」というのは小沢氏がニコニコ動画に出演したことを言っているのだろうが、こういう言葉使いにインターネットメディアに対して凋落していく新聞メディアの「焦燥感の表れ」がつい出てしまうんですね。

ま、記事の揚げ足をとってばかりいてもしようがないが、つまり、この記事は小沢氏を陥れようとしているのだが、逆に讃える記事になってしまっているのだ。

「暗たんたる経済、財政状況の中で、昔ながらの内なる権力闘争はもういい加減にしてほしい、というのが世間の偽らざる心情だ。」というのは、そのまま日本経済新聞に言いたいところです。

そして最後の落ちというか決めせりふというのが、

「小沢元代表が敬愛する西郷隆盛は、いうまでもなく明治維新の立役者の一人だが、西南戦争に敗れ、あたかも古い武士社会に殉じるように自刃した。最期の言葉は「もう、ここらでよか」だった。」となるのだろうが、どうにも決まっていない。どんな頭でこのような決まらない記事を書けるのだろうか。しかも、一面に。

政治部長 宮本明彦氏はあまり文章が得意ではないということならば、日本経済新聞一面の一番下にある「春秋」。これを毎日読んで勉強しなくちゃね。

ウィキリークスが暴くもの 番外編

日本経済新聞、今日の中外時評は、ネット流出について語っているが、いままで出た日本経済新聞の意見の中ではまともな方ではないかと思った。というのは、既存メディアとネットの相克関係は今後も続くだろうし、その中で、当事者としての既存メディアの意見はバイアスがかなりかかっていて、なかなかまともには受け取れないと思うからだ。

まずは、中外時評をご紹介。

(中外時評)権力は隠す、しかし… “文法”のない暴露の危うさ 論説委員 小林省太
2010/12/26付日本経済新聞 朝刊
「権力は腐敗する。絶対的な権力は絶対に腐敗する」とは、19世紀英国の歴史・思想家、ジョン・アクトン卿の有名な言葉だ。それをこうもじっても、意味はさほど変わるまい。
「権力は隠す。絶対的な権力は絶対に隠す」
そうであれば、対抗する力がなければならない。不当に隠されたものを「暴く」力である。その力を持つことが、メディアに求められてきた最も大きな役割のひとつだろう。
「暴く」とは、隠されたものを手に入れることとそれを伝えること。取材と報道だ。どちらも長い年月をかけてルール化されてきた。日本でそのルールを側面から補強してきたのが、司法判断の積み重ねである。
「報道機関の報道は、民主主義社会において、国民の『知る権利』に奉仕するものであり、事実の報道の自由は、表現の自由を規定した憲法21条の保障のもとにある。報道が正しい内容をもつためには、取材の自由も、憲法21条の精神に照らし、十分尊重に値する」。1969年の最高裁の指摘は、憲法がメディアの仕事を保障していることを明らかにしたという点で、大きな意味を持っている。
公務員は「職務上知ることのできた秘密を漏らしてはならない」と法律で決められている。一方、メディアは秘密を手に入れようとすることがある。
この点について最高裁は78年、「公務員に対し根気強く執拗に説得ないし要請を続けることは、それが真に報道の目的からでたものであり、その手段・方法が法秩序全体の精神に照らし社会観念上是認されるものである限りは、正当な業務行為というべきである」と述べた。
条件付きではあるが、守秘義務の壁に挑んで情報を得ようとする記者の行為は違法ではないと判断したのである。
その行為を支える倫理の基本ともいえる取材源の秘匿については2006年、最高裁が「取材の自由を確保するために必要なものとして、重要な社会的価値を有する」「特段の事情が認められない場合は、取材源の秘密は保護に値する」との判断を示している。
留保条件はあるにせよ、こうして既存のメディアの役割は安定し、社会的にも認知されてきたといっていいだろう。日本に限らず、こうした仕事のなかからニクソン米大統領を辞任に追い込んだウォーターゲート事件の報道も生まれたのである。
ところが、既存メディアとはまったく別の「暴く」ルートがある。そんなことを改めて思い知らせたのが今年後半に続いて起きた事件だった。
尖閣諸島沖で中国漁船が海上保安庁巡視船と衝突した事件の映像がインターネットの動画サイトに投稿された事件。警視庁公安部の内部資料がネット上に流出した事件。そして、世界を騒がせた内部告発サイト「ウィキリークス」による米外交文書暴露である。
それぞれの性格は異なっている。共通しているのはネットが舞台になっていることと、取材や報道という既存メディアとは無縁の仕組みで情報が流れたということだろう。
既存メディアは取材で集めた情報を吟味し、加工する。真偽の確認。伝えるに値するのはどこか。伝えるべきではないのはどこか。軽重の順序。新聞ならスペース、テレビなら時間の制約もある。そうしたチェックのうえで報道する。ニュースをひとつの文法に沿って受け手に流す、と言えばいいだろう。
しかし、ネットに流出した情報に、吟味の跡はまったくないか希薄だ。情報はナマのまま瞬時に世界中を駆けめぐる。暴くというより、漏らすといった方が当たっている。
事件の背景には、既存メディアが求められている役割を十分に果たしていないという不信がある、との指摘が出ている。批判には耳を傾けねばならない。ネットが情報伝達の有力な武器であるのも確かだ。しかし一方で、事件が示した危うさにも目を向けないわけにはいかない。
一言で言うなら文法のない危うさである。情報は真実なのか。個人を無意味に傷つけ、国や国民の安全を脅かす恐れはないのか。結果的に権力の「隠す」姿勢に加担しないか。そうした視点のないまま、国の秘密も個人のつぶやきと同じ器に投げ込んでよいものだろうか。
既存メディアの文法は長い時間をかけて作られてきた。相次ぐネットへの情報流出は、その文法が通用しない世界の出現を見せつけている。もし文法がないことこそネットの真骨頂だというような見方があるとしたら、それは危うさを助長するものでしかない。

まとめると、ネット流出情報の重要性を評価しながら、後半、ネット流出情報への危惧というか、既存メディアの優れた点の記述してバランスをとっている記事なのだが、素直に読めば、後半の既存メディアの優れた点こそが、実は既存メディアの限界を露呈したものであることがわかる。

反権力という旗の基に築き上げてきたメディアの存在価値は、逆にいうと権力との協力関係を築きあげてきたということに他ならない。上記の記事には、一流大学出のエリート記者が、東大出身のエリートとの緊張関係でつくりあげた強固な権力構造について語ったものであり、下々の姿はみごとに省略されている。記事で語っている”危うさ”は”権力の危うさ”である、”危うさを通り越してる下々”にとっては、”危うさ”ではまったくなく、それこそ、危うさを作り上げてきた犯人をあぶりだす手段になるかもしれないのだ。

“文法のない危うさ”に解を求めざるを得ない記事は、権力の発するSOSを露呈しつつ、なおかつ、いまだに解が見出せない権力の焦燥をもあぶりだしているといえよう。

中国で大ヒット 旭日陽剛(旭日阳刚)の春天里

日経新聞に次のような記事があったので早速視聴してみると、いい楽曲だと思った。これは、チャイナブルースだな。

中国の出稼ぎ労働者バンド、社会の悲哀熱唱

カーテンがはがれた粗末な部屋に、丸刈りに上半身裸の男が2人。1人がギターを激しくかき鳴らし、たばことマイクを手にした別の男が思い入れたっぷりに声をからす――。中国で出稼ぎ労働者(農民工)出身の素人バンド「旭日陽剛」が注目を集め、インターネット上の動画の閲覧回数は100万回を超えた。
「お湯をいつも使える家には住めない」「頼るものが何もない年寄りにしないでくれ」。河南省出身の44歳と中国東北部出身の29歳の2人が歌うのは、成功した男が貧しくも楽しかった過去を振り返る姿を描く「春天里」。数年前にある歌手が発表したが、貧しい農民工の熱唱により社会の格差や悲哀を嘆く歌へと印象を変え、人気が沸騰。14日には本家の歌手のコンサートに招かれ、8万人の観客の前で歌声を披露した。
過酷な生活に身を置く農民工だけでなく、物価高騰などに悩む都市住民の人気も集めた。江蘇省社会科学院の陳頤・社会研究所長は中国メディアに「2人が現実と理想の巨大な落差を歌ったことで、人々の間に公正な社会の実現を求める機運を呼び起こしている」と指摘している。
動画サイトには共感の書き込みが後を絶たない。「同じ下層社会に暮らす2人の歌声に心が震えた」とある農民工。都市住民は「開発を支える農民工が受ける報いはあまりに少ない」と指摘。「我々も働くほどに貧しくなる社会の辛酸を味わっている」と訴える会社員もいた。(北京=尾崎実)

粗末な作りの部屋での熱唱、途中で列車が走ったり、近所のおばさんの声なども入っていて、臨場感たっぷり。立派なスタジオ設備がなくても、素材が優秀なら、ビデオ投稿でも十二分にヒットがねらえるということかな。