ヨガと超心理 本山博

ヨガと超心理―ヨガ,超心理,鍼炎医学 (1972年)を読みました。

これは講演をまとめたものということで、読みやすかったですね。本山さんの著書はなんどか手にする機会はあったのですが、なかなか難しくてあまり読めませんでしたが・・・。

この本で、今の自分にマッチした箇所は、呼吸と念力の部分でした。

今回は呼吸の第四段階プラナヤーマの部分(p24-30)をご紹介しましょう。

第四段階プラナヤーマ(呼吸法)
次が第四段階の呼吸法、プラナヤーマです。プラナヤーマのブラナというのは、字宙に遍満している神命の気、生命力ということです。先す呼吸の方法について、種々ある方法のうちの基本的なものの一つを話してみましょう。
シッダアーサナ或はパドムアーサナの姿勢で、先す片方の鼻孔から空気-気-をゆっくり吸い込むのです。左でも右でもかまわないから、片方の鼻孔で吸う。ロではだめです。ゆっくり四秒程かけて吸い込みます。その際、胸式呼吸ではだめです。腹の中に気を吸い込むという気持で.腹をゆっくりふくらませる腹式呼吸をしなけれぱなりません。その時、喉の中の前側にある気管を通じてでなく、後側の食道を通じて空気を胃の中に吸いむ込ようにすると、うまく自然に腹がふくらんで腹式呼吸ができます。食道に空気を吸い込むには、咽頭の所で後の壁に沿うて空気が流れ込むようにします。そうすると、後の壁に沿うて冷たい空気の流れるのがよく解ります。そうすればうまく食道を通じて空気が胃の中へ入り、腹式呼吸ができ、腹が自然にふくらみます。空気を食道を通じて胃の中に吸い込む時に、今宇宙に漲っている神の気を吸い込んでいるのだと思うことが大事なのです。そうして四秒程かけてゆっくり空気-気ーを吸い込んで、腹がふくらんでくると、そのふくらんだままの姿勢で神の気が丹田に溜まっているというふうに思って、八秒ぐらいそのままの姿勢で止めておくのです。次は息を止めたままで、腹をグッと凹ませて、肛門をギュッと締めて上へ上げます。肛門をギュッと締めて上へ上げながら.眉てい骨の中にあるクンダリニの力-」これは要するに先天の原気と申しますか、生命の根源力というようなものですーを丹田の所、腹の内へ引っぱり上げてくる。そしてそこに溜めてあった神の気ーブラナーと一つに混ぜる、合わすわけです。その間八秒ぐらい、息を止めたままで行ないます。最後に、今度は凹ませてあった腹を普通の状態に素早く戻し、吸う時とは反対側の鼻孔からゆっくりと四秒ぐらいで息を吐きます。その時、自分の中で生じた、神の気と生命の根源力を一つにした宇宙の最も根源的な力を、今、外の世界に与え漲らせつつあるのだというふうに思うことが肝心です。これはは自分の中で元通りにされた宇宙の一なる力を、自分以外の凡てのものに分かち与える愛の行とも言えるものです。
以上で一呼吸が終わるわけですが、全体で二十四秒かかります。ということは、一分間に二回半から三回ぐらいの呼吸回数ということになります。こういう呼吸を七回ないし十四回、或は二十一回というふうに七の整数倍行うのがよいと言われています。それはヨガに、身体と精神を媒介し統一する微細身というのがあって、その微紬身にチャグラというのが七つあり、そのチャクラの働きによって我々の生命が保持されているとヨガは教えるのですが、そのチャクラをもっと活勤させ、生命力を旺盛にするには、右に述べた呼吸法で、神の気とクンダリニの力を一つにした宇宙の根源力を、一つ一つのチャクラに集中するとよいと言われているのによるのです。即ちチャクラは七つあるわけですから、七の整数倍だけ呼吸をすることになります。初めの間は、七~十四回が適当です。それ以上の回数をしますと、頭痛等が生じます。慣れると徐々に回数を増やすといいと思います。
右の呼吸法をしただけで、かなりの程度に病気は治ります.次に、ブラナヤーマをするだけでどうして病気が治るかという理由を、少し話してみたいと思います。このプラナヤーマでは、臍の下の丹田にいつも意識が集められており、腹式呼吸が行なわれます。道教では、「頭を空にして丹田に心を集めよ」ということがよく言われます。これは、人間は日頃常に頭を使って意識ー心ーを頭に集めている。ところが心を頭にのみ集中して使いすぎると.気が頭にのぼり、胃病、心臓病等の種々の病気が生じやすいこと-現代病と言われる心臓病、胃病、ノイ日ーゼ等が頭脳労働者と呼ばれる管理織等に多いことは、上の遣教の教えと合致するものですー、及び心を頭でなく丹田-腹-に集あることによって、気が下に下がり、気力が充実し、身体が健康になることを体験的に知っていたことに基づく体験的知慧だと思います。ヨガのプラナヤーマでは、右の道教の教えと全く同じことが行なわれている、従ってプラナヤーマで健康になるわけです。次にヨガのブラナヤーマでは、丹田に意識を集めるだけで疲く、丹田の所にプラナを導入し、止息して貯え、腹を凹ませてクンダリニのエネルギーとプラナを一つにし、次に吐気をするという腹式呼吸をします。この腹式呼吸が、健康を大いに増進するのです。その理由を少し話しましょう。
胃の右後方で横隔膜の下に太陽神経叢いう重要な神経叢があります。これは胃、腸、腎、肝、膵、脾等の腹部の諸臓器に神経を送り、これらの機能を支配する重要な神経叢で.腹の中の脳-腹脳-だとも言われます。右のプラナヤーマをしますと、腹圧が高まり横隔膜を刺戟し、更に太陽神経叢を適当に刺戟し.腹部の諸内臓の機能が活発になります。それによって健康が増進されます。またブラナヤーマでは、腹を脹らませたり凹ませたりして腹筋を運動させます。これが、腹部に多量に溜まっている静脈血等を心臓に送り還すことになります。というのは、腹部の静脈管は腹筋の運動によって、静脈血を心臓に送り還すポンプの役目を増大されるからです。腹部に多量に静脈血が溜まりますと、身体全体に新鮮な血の循還が不十分となり種々の病気の原困となります。逆に腹部の多量の静脈血が心臓に還流し.肺に行き、酸素を吸取した新鮮た血となって体内を還流する時、身体の各臓器、組織は十分にその機能を発揮し、身体全体が健康になります。上のような理由で、プラナヤーマに含まれている腹筋を脹らませたり凹ませたりする方法も、健康を増進するのには大いに有益なわけです。
以上のような種々の理由で、ブラナヤーマをするだけでも健康になるということがわかって戴けたかと思います。ほかにもプラナヤーマをすることによって健康になるという理由があると思いますが、→応、上述のような理曲の説明だけに止めて、次の間題に移りたいと思います。
以上ですが、今の自分には非常に大切な事柄が書かれておりました。例えば、「シッダアーサナ或はパドムアーサナの姿勢で、先す片方の鼻孔から空気-気-をゆっくり吸い込むのです。」と書かれているのですが、まずこの箇所を読んだら理解できないというか、わからなかったものと思われます。なぜ片方の鼻なんだと??で終わっていたものと思われます。
自分は今、結果的にこのような呼吸をしている最中でした。”ひょっとこ”のように顔面をつくると片方の鼻から呼吸ができます。
なぜこのような呼吸をしているかというと、たまさか「喉の中の前側にある気管を通じてでなく、後側の食道を通じて空気を胃の中に吸いむ込ように」するためでした。それはなぜかというと、自分は蓄膿症気味でうまく呼吸ができずにいたのですが、それが治りつつある-たばこを止め(20年ほど前)、姿勢を正すことに意識していた結果だと思われますが、それはさておき-、その結果、喉に負担をかけないようにすれば、さらにリラクゼーションというか、体に弛緩をあたえることができるのではないかと模索していたことがこの呼吸法を模索することにもなっていたのです。
そういうことだったので、ハタと膝を打つようなことでしたね。習い事は師に出会わなければダメといわれていますが、全く持ってその通りだと思います。師はそのように存在を通じてさまざまな事を教えてくれるからでしょう。師がいない自分にとっては、このような箇所に出会うことは非常に大事なことなのです。
瞑想をするようになって20年以上も経ちますが、現在やっと理解できるようになったことも、師がいれば、もっともっと早く理解できるようになっていたのではないかと思います。

瞑想体験 #6 光の前で躊躇するということは

光の中に入ることに躊躇するということは・・・。

などと考えつつ家の中を歩いていたら、本棚にぶつかって、落ちてきた本が一冊。

流体感覚-吉福伸逸、対談集でした。ぱらばらと読み始めたら、冒頭の松岡正剛氏との対談「アルタード・ステイツと自己編集」で、アルタード・ステイツ(変成意識、同名タイトルの映画も創られた)を説明しているのだが、この「アルタード・ステイツ」を「瞑想の光の中に入る」と読み替えることもできるかななどと考えてしまった。

光の中に入る=自分を明け渡す瞬間

本書10頁より始まる箇所を以下に引用しますので、興味のある方はご検討下さい。

アルタード・ステイツと自己編集
変成意識と治癒力

吉福◎・・・今日は「アルタード・ステイツと自己編集」というテーマで松岡さんと話をするわけですが、ぼくがアルタード.ステイツという概念を出したときに、自己編集という概念を対置して出されたのはセイゴオさんです。

松岡◎・・・ぼくはアルタード・ステイツというのも好きなんですけどね。

吉福◎・・・ぼくたちはどうもそういう異常性が好きみたいですね(笑)。アルタード’ステイツというのは、日本語では「変性意識」というふうに訳されている概念なんですね。1960年代に出てきた言葉です。

松岡◎・・・最初は誰が言い出したんでしたっけ。チャールズ・タートだったかな。

吉福◎・・・タートが定義だけしたのが最初だと恩います。それまでは、西欧の心理学にしろ宗教にしろ神学のようなものしろ、アルタード・ステイツという概念にあてはまるような概念はあまりなかったという気がするんです。

松岡◎・・・ないかもしれないですね。正確には、やはり神がいる時代には変成意識にあたる言葉があったのかもしれないけれども、神なき時代になって以降はなくなったんでしょうね。

吉福◎・・・そうね。セイゴオさんがおっしゃるように、神という概念とのからみでは十分にそれに該当する概念がありえたと思うんです。探せばどこかにあるかもしれないけど、広くは使われていないと思いますよ。

で、この変性意識という言葉がいったい何を意味しているかというと、基本的には非常に単純なことなんです.いまわれわれは目を醒まして起きていて、白分の存在に気づき、自分をとり囲む外界の存在にも気づいている。ある種の境界線をもって世界と触れ合っている。こういう意識状態のことを、一応「ノーマル・ウェイキング・ステイツ」と言う。「正常な目覚めた状態」というふうに呼びます。これを目覚めた状態と呼んで、それ以外の状態はすべて変性意識だ、というのが基本的な変性意識の定義です。ということは、眠っている状態、夢見の状態、あるいは半睡半眠の状態、そのほかにもアルコールに酔っている状態、サイケデリックスを摂取した状態、極度に睡眠を剥脱した状態、さらには感覚の過剰刺激を受けている状態、感覚が剥脱されている状態のようなものも、すべて変性意識状態というふうに定義上はいわれていると思うんです。

松岡◎・・・そんなに広かった?

吉福◎・・・タートの基本的な定義では、まずそうやってテクニカルに定義しまして、その上で、さらに「状態特定性」という言葉をもち出してきて細かく分けていくんです。ぼくが今日、あえて取り上げたいと思っている変性意識状態というのは、そこまで広い概念ではなくて、一般に神秘体験であるとか、宗教体験であるとか、あるいはトランス(憑依)状態であるとかと呼ばれるような、ある種合理的な白己統制が外れてしまって、意識そのものがそれ字体のセルフ・オーガナイゼーション(白己組織化)をおこしていく状態についてなんです。

松岡◎・・・その途中の、差し掛かりというんですかね。

吉福◎・・・差し掛かりでもいいですが、そのあたりをぼくは重視しているんです。変性意識にもさまざまなものがあって、中には退行現象(リフレッション)と呼ばれる、幼児回帰していく状態もありますし、さらにはより成長して行くような状態もあります。しかし、変成意識状態はどんな状態であれきわめて治癒的ですから、ぼくはそれを区別する必要はないと思うんです。事実、各種のセラピーの現場などでは、変成意状態は非常に高い治癒力を持っていて、退行現象であれ幼児化であれ、あるいはどんなネガティブなものでも有機体には益になるようにはたらくことがあるんです。

松岡◎・・・ガタリにあったときに、彼はそういうネガティブというか、少し危ないアルタード・ステイツに関心を持っていると言っていましたね。「狂気」というものに積極的な意味を認める入たちは・アルタード・ステイツと狂気とは非常に近い関係にあるというふうに見るんだけれど、まあそのあたりは難しいところですね。

吉福◎・・・識別して、境界線を引いていくことは非常に難しいですね。で、さっきいったようにあらゆる変成意識状態は内容がどんなものであれきわめて治癒的な、ポテンシャリティを持っているという事実は見逃せないと思うんです。ただ、これまでの変成意識というもの対するアブローチの最大の間違いは、変性意識状態のおこる内容にこだわってしまう点にあるんですね。

松岡◎・・・そのヴィジョンとかにね。

吉福◎.,.そうです。ヴィジョンであるとか、その意識状態においておこるその入の特異な振る舞いとか、あるいは社会との適応力の激減状態とかね。そういったことにこだわってしまって、多くの人がその内容に驚異を感じる。例えば、一種の憑依状態なんかがおこって、目の前でトラに憑依した人が吠えて暴れ始めますと、やはり危険を感じるわけですよ。そういうかたちで、どうしてもその内容に目が引き寄せられていく。そのために、これは危ないって発想しやすいんですけど、変性意識状態の大切なポイントは、内容ではなくてその状態になることにある。そのことが当人にとって非常に必要なことであって、どんな内容であれその内容をすべて当人がきちんと体験しきることができれば、さっき言ったように強力な治癒のカになり得るんです。

そのあたりが、これまでの伝統的な心理学や宗教の、変性意識に対するアプローチの欠落点ですね。60年代以降になって初めて、重要なのは内容ではなくてそのプロセスなんだと考えて、しつかりとその変性意識状態を歩みきることの意味合いというようなものが知られるようになったわけです。

自分を明け渡す瞬間

松岡◎・・・アルタード・ステイツ』という映画が出てきて、ジョン・C・リリーが例のアイソレーション・タンクの中に入った体験という話が出てくる。あれも一種の憑依現象がおこる映画だったけれど、あれでずいぶん言葉は一般化しましたね。

吉福◎・・・いまセイゴオさんがおっしゃったように、あの映画はジョン・C・リリーを一つのモデルにしてつくられたものです。リリーという人は、フローテーション・タンクとか、サマディ・タンクとか、アイソレーション・タンクと呼ばれる、感覚を徹底的に遮断して、浮力の強いマグネシウム液に浮かんで無重力状態になる、隔離タンクを発明した人ですね。その隔離タンクの中にサイケデリックスの一種であるLSDを飲んで入るためにつくられたんです。あれはその中でおこった退行現象の一つですね。それを逆にたどつて映画にしたのが、あの『アルタード・ステイツ』という映画です。あれもアルタード・ステイツの典型的な現象の1つでしょうね。でも、あの映画でこの言葉は有名になったんだけれど、異様なものだというイメージも拡がってしまった。

松岡◎・・・ぼくはアルタード.ステイツというのは、さっき「差し掛かる」と言ったけれども、ポゼッションになったり、完全なトランス状態ももちろん含まれるんでしょうが、どうもその直前の状態がアルタード.ステイツだというふうにみていたんだけれども、実際にはそこまですべて含むんだね。

吉福◎:・全部含みますね。その変性意識状態に完全に入ってしまうと、白分を手離す、つまり明け渡す瞬間がやってくる。おこってくるプロセスに自分を完全に明け渡す瞬間というのは、非常にドラマチックな瞬間なんですね。で、多くの人が本格的な治癒をおこすことができない理由は、そこに差し掛かったときにたじろいでしまうからなんです。理性によるコントロールを外すことに対する抵抗感から、たじろいで、後退りする。後退りしますと、治癒や成長につながることがおこりにくくなってしまうんですよ。

松岡◎・.・例えば、とくにいまの人たちはそういうところに入るのを恐がるというか、たじろぎますね。そのためにどうしているかというと、映画とか小説とかゲームとか、つまり遊びですね、そういうものの助けを借りる。本来アルタード,ステイツというものは自分の意識と身体の中でおこさなけれぱいけないことなんだけれども、ある意味ではコミュニケーションとか、それから娯楽とか、そういった中で擬似的にアルタード.ステイツを体験するという文化が、いま非常に蔓延しているわけですね。別にそれが悪いことだとぱ思わないけれども。

しかし実際に、映画を見ると泣けるとか、ゲームをやると夢中になって白分が乗り出してやってしまうとかという体験は、時間がきっちりと限られているわけです。スイッチが入ってさあ始まりました、スイッチを切れば終わりですという安全装置がはたらいている。いわば擬似アルタード.ステイツという文化的保護装置化されていると思うのね。シンちゃんが言っているのは、それでは本当の治癒にはならないということですね。実際に一人でそういうところに立ち向かわなければ意味がない。

吉福◎・・・全くそうだと思うんです。セイゴオさんが言ったように、視覚とかを使った文化メディアというものは、疑似アルタード・ステイツをつくるものですね。

松岡◎・・・これから、ますます流行ってくるね。

吉福◎・・・流行ってきますね。ぼく自身も、そういう文化を否定しているわけではないし、ある意味で非常にいい面もあるとも思うんですね。なぜかというと、それまでアルタード・ステイツに入って実感していた世界を、ビジュアルに再現して見せることができるようになる。さらに、それを視覚だけにとどめず、聴覚、嗅覚、触覚など、五感全体にわたって、アルタード・ステイツで多くの入が体験してきた共通の要素を取り出してきて、意識的に対象化してみることができると思うからです。それは使い方次第では非常におもしろいものですけど、セイゴオさんがおっしゃったように、白分を安全な場所に置いたところでやれるという、ただの真似事だけに終わってしまう可能性もあるわけです。

誕生を記憶する子供たち - 赤ちゃんの意識の使い方

意識の使い方について少々。

こういうことがありました。背中がとても痒くなって、掻こうと思うのですがなかなか手が届きません。かろうじて手が届いたら、痒い場所が、皮膚の中のほうで、掻いてもかゆみがとうなるわけでもなくて、とても困ったことがありました。気にしないようにしても、かゆくてかゆくてどうしようもありません。

仕方がないので、意識をそのかゆい部分、皮膚の内側深い部分に集中して。具体的には、かゆみをさらに感じるように意識を持っていったのですが、そうするとそのかゆい場所がどんどんと移動していきます。移動したあとをさらに意識で追いかけていくとかゆみがなくなってしまいました。後日、ある気功の本を読んでいたら、同じようなことが書かれていて納得したことがあります。

どうやら、意識にはいろいろな状況、状態、使い方があるようで、それらを前提に世界観というものを考えると、現代人はかなり窮屈な世界観を用いているようだ。瞑想すると、意識の多様性というものに気づきやすくなるかもしれませんね。

先ほど捜しものを探していたら、「誕生を記憶する子どもたち」という書籍が落ちてきたので(私の部屋はあまり整理されていないので本がよく崩れます)、なかを見たらおもしろいことが書かれていましたので、下記に紹介します。赤ちゃんの意識の使い方についてです。

ウィリアム・ジェイムズは1890年の著書の中で、ふだん働いている私たちの意識は、意識の一タイプにすぎず、その周囲には、「薄いスクリーンで仕切られたように」まったく違うタイプの意識が潜んでいると述べ、その例として、睡眠、夢、白日夢、催眠状態的トランス状態、瞑想、さらにテレパンーや千里眼や霊媒状態といった超感覚的状態をあげている。
1970年代には、精神と意識への関心が爆発的な高まりをみせ、ジェイムズのいうような潜在的意識に、あらたにバイオフィードバック、幻覚剤、呼吸法、臨死体験などでもたらされるさまざまな精神状態も加えられることになった。さらに、深いリラクセーションやイメージ法、瞑想、催眠などを用いた新しい実験が行なわれた結果、出生や子宮内の記憶にまじって、前世の記憶やそのほかさまざまな超感覚的知覚(ESP)も次々と認知されることになった。新生児のこころは、こうした可能性のすべてを秘めているのである。
[赤ちゃんのトランス状態]
赤ちゃんをよく観察していると、ときどき白分からトランス状態に落ちていくのがわかる。心理学者は「凝視の発作」と呼ぶこともある。二〇~三〇秒間、からだや手足はもちろん眼球や顔の表情まで完全に動かなくなる。声もたてない。眼は開いているが、焦点は合っていない。やがてまばたきを一つしてこの状態は終わる。おとなの場合、こうした状態は白己催眠と呼ばれるが、赤ちゃんの場合も同じような目的で現われるようだ。つまり、休息や、苦痛や退屈からの逃避のためであったり、過去の体験に没入しているとき、あるいはただ楽しみのためにするらしい。したがって赤ちゃんがトランス状態に入れるというのは、なかなかのものというべきだろう。夢」と同じように、トランス状態も、また他の変性意識状態も創造的な精神活動であり、高度な自己統制法だからだ。(P278-279)

瞑想体験 #2 般若心経を暗唱しましょう。

桑田二郎さんのマンガエッセイ般若心経は何度も読み返した覚えがあります。そのうちに、お経を唱えるようになりました。カセットテープを購入して聴きながら覚えました。

般若心経とは、簡潔にいえば、瞑想呪(じゅ)の勧めのお経です。瞑想することにより、世界が色即是空であることを悟り、呪を唱えることで苦しみから解放されるのです。呪とはおまじない。お経の最後の部分がそうです。おまじないはそれ自体がありがたいものですから、訳さないで、サンスクリット(?オリジナルの言語)のまま唱えます。有名な「ぎゃてぃぎゃていはらぎゃていはらそうぎゃていぼじそわか」の部分です。

ですから、韻とかリズムとかも大事な要素なので、カセットテープで聞いて覚えたのです。いまなら、インターネットで簡単に聞くことができます。「般若心経 mpg」で音声ファイルが検索できますので、好みの音を聴いてみるとよろしいかと思います。

一応、リンクをここに貼っておきますので、参照下さい。

おまじないというと、馬鹿にされることが多いと思うのですが、多くの人がはるか昔から唱えられてきたということにはやはり価値があると思われます。

シェルドレイクの仮説形態形成場百匹目の猿などのキーワードを調べてもらえば、理解しやすいかと思います。興味のある方は是非リンクを辿ってみてください。

ある意味、瞑想とは意識を変えること、トランス状態になることです。韻を含んだり、リズムを取ることで、人は容易にトランス状態になります。トランスミュージックとか、ミニマルミュージックテクノなどの効能はよく知られたところでもあります。興味のある方は是非リンクを辿ってみてください。

また、お経を詠むことは、声帯を振るわせることになります。これは、脳に振動を与えることにもなり、さらにトランス状態になりやすくなります。般若心経の最後のおまじないの部分は、やけに濁音が続くと思いませんか?濁音で振動を大きく与えている意図も有るのではないかと思っています。

瞑想とおまじないの般若心経。まずは、暗唱できるようにしましょう。短いお経ですので、それほど難しくはありません。ついでに(といってはなんですが)、お経の意味を知るのもいいかもしれません。般若心経の解説本は沢山あります。どれもそれなりの意味があります。もちろん私は桑田二郎氏のマンガをお薦めしますが、それほどこだわってはいません。またインターネットで検索して解説を読んでいってもいいでしょう。

ということで、今回はこれまで、

禁じられた知―精神分析と子どもの真実 /アマゾン投稿

忘れもしない、私のアマゾンのレヴューデビューは禁じられた知―精神分析と子どもの真実でした。残念なことにこのレヴュー、しばらく前から文字がかぶってしまい、読めなくなっていたのです。

今日、たまたま昔のパソコンをいじっていたら、オリジナルのファイルが見つかりました。念願の修正を施すことができ、アマゾンのサイトで読むことができるようになりました。これも何かの縁でしょうから、この場にも掲載しましょう。

以下がそうです。

幼児期に体験したことが大人の無意識内部に蓄えられており、精神病症状として表現されるという事実はまず、ジクムント・フロイトによって発見されました。フロイトは自分の扱っていたヒステリー患者の全てが、子供時代、性的に弄ばれた経験をしていることに気づき、そこからこの事実に至ったのです。ところが、フロイトはまもなく、自分の患者の言うことを信ずるのをやめてしまい、患者が子供時代、性的に弄ばれたと語るのは単なる幻想であるとみなすことに決め、衝動理論に転じていくのです。

著者アリス・ミラーは、ただひたすらさまざまな例を紹介しながら、そのフロイトの転向を告発し続けるのですが、きわめて説得力があり分かりやすいのです。そして、フロイトの転向による問題はかなり明快に論破しています。フロイトを難しく考える方にはお勧めです。

昨今、日本でも小学生誘拐、拉致事件などが勃発していますが、原因を調べる上では、この本の、『個性的虐待は、世代を超えた連鎖の結果』という視点は重要です。

また、100ページ以上にわたる、有名な「変身」の作者、フランツ・カフカの分析は圧巻です。下手なミステリー顔負けの推理ともいえる分析は、スリル満点でした。カフカに興味のある方は必読です。

500ページ近くのボリュームですが、集中が途切れることなく最後まで楽しめました。アウシュビッツロリコン、渋谷の小学生誘拐、新潟の中学女子生徒拉致、家庭内暴力など、社会問題から文学まで、この本の関与する問題は今後も多発し続けることでしょう。

アマゾンへのレヴューはそこそこ書いています。実名で書いてますので、禁じられた知のレヴューから辿ってもらえればすべて読むことができます。禁じられた知は記事がだぶってしまいましたが、いままで読めなかったのが読めるようになったと言うことで、勘弁してもらいましょう。他はだぶっている記事はありません。すべてオリジナルです。

で、なんでこの本を読んだのか考えていたのですが、多分ファミリー・シークレット―傷ついた魂のための家族学を読んだ後に書店(東京駅前の八重洲ブックセンター)で類書を見つけ購入したのではないかと思います。ですから、1995年頃に読んだのですね。15年前か。

いずれもおもしろい本でしたね。ファミリーシークレットは家族間に秘密は保てないという本です。とはいっても秘密のない家庭は多分ないと思うのですが、ところが当人は秘密を隠し仰せたとおもっても、家族には伝搬し、とくに親の秘密は子供に結実してしまうという内容でした。いわゆる「親の因果が子に報い・・・」というようなものです。仏教で言う「業」ですか・・・、この業を絶つのがある意味人間の使命でもあるというような話はききますね。親と子は本当に長い間一緒にいるわけですから、どうしても似てしまいますよね。始末の悪いことに当人同士はそれがわからないわけです。当たり前だと思ってしまう。意識して自覚しない限り、死ぬまで業を背負ったままなのです。「かわいい子には旅をさせろ」といいますが、これは子供のためであると同時に親のためでもあります。

話がそれてしまいましたが、まぁ、難しい本なのにどうして私が読むことになったのかはそのようなわけです。ファミリー・シークレット―傷ついた魂のための家族学は書店で展示されている本を立ち読みして購入しました。おもしろい本は、結構覚えているもんですね。