アドビ イラストレーター(Adobe ILLUSTRATOR)で金剛頂経

いつかは使おうと思い、そのままパソコンに眠っていたアドビイラストレーターですが、いよいよ今回使ってしまいました。よかったよかったです。

きっかけは、前回ご紹介した、「ラモス久美子-お父さんのヨガ入門講座」。早速使おうと思い、イラストレーターを起動するも、全然わかりません。こういうこともあろうかと、ブックオフで購入していた中古教則本もながめてみても、・・・わかりません。昔はこうではなかった、やはり歳か・・・、と思いつつ、しかし使えない。でも、チラシはつくらなくちゃ。

ということで、使い慣れたマイクロソフトのPHOTODRAWでまずは作成。これはあっというまでした。で、作業をながめてみるとほとんどテクスト 、文字列操作です。それではと、教則本、これはX-MEDIA社のILLUSTRATOR CS MENU MASTER(タイトルは何で英語なんだと今、気がつきました)。関連項目は数ページです。さらさらと読んでなるほどと納得。それから、PHOTODRAWの内容をILLUSTRATORにコピー&ペースト。もちろん、不具合などありますので、その都度修正しつつ、関連項目を読書、もしくはググッてようやくチラシを作成。

実際、移植作業をしてみると、癖はあるもほとんど同じような感触でした。ですから、PHOTODRAWを脳内で置換するようにしてILLUSTRATORを操作できるという感覚が残りました。今回はこれで充分です。

ヨガチラシヨガチラシ裏面をクリックしていただければ、チラシがPDFファイルで見ることができますので、お試しください。

今回、よくわかったことは、これからの学習とか勉強は一から始めるということよりも、経験知を利用して行うようにしたら良いということです。今回はPHOTODRAWの経験を利用したわけですが、この経験がない場合は、もうすこし、深く潜在意識をただよえば、集合無意識部分に到達できるかもしれません。そこからILLUSTRATORの経験知を利用するということもあながち不可能な事ではないかもしれません。

ただいま、和訳 金剛頂経を読んでいるところです。これは二回目、一回目は何がなんだかわかりませんでしたが、いまはややわかりつつある。これはある種の「憑依」を意識的におこなうものなのです。たとえば、金剛菩薩をイメージし、そのイメージを自身に憑依させる。そうすれば、自分は金剛菩薩とおなじような力を発揮することができる。ま、ざっくりと説明するとそういうことです。ある種の危険性もありますので、取扱注意だな。安全なところでは、今回のように、illustratorをphotodraw経由で自身に憑依させるところぐらいでしょうか。

エンディングノート 映画、アイディアは買うも65点のでき。残念だ。

映画エンディングノート見ました。タイトルがダメですね。ダイイングノート、死者の帳面とかいいんじゃないのかな。スターティングノートでも可。エンディングノートはよくない方の部類だと思う。一体、何が終わるのか。

最後の息を引き取るシーンだが、全然元気です。まだまだ生けたなぁと思う。本当の臨終なんかあんなモンじゃない(本当の臨終でしたが)、余力を残しつつ去っていったという感じだな・・・、というか、勢いで、仕方なく死んでいったという感じがします。シーンでは5日後、スクリーンに夕焼けが映し出されて、ああ行ったんだと思いました。

長男が親父とにていて完璧主義者というか、業務遂行に勤しんだというか、臨終の確認を親父にしているのだが、それって、「もう死ぬんだよ」という宣告になっているのに気づかないのかなぁ、親父も「ああ、俺は死ぬんだと」と思ってしまっていますよ、画面上では。医者の先生も始め、家族、カメラマンや監督やらが既に「親父は死んでいる/-死につつある」モード全開では、五日目に親父はへたってしまうよなぁ。追い込まれるように、迷惑をかけないように気遣いながらさっさと死んでいったというかんじがします。五日もたっちゃなあ、という空気になってしまっていましたが、実際にはあれから1ヶ月ぐらい生きても全然普通です。

「親父は死んでいる/-死につつある」モードの下で、親父は配偶者(奥さん)に「愛してる」何て言うんだが、「愛してる」なんて言っちゃダメ。そもそも「愛してる」なんていう言葉は純粋の日本語じゃない、翻訳言葉ですから、心の入るものじゃない。似非戦後民主主義で、日本の男子は奥さんに「愛してる」といわないのはダメなんてことが喧伝されていたから、最後に言ってみたかったんだろうが、そんな日本語はニセモンです。愛してるなんて日本語はないんですよ。そんな使ったこともない「愛してる」を言ってしまったら、死んじゃうしかないでしょう、生き延びたら恥ずかしいと思うよ、しかもフィルム回っているし・・・。

家族を始めとして、周りがエンディングモードに突入しているから、どうにも逃れることもできずに去っていってしまいました。環境の力というのは強いから、なかなか打ち勝てないよね。芝居のモードは善し悪しなんです。お笑いの芝居で、なんとしても死ねないというストーリィをなぞれれば、それなりにいけちゃうんですがねぇ。そんな話なかったんですかねぇ。

担当の医者も経験不足でしたよね。途中で臓器が三倍ぐらいに肥大しているという説明の箇所がありましたが、ガン細胞が増殖してそうなったらしいのだが、それに対する医者のコメントは「不思議なのはそれなのに本人は元気なんですよねぇ」と宣っているだけです。そういうところは、もっとアクセントをつけて「奇跡ですよ」ぐらいは言ってあげて欲しいなぁ。「これは治るかも!?」ぐらい言えば、もう一年ぐらい長生きしたかもしれない。一年ぐらい長生きすれば、革新的な新薬が登場するかもしれないし、先の事は本当にわからないものですからね。3月10日に3月11日の津波なんか誰も信じないでしょうが、事実は小説よりも遙かに奇なりです。起こらないことが当たり前に起きるのが現実なんです。しかし、担当の医者は若くて、そういった奇跡らしいものに遭遇することもなかったから(実際はどんな人でも奇跡に類した事象には遭遇しているはずなのですが、ほとんどの人は分からない)、全然サプライズのない日常に場を置き続けたんですね。残念です。

親父さんの問わず語りで、ソニーのテープレコーダーが開発されたとき、テープの素材になる材料をつくっていたのが、親父さんの会社だけだった。てっきり注文が来るものとおもっていたら、土壇場で外国のメーカーに発注がいってしまったという思い出を語っていましたが、それがこの映画、エンディングノートの「キモ」なのかもしれない。

座して待ったとおりに物事は治まるものではないのだが、親父さんは、最後まで待ち続けてしまったのかもしれない。創り出したスケジュールは一人歩きを始めて、物事を収めてしまったのかもしれない。そんな、机上の予定やスケジュールをまじめにたてて、なおかつ、まっとうにこなすという事は、戦後民主主義の幻影の一つで、高度経済成長やバブル期までで吹っ飛んでしまっているのだが、そういう幻影に縛られ続けたのかも知れないなぁ。

そもそも、親父さんは「死ぬ」ということにどういうイメージを持っていったのか、わからなかったなあ。まだなかったのかもしれない。途中、「あの世はどんなところですか?」という問いが、親父さんに向けられるのですが、それの答えは「秘密」というものでした。毅然とした答え方ではなかったので、まだはっきりとしたものはなかったのだと思います。キューブラー・ロスは「最終的に自分が死に行くことを受け入れる段階」として死の受容のプロセス(否認→怒り→取引→抑うつ→受容)を表しているが、そのようなものはこの映画では見られなかった。実際には、スケジュール化で紛らわされていたのではないかと心配してしまうのだが、どうだろうか。

映画館入場の際に清月記製作の「エンディングノート」渡されました。そうか、高度経済成長やバブル期の戦士たちで、冠婚葬祭業に最後のバブルが始まろうとしているのかと気づきました。商業主義はなんでもビジネスにしてしまいますね。キリスト教の葬式にしたからって、お金がかからないわけではないようです。

熟年と性、愛は時空を超えるか?その3

「工藤美代子著、炎情―熟年離婚と性」からの連載、その3です。

前回、「目と目を合わせただけで充分に感じてしまうカップルだって(多分)いることでしょう。」と述べました。また、前々回は「愛のために、肉体上の問題、勃たないとか、濡れないとかに拘泥しなくともいいのではないか」と提案しました。

今回紹介する本は愛のヨガ。射精とオーガズムによらない性交についての記述部分です。著者はこの本で、プラトンのプラトニックラブと、男女間の生体電気を結びつけ、射精とオーガズムによらない性交について説明し、具体的事例を揚げている。

まずはプラトン。

プラトンは、二四〇〇年まえに、なんらかのかたちで射精とオーガズムによらない性交について知っていたらしい。

愛の性質についてのプラトンの対話篇『饗宴』から引用しよう。

「わたしのかんがえでは人類はぜんぜん〈愛〉の力の理解が行きわたっておらず、愛神をおがむかめにりっぱな神殿や祭壇をつくったり大きな儀式をしたりはしない。愛神は、ほかのどの神にもまして、崇拝と名誉にあたいするのに、彼はいまだにぜんぜんかえりみられていない。

とにかく〈愛〉は、すべての神々のなかで、もっとも人間の味方であり、傷をいやす医者であり、彼の治療こそ人類にあたえられる最大の幸福であろう。

というわけで、わたしがのべてきたように、はげしく……愛と欲求にうたれると……一瞬間といえどもわかれがたくなる。彼らこそは一生をたがいにささげあい、むなしく言いがたいあこがれをもって自分でもわからない何かを互いにもとめあう。それはたんなる性交の感覚的よろこびをもとめて、ふたりがそのように真剣に献身しあうのではなく.亙いのたましいがあきらかに渇望しあうのは、ことばではいうことのできない何かをもとめてなのである」

この引用からあきらかなことは、プラトンは愛の関係には、オーガズムにおげる男の精液と女の腺分泌の放出以外のなにものかがある、ということをよくしっていたということだ。

この「以外のなにものか」とはなにか?それはいわゆる「精神的愛」として多くのひとびとがプラトンの愛を理解しているような、たんなる友情か?そうとはおもわない。それはぜったいにもっとちがうなにものかでプラトンが経験したが説明できずにいたものだ。・・・中略・・・そうなのだ、うたがいもなく.プラトンはこう知っていた.ふたりの恋人のあいだの放電のやりとりのなかにこそ性交それ自体よりも深い、もっとずばらしいよろこびがあることを。・・・中略・・・人体の測定可能な電気は性器においてもっともつよい。だからといって、無数の電源からの電気の量が、それがいかにつよいといってもひとつの流れからの電気の量よりもつよくないはずはない。例としてあげた経験から、わたしの信じるところでは、どれらの無数の小電流は、直接、それらどうし流れこみ、たんなる身体的接触だけで、性交なしでも.均衡に達することができるのだ。このやりとりは、2,3時間というよりは数日間にわたっての喜びに充ちた気持ちを持続させる。P115-117

翻訳がこなれてないので、わかりずらいですが、我慢してください。続いて事例に移りますが、メアリーという男性恐怖症の女性と彼女に惚れたまじめな男性フレッドとの風変わりな恋愛と結婚生活(性器によらない愛の交歓)について記述してあります。

このおかしな結婚の結果はどうなったか?フレッドは約束をまもり、メアリーも態度をかえなかった。ふたりのあいだで性交へのこころみはぜんぜんなかった。メアリーの肉体的に正常な性器に対する精神的障害はいぜんとしてそのままだった。しかしこの禁欲からたとえようもないむくいが彼らの関係にもたらされた。

床入りなしの結婚が六週間つづいたあとでフレヅドに対ずるメアリーの愛は彼におとらず情熱的なものになった。そのとき彼らははじめてはだかどうしでだきあって一夜をすごした。ブレッドは超人的な努力をしたのだ。私との約束をまもるため、彼は性器をゴントロールせねばならず、そこへむかうすべての神経のながれをたちきり、そこへむかうすぺての欲望をたちきらねばならなかった。メアリーがこれまで苦しんできた神経症の状態へ、フレッドは最大の意志の力でもって、一挙に到達しなくてはならなかった。これをする最善の方法を.彼はみつけた。それは彼のすべてのかんがえと感覚を、彼のすべての自覚を、メアリーと触れている自分のからだの全部分に集申することだった。

彼らはだきあってよこたわり、完全にリラックスし、このからだの接触をよろこんでいた。すると、約半時間後に、フレッドによれば、いうにいわれないなにかが彼らの中に流れはじめ、彼らの肌の細胞のひとつひとつが生き生きとよろこんでいることが感じられた。これはフレッドが今まで経験したこともない狂喜とよろこびをもたらした〔ふたりがねるまえに風呂にはいらないと、このよろこび

は減った)。そしてメアリーも、彼によれば、おなじく感じた。彼の印象では、これら何百万のよろこびのみなもとがとけあってひとつとなり.メアリーと触れあっている彼のからだの肌の部分へとながれた。彼のからだはとけたかとおもわれ、時間空間はなくなった。すぺてのかんがえはきえ、彼はことばではいいあらわせない感覚的よろこびで燃えつくした。それに対するメアリーのことばは「超入間的」「神聖な」というのだった。ふたりとも、フレッドによれば、その瞬間には死の恐怖をずっかりわすれた。これは、彼らの感じでは、死後の世界をかいまみたにちがいない。彼らはすでに物質の世界と精神的宇宙のかけ橋に立っていたのだ。彼らは天国をあじわった。

この恍惚的経験は一晩中つづいた。しかし、七時聞たつと、息苦しい感じになってきた。ふたりはすぐにはなれなくてはならなかった。この感じを無視しようとすると、ふたりはおたがいに敵意を感じた。しかしシャワーをあびるとか、ぬれたタオルで体をふくとかすると、もういちどペヅドへもどって、またかんたんにあの超人間的祝福の状態にはいることができた(わたしはこの現象を説明できない。しかし説明は、それがみつかるとすれば.たぶんなにかの物理的法則、逆電流に関係があるだろうとおもう。もういちど読者にもおもいだしてほしいことは、そもそも神経と皮膚の細胞は、胚としては、おなじものだったのだ。それがたぶん同様な逆電流を説明することになろう)。つぎの日ふたりともこのうえなく幸福でくつろいだ気分でいられ.生命力とエネルギーに満ちあふれ、あらゆる種類の不安、神経質、怒りとは無縁だった。

以前に経験したふつうの性交の満足の種類と、このメアリーとのあたらしい歓喜の経験をくらべてみて、フレッドは、そのちがいは地上と天上の愛のちがいだといった。このあたらしい経験によりもたらされた永続的につづく超人間的な幸福にくらべれぱ、白動的な射精のあいだの瞬間的なよろこびなど、ほとんどくらべものにならなかった。

一〇年たった。メアリーは自己中心的、反杜会的な、つめたい心の少女から、あたたかい、おもいやりのある、しんせつな女にかわった。ふたりは.はじまったころとまったくかわらず、たがいに献身的に愛しあっていた。

これがメアリーとフレッドの物語りだ。想像をこえたものだが、一言たりとそれをうたがう理由はない。p119-121

ということで、セックスに寄らない性的関係についての記述でありました。

そもそも、この「熟年と性」について連載になってしまいましたが、はじまりは、読んだ本の案内で炎情―熟年離婚と性について、の感想でした。「バイアグラもバイブもいらない、年齢相応のセックスというものがあるとは考えられないでしょうか。もしくは、歳月を経たからこそできる男女の情交とか情愛があると信じることはできないでしょうか。若さを維持することや、歳を取ることを忌諱するのではなく、むしろ、前向きに歳を取る、人生を深化するという、ことをもう少し考えてもいいのではないでしょうか」という問題提起をさしていただき、その内容について何冊かの書籍を参照しつつ補足説明をさせていただきました。

宇宙は、まったくもって不思議に包まれています。残念ながら、その宇宙を人間は肉体的な五感によってしか知ることはできません。宇宙という真実を肉体的な、たとえれば、脳というインターフェイスを通じてバーチャル的(仮想的な)疑似宇宙として捉えるしかできません。しかし、魂というか、心というか、そういったものでは、その実在する宇宙を知ってはいるのです。男女間のエロスは、離れていた魂を解け合わせることにより、宇宙に触れさせる乗り物なのかもしれません。

大事なのはエロスの発動であり、それは男女間の思いに根ざしており、バイアグラとか潤滑油の問題ではないと思うのですが、いかがでしょうか。

熟年と性、愛は時空を超えるか?その2

「工藤美代子著、炎情―熟年離婚と性」からの続き、その2です。前回は古代エジプトのファラオと巫女の愛について書かせていただきましたが、今回は日本、亡き恋人と逢瀬するためついには時空を超えるようになった小森さんについて。ご紹介するのは臨死体験(上)-立花隆です。

・・・小森さんがこういう能力を開発するようになったのは、二十七、八歳のころ、金縛り状態の中で、死んだ恋人の幽霊に会うという体験をしたことがきっかけだという。それは幽霊というより、生きた人間そのままだった。体温もあり、呼吸をしているのも感じた。金縛り状態の中でその人をじっと抱いていた。その人の髪が自分の頬にふれていたという。

この体験をしたあと、何とかしてもう一度その恋人に出会いたいと思った。それは幻覚だろうとは思ったが、幻覚でもよいから、もう一度そのときと同じように、生きた彼女そのままを自分の腕に抱く感覚を得たいと思ったのである。どうすればその夜と同じ体験ができるかわからなかったので、とにかくいろんなことを試してみた。多分、金縛り状態になるのがカギだろうと思ったが、それも求めて得られるものではなかった。そのうち呼吸を止めることを思いついた。体を一切動かさず、無の境地になって、呼吸を意識的に止めることを繰り返ず。苦しくなると少し息を吸うが、吐くのはとことん止めるようにする。そのうちに、目の前に紫色の棚があらわれてそれが開くのが見えてくる。体がしびれ、稲妻のような光がピカピカしてくる。その光に驚いて手を握りしめたり、体を動かしたりすると、意識が覚めてしまって、それ以上はいけない。

三十四、五歳のごろ、結核で一年ほど入院していた。暇だったので、その練習を毎晩やっているうちに、どんどん上達し、ある日、ついに屋根を突き抜けてどんどん天に昇っていく感覚を得るようになった。そこまでは努力すればいつでもいけるようになったが、その先の心臓の拍動が止まって、絶対的に澄みきった世界に足を踏みいれるというところまでいったのは、一度きりだという。

六十五歳ころまでは、ときどきこの体験を試みていたが、何しろこれは死と紙一重のところまで行くことで、命の危険もあるので、最近はずっとやっていないという。

にわかには信じ難い話と思われるかもしれないが、私はごれはありうることだと思っている。実は、血中の二酸化炭素濃度が過剰になると、幻覚を見ることがあるごとは昔から知られている。先に、臨死体験の生理学的解釈の一つとして、脳の低酸素状態説があることを紹介したが、ごれとならんで、血中二酸化炭素濃度過剰説竜有力な解釈の一つとしてあるのである。小森さんのやった呼気をできるだけ止めるという努力をつづけれぱ、確実に血中の二酸化炭素濃度は上昇していく。そして、小森さんがいっていた、体のしびれや閃光を見るという現象も、・・・。P107-108

ここが言いたいのは、まさに「一念岩をも通す」ということです。死んでいった恋人に会いたいと思い続けてそれがかなったと言うことです。

好きな人の事を思い、その好きな人(たとえ死んでいる人でも)に会いたいと念ずる、もしくは抱きたいと念ずる。その一念が潜在意識(もしくは集合無意識)に働きかけ、方法を知り(理屈ではなく体で)出会いをかなえたわけです。結果、臨死体験とか死後の世界にいったということであり、手段であった臨死体験をするとか死後の世界に行くとかはどうでもいいことなのです。

上記に引用した文章の最後の段落は立花氏の解釈ですが、この部分は理屈であり、あまり問題ではありません。そういう意味でそのまま掲載してみましたが、問題は「血中二酸化炭素濃度過剰」云々ではなく、好きだということ、愛してるということ、会いたいと思うこと、そして抱きたいと思うことです。そうすれば、勃たなくても勃ち、濡れなくても濡れます。

逆に、勃たないとか濡れないときは、セックスする必要がないのです。自分の体を信じましょう。歳をとったから体が反応しないのではなく、歳をとったから体が反応しているのです。目と目を合わせただけで充分に感じてしまうカップルだって(多分)いることでしょう。大事なのは相手を思うことで、その思いに対する最適な解を体が教えてくれるという風に解釈できないものでしょうか。

ということで、以下に本論から若干はずれますが、興味のある方向けに小森さんの体外離脱についての箇所をご紹介。

・・・小森さんだけでなく、インドのヨガの行者の中にも、自分の意志の力で呼吸を止めその状態を持続できるとずる入々がいる。

小森さんによると、呼吸を止めるとともに、胃の動きも止まり、腸の蠕動も止まり、ただ心臓だけが動いているという状態になる。すると、まず「太陽の何倍もの白光」が見え、つづいて、体外離脱が起こる。自分の体が二つにわかれて、一方は上昇していく。

「天に昇って行く、天井も屋根も何の抵抗もなく抜けて上って行きます。春夏秋冬が一時に現れた下界が見えます。天女もいます」

という。

この現象を小森さんがどう解釈しているかというと、これは幻覚にちがいないという。なぜなら、そのとき登場してくるのが、天女だけでなく、

「時には映画女優が裸体で浮遊してきます(高峰秀子が出た)。だから幻覚と思います」

というのである。

小森さんは、ごういう不思議な能力を身につけながら、自分の能力をクールに見ている。

「私が何か宗教の勉強をしたとか、禅の修行をしたとかしてごういう体験をしたというなら立派なものなんでしょうが、私の場舎は、安直に呼吸を止めるという肉体的練習だけで得たものですから偉そうなごとはいえません。ごれは何人でも、身体を清浄に保って練習すればでぎるものと思います。いろんな現象は、身体の機能がそうさせるものだと思います」

そういう立場から解釈すると、「太陽の何倍もの白光」を見るという経験も、「呼吸を止めて仮死状態に入ったときに、瞳孔が散大ずるので無限光を感じるのだと理解しています」という。

ごの段階で、他にもいろんなことが起きる。人の声が聞こえてきたり、文字が浮かんだりしていろいろ教えられることがある。山よりも大きな人物が立っていて両手を広げているのを見たこともある。それとともに、「体悦」と小森さんが表現する肉体的快感が出てくる。それは、

「皮膚の表面ではなく、体の奥の方、筋肉か骨か骨髄かわからないが、ずっと奥の方からあふれてくる何とも表現しようのない気持ちのよさ、居ても立ってもおられぬほどのすごい気持ちのよさで、そのときちょっとでも体を動かすとズンと突きさされるようでとても耐えられないので、微動だにできません」

というほどの快感だという。この強烈な決感に耐えていると、次に、小森さんが「澄」と名づける段階に入る。それは「明澄としかいいようがない、何もかもが澄みきった世界」だという。

その段階に入るのには、呼吸停止だけでは十分でない。心臓が止まる必要があるという。

「心臓がバタッと止まります。その瞬間、間髪をいれず澄んだ中に入ります。そこは無で、ただ澄んでいます」

という。そこにいたると、自分の体から光があふれ、それが矢のように発していく。そのとき、自分の望みがすべてかなえられたような気持ちになり、宗教でいう、「大悟を得た」という心境になる。

「神も仏も友達のような気になります。神や仏と一体となり、白分がその→部になってしまったような気です」

という。小森さんの解釈では、臨死体験もごれと同じもので、昔の偉い宗教家が苦しい修行の末に得た悟りというのもこの境地だろうという。p105-106

そもそも「エクスタシー(ecstasy)」そのものが、体脱を意味するもので、セックスとあの世とは密接な関係があるものらしい。

というところで、やはり最後はエクスタシー賛歌ともいうべき「夜明けのスキャット」で締めくくってみたい。

 

愛し合う その時に この世は 止まるの 

時のない  世界に 二人は行くのよ  

夜は流れる 星も消えない

愛の歌 響くだけ                     

愛し合う二人の時計は止まるのよ

時計は止まるの  

 

「憑依」という観点は、世間にはもっと必要なのかも知れないなあ

ミッション: 8ミニッツ(allcinema,キネマ旬報,AllRovi,IMDb)があまりにも印象的だったので、会う人ごとに話題にしていたら、「マルコヴィッチの穴(allcinema,キネマ旬報,AllRovi,IMDb)のようなものですね」などと言う人がいた。早速マルコヴィッチの穴を鑑賞してみたら、その通りだった。

ミッション: 8ミニッツマルコヴィッチの穴はいずれも憑依がテーマの映画である。

売れない人形師が主人公の一人なのだが、まさに人形に憑依する職業だ。かれは、マルコヴィッチの操作に堪能であり、いつのまにかマルコヴィッチ専従の乗り手となってしまう。乗り移られたマルコヴィッチは売れっ子人形師として成功する。

マルコヴィッチに女性が憑依して、女性と交わるというシーンもある。女性と女性の間に子供ができ、マルコヴィッチの遺伝子をもつ乗り物として次世代に憑依体が引き継がれる。

憑依されていることに気が付いたマルコヴィッチは、他人と同様にマルコヴィッチ(自分自身)に憑依してみる。すると、世の中の人全員が自分の分身になってしまった。

ここは、当ブログで話題にしたの遍在転生観を参照いただきたい。すべては自分というのもあながち間違いではないということになる。

死を経て、憑依するのが輪廻。同じ生にて意識が移るのが憑依ということが言えるかもしれない。

マルコヴィッチの穴は入り組んでなかなか解釈が難しい映画だと思うが、「憑依」という観点から見てみると非常に分かりやすい(ミッション: 8ミニッツマルコヴィッチの穴も、巷ではとくに「憑依」という見方はされていないようだが、)。

憑依がするものなのかされるものなのかも微妙だ。人形師がマルコヴィッチに憑依してなりかわるという一方で、実は人形師がマルコヴィッチに憑依されていたということもいえるわけだ。

恋愛なんかもそうだ。お互い相互依存ならぬ相互憑依といえるのではないか。お互いの心は相手のことでいっぱいになってしまうわけだから。精神病なんかも憑依という見方をすると分かりやすくなるかもしれない。精神病は病気ではないという本もある。

「マルコヴィッチの穴」に限らず、世間を語るのに「憑依」という観点がもっと必要なのかも知れないなあ。