経済危機のルーツ / 野口悠紀雄

経済危機のルーツ ―モノづくりはグーグルとウォール街に負けたのかを読みました。おもしろかった。簡潔でわかりやすい。読んで良かったと思いました。日本のだめさかげんがよくわかりました。

著者は東大工学部を卒業して大蔵省に入った方なので、金融、特に金融工学には詳しい方なのでしょう。アメリカとイギリスが脱工業化を目指して金融立国で成功した経緯をていねいに描いています。また、アイルランドの金融立国(成功例)も勉強になりました。

そして、日本(それとドイツ)では脱工業化できなかったので凋落したとしています。

著者は最後に「謙虚さを取り戻し、優れたものに学ぶ勇気をもう一度持つこと。今の日本でもっとも求められるのは、このことだ。本書がそのための足がかりになれることを、心から願っている。」と締めています。

さて、日の丸飛行隊をご存じだろうか。以下に参考までにwikipediaからの抜粋を紹介しよう。

札幌オリンピック(1972年)の70m級(現在のノーマルヒル)ジャンプにて日本のジャンプ陣(笠谷幸生金野昭次青地清二)がメダルを独占した事に始まる。後に、冬季オリンピックやワールドカップ等で日本のジャンプ陣を日の丸飛行隊と呼ぶようになった。・・・長野オリンピック後のルール変更で再び長期低迷に入り、2002年のソルトレイクシティオリンピックでは団体5位、個人では船木のラージヒル7位が最高という成績に終わった。・・・

2006年、日本のジャンプについて現・日本ナショナルチームヘッドコーチのカリ・ユリアンティラは「フィンランドやオーストリアなどのジャンプ強国と比べて踏み切りの技術が未熟でレベルが低い。日本の技術は1990年代後半までは良かったがその後のルール変更による対応が全くできていない。しかも若い選手が全く成長していない上に主力が世界の強豪国と比べてあまりにも高齢だ・・・。

私がいいたいのは、野口悠紀雄氏はいわばカリ・ユリアンティラと同じ事をいっているのだということです。そして、日本をターゲットとした”ルール変更”については言及されていない。しかし、本当に大事なのはこの”ルール変更”なのだ。

踏み込んでいえば、日本が「謙虚さを取り戻し、優れたものに学ぶ勇気をもう一度持つて」金融立国したとしても、それはただの「詐欺」になるだけだということです。アメリカが世界の最強国であるということ、世界の強者と弱者、もしくは支配者と被支配者の座標軸がこの著書からばっさりと失われているのだ。

つまり、野口氏が「究極の錬金術」と称している、アメリカの金融立国とは、最強国だけができる国家規模の「詐欺」の別名なのだ。アメリカは、国家の凋落をくい止めるべく、なりふり構わずに、ルールを作り続けた。それが金融立国。

3兆ドルのネット負債から1000億ドル近いネットの金融収入を生みだしたのだから、「無から有を創り出している」というより、「マイナスからプラスを創り出している」わけである。「究極の錬金術」とも言えるものだ。(p221)

言い換えれば、世界第二の経済大国日本を搾取すべく放ったルール改正の切り札が金融だったのだ。日本の資金はアメリカに吸い上げられ、何十倍の利益をあたえつづけた。日本の失われた10年とか20年はアメリカを最強国にし続けた富の源泉だった。

司馬遼太郎について野口悠紀雄氏は本書の中で次のように書いている。

彼(司馬遼太郎)は東海岸の伝統的な都市であるボルティモアやシカゴの90年代の姿を見て、アメリカ経済が没落したと述べている。・・・そうではなく、アメリカの経済構造が変化していたのだ。司馬遼太郎も、そうした変化を見抜けなかったのである。

アメリカの変化は見抜けなかったとしても、日本をみごとに評価し続けていたと思うのだがどうだろうか。すくなくとも次のようなことはいわないだろう。

トーマス・フリードマンは、ニューヨーク・タイムズのコラムで、「アイルランドの教訓はきわめてシンプルだ」とし、「高校と大学の授業料をゼロにせよ。法人税制を簡素化・透明化し、税率を引下げよ。外国企業に門戸を開け。経済をオープンにせよ」などと列挙した末に、「英語を話せ」としている。

確かに、英語を話せることは、重要な要因だったのだ。21世紀型のグローバリゼーションにおいて、これは不可欠の要因だ(「イエーツの詩の原文が英語でないことを知って驚いた」と7で書いたが、英語とゲール語はきわめて異質なので、「なぜ英語でもあのように美しい韻律を保っているのだろうか?」と、いまでも不思議に思っている)。

北海道は面積がアイルランドとほぼ同じで、人口は1.5倍程度だ。だから、北海道は、政治の力に頼って公共事業を誘致することばかり考えず、アイルランドをモデルにして世界から直接投資を呼び込めば、倍の豊かさになれたとも言える。ただし、それには、英語を使えることが前提だ。「21世紀型のグローバリゼーション」実現のために英語は不可欠であり、日本はその点で大きなハンディキャップを負っていることになる。

「90年代の発展は、ヨーロッパの周辺国において実現した」と3で述べたが、これも英語力と無関係ではない。小国には自国語で大学の教科書を作るほどの人口はいないから、高等教育の教科書はどうしても英語になる。それだけでなく、日常の仕事でも英語が不可欠だ。ヨーロッパの小国では、町のタクシーの運転手でも完全な英語を話す。ドイツやフランスなどの大国の国民は、英語がそれほどうまくはない。90年代における「英語不適応大国の凋落」は、必然の現象であったのだ。
いまにも英語を公用語にしろといわンばかりの文章だが、こういったしょうもないことどうして書くのだろうか。まずは、日本人の脳を勉強してもらいたい(私のブログで”クール・ジャパン”について述べたところに詳しく書いています。参照下さい)。
と、まあ不満はたくさんあるのだが、それでも整理されてわかりやすいということはこの本のいいところではあります。実際、はじめて合点がいったことなどは多々あり、勉強になりました。

広島、長崎、原爆、そして終戦

8月は、日本人にとって、平和を考える月である。広島原爆の日が8月7日、長崎原爆忌の日が9日、そして終戦記念日が15日。

戦争や核爆弾のない世界を、夢ではなく現実にすることができるのかは、大きなテーマだが、今日は、過去に、現実に行われた平和活動(失われた文明―一万二千年前の世界 (講談社現代新書 274) 165-168ページ)を紹介しよう。

アショカ王の秘密結社-九未知会

インドを統一したチャンドラグプタの孫であったアショカは、白分の偉大
な祖父の名をけがさないような人間になりたいと考えた。統治者にとっては、戦争こそ、白分の名前を永遠に残す最も確実な手段だった。彼は軍隊を率いて、隣りのカリンガ王国に向った。カリンガの住民たちは、必死になって抵抗した。ある戦闘では、アショカの兵士たちは敵兵を七千人以上も殺した。戦闘が終わったばかりの戦場にアショカはやってぎた。彼は死体が一杯横たわっている光景をながめて、強いショックを受けた。
それ以来アショカは、残された生涯のすべてを科学の振興、仏教の普及、建設活動に捧げた。戦争の悲惨さが彼に強い印象を残し、人間の頭脳と知識が人間の殺し合いに向けられることの絶対にないよう全力をつくす決心をしたと伝えられている。そのためにアショカは、これまでに存在した秘密結社の中でも最大といわれる結社、九未知会をつくった。
この結社の目的は、人殺しの手段についての知識が人々の手に入るのを防止することにあった。この結社は、今日でも存在し続けているという意見がある。たとえば、カルカッタ駐在のフランス第二帝国領事で、インドについての名著をたくさん書いているジャコリオである。インドが植民地だった時代に駐在していた意義ら崇神していたイギリス人=高官もまたこのような意見を述ぺている。

この秘密結社が二千年を経た今日でも、なお存続していると断言するためには、まだ十分な資料をわたしたちはもっていない。とはいえ、このような目的をもった結社がかつてつくられたということそれ自体が、非常に大きな意義をもっているのである。

アショカは、知識が破壊のために使われないようにするため、高度の知識は、秘密にしておこうとした。しかし、このように行動したのは、アショカが唯一の人間ではなかった。先見の明あるすぐれた統治者や政治家はこのように行動している。今日の言葉を使うなら、「大衆殺戮の兵器」と称すべきものは、過去において、使用が禁止されていたのである。

しりぞけられた「人殺し兵器」

一七七五年、フランスの発明家、デュー・ペロンが国王に謁見を申し出た。彼の言葉によれば、フランス国家の将来はこの会見にかかっていた。デュー・ペロンは、自分が発明したものを国王に直接打明けようと思った。ルイ十六世は、デュー・ペロンとの引見に同意した。デュー・ペロンの助手たちは、入念に包装した大きな箱を宮廷の庭園にもちこんだ。それから退場していった。デュー・ペロンは、どんなに強い敵でもいとも容易にたおせるような武器を、発明したのだった。この武器が採り入れられたら、フランスは国王の好きなように、領土の拡張ができるであろうと述べた。彼が示した武器は、今日の機関銃の元祖ともいうべきものであった。それは一度に二十四発も弾丸を発射することができた。

だが、デュー・ペロンは、国王から称讃の言葉を受けることができなかった。国王はぺロンの言葉を冷たくさえぎって、引き退がるように命令した。ルイ十六世と彼の大臣たちは、デュー・ペロンの発明を「入殺しの野蛮な兵器」としてしりぞけたのであった。デュー・ペロンは、ひどい悪者、人類の敵と宣告された。フランス国王はデュー・ベロンが発明した武器が、どこか他の国王の手に入るのを心配して、これを防止する手段をとっている。

これ以前の時代は、弓と矢が最も恐ろしい殺人兵器と考えられていた。ローマ法王はこれの使用を制限しようとして、特別勅書を出している。それはばね仕掛けの大弓の照準を、より正確に定めるための三脚台その他の台を使用禁止にしたのである。「このようなやり方は弓の射手の品性をひくめ、たたかいを非人間的なをのにする」と勅書のなかではいわれていた。この禁止命令は、その後二世紀間守られた。アフリカのペチュアナランド(ボツァナ)の国王の一人、シャムバ・ボロンゴンゴが戦闘に投槍を使うのを楚止しているのも、右と同じような入道的配慮からである。

クール・ジャパン 世界が買いたがる日本 /杉山知之

クール・ジャパン 世界が買いたがる日本 を読みました。著者の杉山知之氏がCG畑の人なので、アニメ・CG視点の本です。平成18年初版の書籍なのですが、中身的には目新しいものはあまりなく、ちょいとがっかりかな。視点をもう少し広げたらおもしろい本ができるのにな、と思ってします。

村上隆ならフラット・ミュージアムという視点で、浮世絵や鳥獣戯画の日本絵画、二次元アートで語る。確かに、二次元のアニメからつくりだされた三次元のフィギュアは、現実の三次元にはないあたらしい世界だ。

私は、右脳と左脳―脳センサーでさぐる意識下の世界がクールジャパンのそもそもだと解したい。クール・ジャパン 世界が買いたがる日本を読んで、ますますその感を強くしました。ということで、アマゾンに書いた私のレヴューをご紹介。

この本は面白かったです。意外と簡単なテストで脳を調べるのですが、それでわかることが興味深いものがありました。読んでいる最中も、読んだあとも、この本から得られた視点(支点?)で、さまざまなテーマが浮かんできました。テーマ探しにお悩みの方にはお薦めの一冊です。ということで、レヴューというよりは、内容をご紹介したいと思います。 

まず、日本人と外国人の脳の違いです。言語と聴覚で見てみると、虫の鳴き声は日本人は言語として感じる、左脳を使って聞いているのですが、日本人以外の外国人はほとんど右脳で聞いているとのことです。虫の声に限らず、外国人に比べ、左脳で処理する音は多いのです。 
この脳の特性は民族人種とか、DNAとかには依らずに日本語の特性ということです。日本語を母国語として習得するかどうかが問題で、日本民族でも遺伝子が日本人でも、日本語を知らない人はこのような脳の使い方をしないとのことです。 
韓国人とか中国人も東洋人として日本人に似ているのかというとまったくそのようなことはなく、むしろ、ポリネシアとかが日本人と同じような脳の特性をもっているらしいのですが、民族性か、なかなか研究に参画するようなことがなく、確認はしにくいとのことです。これもまた面白い話がたくさんありました。 
民族との関りのエピソードも多少あります。 
「モントリオールの専門家会議のときには、私はその年に出版した『日本人の脳』の要約を・・・説明する機会が与えられたが・・・アフリカの黒人代表は『脳の働きには遺伝的に全人類に共通な部分があるが脳の働きの一部は生後9歳までの言語環境によって決定される。この面では人種差は否定される』という私のデータと解釈に狂喜したのである」 
とはいえ、著作を読まないで批判するという現代の情報操作の落とし穴にも言及されており「最近の国際化の嵐の中では、『日本人の脳』は民族主義的な著作として、社会生物学に告ぐ攻撃目標にされるだろう、決して本は読まない、内容の理解を伴わない攻撃が特徴である・・・」との懸念も示されている。この辺にはまだ深いテーマが見つけられそうですね。 

脳には年輪のようなものも刻まれているということにも驚きました。「聴覚をはじめとする感覚器には40と60、またはその整数倍の周波数や空間的な数の外来刺激を鋭敏に検知する働きがある。・・・刺激は聴覚、振動覚,触覚、視覚などの物理刺激以外に、化学物質の持つ40・60とその整数倍の分子量にも反応した。・・・偶然のことから、この数値が被験者の満年齢の三倍、5倍に相当することに気がついた。・・・人の脳には満年齢の数に対応する「年輪系」があるという概念がつかめた・・・」 
さらにさらに、「宇宙の運行と脳の働き」にまで話が進んでいくのです。人の脳をセンサーとして使い、地震の予知などに使えるとの示唆にも触れています。壮大なテーマが見つけられそうなフィナーレではありました。

レヴューを書いたのが2009/4/10でしたが、この後、なぜ「ポリネシアとかが日本人と同じような脳の特性をもっているらしい」のか、ずーと疑問に思っていました。最近は、ムー大陸関連が怪しいなあと思い始めています。太平洋に沈んだムー大陸の末裔が日本とポリネシアなのかな・・・というところです。

ひとり語り / 吉行和子

最近は夜中に目が覚めます。暑くて寝れないんですね。今年の夏は異常です。

さて、ひとり語り―女優というものはを読みました。おもしろかったです。

私の学生時代は麻雀がブームでした。時代そのものが麻雀ブームだったのですが、そのせいで麻雀好きで知られていた吉行淳之介遠藤周作氏、色川武大氏のファンでもあり、エッセイや著作にも親しんでおりました。その吉行淳之介の妹さんが吉行和子さんでした。文章の方も血筋なのか非常に読みやすく、うまいと思いました。この本にも多々吉行淳之介氏との話がでてくるのですが、拝読したところどうやら、和子さんはお兄さんがとてもすきだったみたいです。

日本を代表する女優さんなわけですから、本の中にも、日本を代表する著名な方がたくさん登場します。知られていない視点からの話はいずれもおもしろく、かつ価値のあるものだと思いました。

その中で、私が気に入ったのは田中角栄氏とおすぎとピーコの部分でした。さりげなく、彼らの代弁をしているところに感心しています。ということで、おすそ分けということではありませんが、以下にまず田中角栄氏部分から紹介させていただきます。

そうだ、初めて銀行に口座を作りに行ったのは二十歳を少し過ぎた頃だった。劇団からもらうわずかな収入のために預金通帳を作りましょう、と近くの銀行に出かけた。そのことを思い出したのは、この(二〇〇九年)二月十三日に辻和子さんが亡くなったからだ。辻和子さんは旧中角栄氏の愛人として、かなり知れ渡っていた方だった。神楽坂に住んでいた元芸者さんだ。

私の預金通帳の名前は、「辻和子」という。当時、母が再婚していたので、私と妹も辻だった。仕事はもとのままだが、戸籍上の本名は辻。通帳を作りながら、ふと気配を感じて顔を上げると、背広をきちんと着た男性四、五人が近づいてきている。そして、ほんの少しの間たたずんでいたが、声もなく去って行った。通帳を作る時って、こういう感じなのかしらと思い、気がついた。そうだ、辻和子という人が来たというので、それではご挨拶をしなくてはいけないと、偉い人たちが揃って来てみたのだが、どうもみすぼらしい風体の女だ。人違いだと、引き返したのだろう。

神楽坂とわが家とはそう遠くない。ということは、この銀行とも近い。あの辻和子が口座を開いてくれるのだと思ったのだろう。

ほほえましい話

そんなことがあってから三十年も経った頃、その辻和子さんと私は知り合いになった。親しくしていた友人のお母さんが女医さんで、私はよく遊びに行っていた。女医さんと辻和子さんが仲良しで、顔を合わせたことが何度かあった。初めて会った時、「この人も辻和子っていうのよ」と私は紹介された。女医さんとは芸者さん時代からの友達とのことだ。「私はね、神楽坂の芸者衆の主治医だったのよ。男の医者が行くと、なんだかんだと問題を起こすので、女の私が行くことになったの」と、ゴッドマザーのごとく頼もしい女医さんは言った。辻さんより年長で、角栄氏にもずいぶん頼りにされていたらしい。浅草で開業医をしていて、血だらけのヤクザが駆け込んでくることもたびたびあり、それでもびくともしない肝っ玉女医なのだから、何があっても驚
かないのだろう。

世間の非難を浴びている角栄氏は、「新潟へ帰る列車のつなぎ目を眺めていると、一瞬、飛び込みたい心境になるんだよ」と、女医さんの前では弱音を吐くこともあったと言う。

辻和子さんも気さくな面白い方だった。同じ方向なので、帰りも一緒に帰ったりした。亡くなったことを知った翌日、さぞや新聞にでかでかと出るだろうと思ったのに出ていない。「だって、どういう肩書きにしていいか困るから、やめることにした」と新聞社関係の偉い方に後から聞いたのだが、たしかに問題が生じる可能性が大きい。その後、週刊誌に小さな記事が出た。昭和の生き証人がひっそりと人生の幕を閉じていたとあるように、ひっそりとこの世を去っていかれた。(p184-186)

続いておすぎとピーコについて

おすぎとピーコと知り合って

この時期、一緒に芝居をした人たちとは、いまだに親しく付き合っている。三、四年だったけれど思い出がいっぱいあり、話が盛り上がる。楽しかったな、と言ってくれるので、ほっとしている。

その中に、おすぎとピーコもいる。彼らは芝居には直接関わらなかったけれど、大いに応援してくれた。二人は現在の活躍ぶりなど想像もつかない、ただの変わった入種、無名のオカマの双子だった。

おすぎのほうは、松竹の歌舞伎座テレビ室というテレビ制作会社の演技事務として働いていた。演技事務というのは、スケジュール調整などもする重要な部門だが、駆け出しはすべての雑事をこなさなければならない。進行さんと呼ばれ大変な忙しさだ。しかし、そう気のきく人はあまりいないのが普通だが、おすぎはともかくよく気がきくというので名を馳せていた。朝にコーヒーが配られるのは当たり前、咳をすればすぐのど飴が差し出される、という具合だ。

私はおすぎのいるほうではなく、歌舞伎座テレビ室の人たちが参加している「喜びも悲しみも幾歳月」というテレビドラマに出ていた。あの名作映画、木下恵介監督、佐田啓二、高峰秀子主演のテレビ版だ。監督も木下恵介門下の方が加わり、あちこちの灯台でロケをした。「おいら岬の灯台守は~」という主題歌もヒットしたので・覚えている方も多いと思う。あの主人公たちの物語なので、灯台は欠かせない。ロケバスは新宿駅の西口から出発する。その場所はロケに行くバスが来るところで、何台も並ぶ。時々間違えて別の作品のバスに乗り込んでいる入がいるので、そういうチエックも進行さんはしなくてはいけない。おすぎも駈けずりまわっていた。私の組のヘアメイクさんが、その種の人で、私は気が合って仲良くしていた。

今では考えられないことだが、そういう人たちは当時肩身が狭かった。昨今いき過ぎのように手を振ってテレビに出まくっている彼らの道を拓いたのは、かの、おすぎとピーコだというのは衆知のことだ。

二人がカミングアウトした時は、もうこれで消えるだろうと思われたのに、なんだ、この勢いは。しかも三+年以上も続いているとは驚きだ。それ以前は、テレビで入気のあった人でも噂が出ただけで画面からは消されていた。美輪明宏さん、ピーターさん以外は認められていなかった。私たちの組合は、と小さな声で主張するしかなかった入たちなのだ。ヘァメイクさんは私が大丈夫と知っておすぎを紹介した。私たちはすぐ仲良くなった。何故だかわからないが同類とでも思ったのだろうか。そして兄と称するピーコを連れてきて、四人で会ったりしだした。

ピーコは服飾関係の仕事をしていた。ずいぶんやぼったい洋服着てんのね、と言い、洋裁をしているお姉さんも紹介してもらい、それ以後、杉浦家(二人の本名)とは親戚付き合いをしている。

私が地下の劇場で芝居をしていた頃、無名の二人は、今と同じように勢いよく騒がしく私の面倒をみてくれていた。お母さんが作った.おいなりさん”をどっさり持ってきて皆に喜ばれたり、キウイという果物があることも教えてもらった。甘ずっばくて美味しかった。キウイを食べるたびに、楽屋にペタリと座って皮を剥いてくれていた二人の姿が目に浮かぶ。ピーコは衣裳の繕いものなども手伝ってくれた。後にピーコデザインの衣裳で舞台を何本かやった。いまや忙しくてそれどころではない。しかし、舞台だけは二人とも観に来てくれる。親しくなりすぎているので、ハラハラしてまともに観てはいられないらしい。身内の学芸会を見せられている心境になってしまうのだろう。そして私も何だか落ち着かなくて、彼らが来た日はたいてい科白をとちってしまう。

二人が突然ラジオ番組に出だした。久米宏さんがパーソナリティを務めていた番組で、そのなかに短いけれど二人のコーナーができた。相変わらずにぎやかだった。ひょっとして、いつも楽屋にきてたあの二人じゃない、と声に聞き覚えのある人たちが尋ねた。どんないきさつでラジオデビューしたのかは聞いていないが、ともかく二人は「オカマの双子」として、堂々と世間に知られるようになっていった。彼らの心の中では、“ゲイ”と胸を張って言いたいのだろうが、あんたたちがオカマって思ってんなら、こっちから言ってあげるわよ、なのだろう。

この番組は兄の淳之介も好んで聴いていたらしく、ある日電話がかかってきて、「おすぎとピーコの区別がついたぞ、ピーピー言うのがおすぎで、比較的おとなしいほうがピーコだ」と嬉しそうに白慢した(p133-p136)

あなたは死なない―「魂の科学」が人生を変える/イアン・カリー

暑い日が続いていますが、ご自愛下さい。

あなたは死なない―「魂の科学」が人生を変えるを読みました。とてもおもしろかったです。

著者はカナダトロント大学社会学部教授、「死」に関する講座を持ち、医学・老年医学・神学・心理学の同僚教授たちとともに、運営した。本書は、豊富な実例とともに、ゴースト臨死体験体外離脱、あの世、輪廻転生、退行催眠、カルマなどについて語る。

はったりなどのない、誠実な説明は非常に好感がもてました。

この手の本で、注意するのは、読んでて怖いか怖くないかです。なにせ、就寝前の読書が習慣なものですから、怖いのは困ります。睡眠は小さな死という話もあるので、この本を読むと、寝るのが楽しみになりましたね。語り口も平易でやさしいから、神経を静めるにはもってこいです。

ということで、この本の中で本来はあの世にいくはずの死者がなぜこの世に留まっているのかについての部分(96ページから97ページ)を紹介しましょう。

未完成の仕事

ゴーストを地上にとどまらせてしまう、多くの種類の「未完成の仕事」がある。ここにあげるタイブのゴーストは、スピリット(霊)が、「アースバウンド(地上にとどまっているスピリット)」となってしまうだいたいの状況を明らかにするだろう。

第一番目の事例は、本章の前半に出てきた、せっかくお金をかけて内装を手入れしたのに、ゴーストのために住めなくなった家の事例である。ニューヨーク州ロックランド郡のダントン・ウォーカー氏の家にいたゴーストである。彼は、ポーランド系の移民だった。アメリカ独立戦争のときには、アメリカ兵として従軍した。彼は、秘密の軍事計画文書を運んでいる途中に、英国軍に捕らえられ、残忍な拷問にかけられた。その結果、精神に異常をきたし、数年後に死んでいた。そして、いまだに「捕虜となる前にかくした機密文書を守りぬくことだった。彼は、そのことにいまだにとらわれていたのだった。パーク・アベニューに開業している精神科医のL医師は、トランス・サイキックであるアイリーン・ギャレットの協力を得て、この「存在」と対談し、救っている。

そして、その日から、幽霊現象はやんだ。

次の「未完成の仕事」が原因の幽霊現象の事例ぱ、先の事例に比べるとドラマチックなものではない。

退役した「現実的な性格の」英国海軍将官の家族に起こったできごとである。彼の二人の息子たちが、彼に次のようにうったえはじめた。夜、息子たちが部屋で寝ているときに.「何者か」が部屋にいるというのである。二人の息子は、音を聞いていた。そして、朝には、寝る前に脱いだ靴が、移動されているごとに気づいていた。母親も、その足音が聞こえていたことを認めた。それに、ある日その元将官がスコッチウイスキーのソーダ割りを飲んでいると、ひとりでにそのグラスが移動して、床に落ちて割れた。二、三日後には、今度は、その元将官が使っていた水差しが、同じようにして割れた。彼は、何かおかしなカが働いていることを認めざるをえなかった。トランス・サイキックの助けを借りることを助言され、トランス・サイキックのアイリーン・ギャレットがこの事例を扱うことになった。そして、この家の母親の死んだ弟が起こしていた現象だったと判明した。彼は、二年前に精神病で死んでいた。彼は、その病気のときに、遺言書を作成していた。その中で彼は、最愛の妻には何も残さないで、白分の家屋を遠縁の従兄弟にゆずるとしていたのだった。死後、彼は自分のしたことを悔やみ、どうにかその状況をただそうとして、必死だったのだ。それで、姉の家族の注目を引くために、音を立てたり、物品を移動させたりしていたのだ。彼のこういった試みは成功した。そして、この幽霊現象もやんだのである。

ここまでの事例から、以下のごとが明らかとなった。つまり、どのようなことであれ、故人がやり残していると感じている気がかりな「未完成の仕事」があれば、それが故人を地上に(肉体がなくなっているのに)とどまらせてしまうということだ。単に、その故入が重要だと思い込んでいるものでありさえすればよい。